あやふやな記憶
「う……ん……」
「レナ? 気が付いた?」
「や……もう、少し……だけ」
だって、すごく気持ちいい……。
ようやく訪れた心地よい眠りを、もう少し貪っていたかった。
それに、このまま眠っていても絶対に大丈夫だという、不思議な安心感があった。
レナエルは呼びかけられた方向にごろりと寝返りを打つと、毛布を首もとに引き寄せて包まった。
しかし、首に巻き付いたのは、いやにごわついた感触。
おまけに、冷たく硬いものが頬をかすめて、びくりとなり、一気に覚醒した。
はっと目を開くと、そのまま息を飲む。
「よかったぁ……。レナったら、二日間も眠っていたのよ。気分はどう?」
心配そうに顔を覗き込んでいる自分と同じ顔。
久しぶりに聞く肉声。
ずっとその身を案じ、行方を追っていた姉のジネットが、すぐ目の前にいた。
「ジジっ! 良かった! 助かったのね!」
慌てて身を起こし、姉に抱きつこうと両手を伸ばす。
しかし、右手が毛布に邪魔されて自由が利かなかった。
「え? 何、これ?」
目を向けると、黒くて重い、ごわついた分厚い感触の布地を、しっかりと握りしめている。
どれほどきつく握っていたのか、指が強ばっていて手を開くのも難しい。
しかしそれは、明らかに毛布ではなかった。
よく見ると黒だと思った色は濃紺。
金糸の縁取りや、ボタンらしき金色の丸いものが付いている。
「これって……制服? ジュールの?」
「そうよ」
姉に肯定されなくても、目の前に持ち上げたときにふと香った匂いが、彼の物であることを示していた。
「どうして、あたし、こんなものを握りしめてるの?」
「それは、わたしの方が聞きたいわ。レナがどうしても放さなかったから、そのまま一緒にベッドに入れたのよ。ジュールもそうしろって、言ってくれたし」
にまにましながら説明する姉に、レナエルは首をひねった。
「放さなかった? あたしが?」
眠っていた自分に、彼が掛けてくれたのだろうとは思う。
だけど、自分がそれを、指が強ばるほど握りしめていたことが、どうにも解せなかった。
ギュスに騙されて馬車に押し込まれて、眠り薬を飲まされたのよね。
……それから、どうなったんだろう?
姉との再会の感動もすっかり吹き飛んでしまい、頭を抱えて記憶をたぐり寄せる。
しかし、薬を飲まされて以降のことは、記憶が断片的で、霧がかかったように朧げだ。
それが現実だったのか、夢を見ていたのかも分からなかった。
そうだ、ジュールが助けにきてくれた……んだっけ?
「ねぇ。誰がジジを助けてくれたの?」
「ジュール・クライトマンに決まってるじゃない!」
「……だよね。薬のせいで、記憶がぐじゃぐじゃ。でも、よかったぁ。ジジが無事で」
呆れた顔をする姉に改めて抱きつこうとすると、いきなり伸びてきた大きな手に、濃紺の制服を奪われた。
「やっと目が覚めたか」
「ジュール!」
「……ったく、制服がよれよれだ。どうしてくれる」
彼はベッドの上のレナエルをぎろりと見下ろすと、取り返した制服をばさばさと払ってから、袖を通した。
ぴしりとした印象の制服は、全体的にくたびれて見え、レナエルが握りしめていた前立てはぐにゃりとした癖がついている。
「う……ごめん。その制服、ジュールが貸してくれたの?」
自分以外の当事者であるから聞いてみたが、彼は答えを拒否するように、視線を外して金ボタンを掛け始めた。
眉間には深いしわ。
彼には珍しくはないことだが、非常に機嫌が悪そうだ。
その原因は、当然……自分だ。
薬を飲まされる前のことなら、すぐに鮮明に思い出せた。
「怒ってる……よね? 部屋から出るなって言われていたのに、勝手にギュスに付いていって捕まってしまったんだから」
「いや、もういい。そのことについては、たっぷり怒鳴りつけたから気が済んだ。お前の記憶にないのなら、最初からやり直してやってもいいが」
そらせた横顔の口元が、嫌な形ににやりと歪む。
そこに、ほっとしたような表情が浮かんでいることに気付かないまま、レナエルは彼の不穏な申し出をあわてて退ける。
「わわっ、大丈夫。憶えてるからっ! すっごい大声で、がんがん怒鳴られたもん。でも……あれ? あたし、あんなに怒鳴られてたのに……」
嫌じゃなかった……気がする?
どうして?
薬のせいか、遠くで轟く雷鳴を聞いていたような気分だったが、確かに、ものすごい勢いで怒鳴られていたのだ。
それなのに、身体の中心に微かに残る、ふわりとした幸せな気分の正体は何だろう……。
記憶があやふやなのがもどかしい。
何か重要なことを忘れている気がする。
「あたし、あの時、何かした? 怒鳴られた以外に何かあった?」
とんでもないことをやらかしたのかもしれないと不安になり、すがるように問いかけると、立て襟の留め金を留め終えたジュールが、ちらりと視線をよこした。
「そんなに、聞きたいか?」
「う……」
彼のいたぶるような表情に、もう、嫌な予感しか沸いてこなかった。
聞きたい。
だけど聞くのが怖い。
でもこのままでは、彼に弱味を握られているようなものだ。
うわぁぁ。
あたし、一体、何をやっちゃったの?
頭を抱えて身もだえていると、「そんなことより」とジュールはあっさり話を変えた。