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沈む意識に差す光

 ここは……どこ?


 身体が、真っ黒な冷たい泥の中にゆっくりと沈み込んでいくようだ。

 冷えきった手足は重くて動かない。

 どこまで沈んでいっても、永遠に止まることのない気がした。

 こんな得体の知れない感覚はこれまで味わったことがなく、恐怖しか感じなかった。


 ジュール、助けて!

 ジュール!


 普段だったら絶対に口にするはずのない言葉を、何かに必死にすがろうとする無意識が叫んでいた。

 しかし、声など出るはずもない。

 耳も口も塞がれて、ずぶずぶと闇に深く沈んでいく。


 そのとき、がたんという大きな音と衝撃を感じて、ふうっと意識が浮かび上がった。


 あたし、眠っていた……の?


 けれども、瞼が重くて目が開けられない。

 身体はまだ、深い泥の中に沈んでいるようで、指一本動かすことができなかった。


「なんだ? 何があった」


 すぐ近くで知らない男の声が聞こえた。

 慌てたように動く気配がする。


 がちゃりと聞こえた音は……扉を開けた?


 レナエルは、霞がかかったような意識の中で考える。


 そうか、あたし、捕まっちゃったんだ。

 ギュスに馬車に押し込まれて、無理やり薬を飲まされて……。

 ああ、そうか、あれはジジが飲まされたものと同じ、眠り薬だったんだ。


「お前は出てくるな! 中で娘を見張ってろ!」


 別の男の怒鳴り声が遠くから聞こえてきて、急いで扉を閉める音がした。

 外がひどく騒がしい。

 男の叫び声や馬のいななきが聞こえてくる。

 剣を交える激しい音も響き始めた。


 何が起こっているの?

 もしかして、ジュールが……?


 気を抜くと泥の中に引きずり込まれそうな意識を必死につなぎ止め、レナエルは気力を振り絞ってかすかに目を開けた。


 自分が横たわっているのは、馬車の座席の上。

 足元側の窓には、貼り付くように外の様子を見ている小柄な男の背中がある。

 馬車の中にいるのは、どうやら、この男だけのようだ。


 なんとか、この男を倒さないと!


 幸い、男は外に気を取られている。

 しかし、今が絶好のチャンスなのに、眠ったままの身体は言うことをきかない。


「なんだ、あの化け物は! 俺はどうすりゃいいんだ」


 窓の外を見ている男が、徐々に焦りを見せ始めた。

 外から聞こえてくる騒動は、この男にとって不利な方向に進んでいるようだ。


「……いや、この娘を人質にすれば、逃げられる」


 窓の外を見ていた男は、ゆっくりと振り返ってにやりと笑うと、レナエルに手を伸ばしてきた。

 膝立ちになった男の腰に、短剣が差してあるのがちらりと見えた。


 嫌だ!

 もう、これ以上、お荷物にはなりたくない!


 男の手が、まさに肩に触れようとしたとき、レナエルは必死に身をよじって座席から転げ落ちた。

 驚いた男がとっさに身体を引いた瞬間、男の腰から短剣を抜き取り、歯を食いしばって、その手を勢い良く上に振り上げる。


 がつんという鈍い音がして、短剣の柄が男の顎にぶち当たった。


「ぎゃあああ!」


 男が悲鳴を上げてのけぞった。


 レナエルは必死に立ち上がると、両手で顎を押さえた無防備な男のみぞおちに、全体重をかけた右ひじをめり込ませた。

 同時に、男が後頭部を壁に打ち付けた派手な音が響く。

 男はぐっと詰まった声を上げると、馬車の扉に背中を預けてずるずると崩れ落ち、そのまま動かなくなった。


 やった……わ。


 力つきたレナエルは、乗りかかっていた男の身体からずり落ちて、床にうつぶせに倒れ込んだ。

 足先から真っ黒な泥の中に引きずり込まれるような感覚に、全身が凍り付いていく。

 身体はもう、ぴくりとも動かない。


 怖い。

 眠りたくない。助け……て。


 しかし、必死に抵抗を続ける意識も、闇に塗りつぶされつつあった。


「レナっ!」


 その声に、意識を覆う闇に、少しだけ光が射した気がした。


「レナ! 大丈夫か。しっかりしろ! レナ!」


 自分では動かすことができない身体が、力強い腕に抱えられて、仰向かされる。

 頬を軽く叩かれ、切羽詰まった低い声で何度も名を呼ばれた。


「ジュー……ル?」


 どうしても目を開けることができなかったが、なんとか掠れた声が絞り出せた。

 彼が、ほっと息をついたように感じた。


「大丈夫か? 怪我はないか?」


 本当にジュールなのかと思うほど、耳に心地よい、優しい声だ。


「……ん。く……すり。……眠く、て」

「薬のせいで眠いだけなのか? 身体は大丈夫なんだな?」

「……ん。見張り……の、男……は?」

「馬車から転がり落ちてきた奴のことか? もしかして、お前がやったのか?」

「う……ん」


 この答えで、彼の声は一変した。


「この……っ、馬鹿! 無茶なことはするなと、あれほど言っただろう!」

「だっ……て」


 このままでは、人質として利用されそうだったから。

 これ以上、ジュールのお荷物になりたくなかったから。


 そう弁明したかったが、もう気力が続かなかった。

 それに、そんなことを言ったら、さらに怒鳴られそうな気がして口をつぐむ。

 しかし、それは全く意味がなかったことを、直後に思い知らされた。


「この馬鹿! だいたい、なぜギュスになんかついて行ったんだ! なぜ、自分勝手な行動をした! なぜ、俺が戻ってくるのを待たなかった! お前がそんな調子では、守りたくても守れないだろう!」


 狭い車内で延々と響く怒鳴り声は、うるさいなんてものではなかったが、おかげで、なんとか意識を留めておくことができた。


「俺がどれだけ……」

「心配……して、くれ……た、の?」

「当たり前だ!」


 そう噛み付くように怒鳴られた直後、レナエルは上半身が縛られたようになった。

 大きく重いものが自分に覆い被さっている。

 しかし、今のぼんやりとした頭では、何が起こったのか分からなかった。


「どれだけ心配したと思っているんだ」


 苦しげな低い声がすぐ耳元で聞こえ、吐息が首筋に触れて、ようやく自分が彼に抱きしめられていることを知る。


 こんなにも、彼に、心配をかけていた……。


「ご……め、なさ……い。ジュール。あた……し」

「お前が無事で、よかった。……レナ」


 さらに抱きしめる腕は強く、息苦しいほどだったが、それに勝る安堵感が身体を包み込んでいた。

 凍り付いていた手足に、全身に、ゆっくりと温かな血が通っていくようだ。


「あ……」


 ありがとうと伝えたかったが、怒鳴り声が途切れたせいで、意識が急速に遠のいていく。

 だけどもう、眠りに落ちることは怖くない。

 あまりにも心地よくて、ふわふわと幸せだった。


「レナ? 眠ってしまったのか?」


 レナエルの反応がなくなってしまったことに気付き、ジュールが腕を解いて身体を起こした。


 そのとたん、温かく幸せな場所から、一気に冷たい泥の中に落とされた気がした。

 怖くて。

 心細くて。

 自由の利かない手を必死に伸ばす。


「あ……いや。行か、な……い、で」


 理性はもう眠ってしまった。

 今、レナエルを動かしているのは、もっと本能的なものだ。

 恐怖から自分を守ってくれる、力強い存在に包まれていたかった。

 安心できる場所から離れたくなかった。


 自分がどういう状態になっているのか、もう意識できない。

 ただ、暗闇の中で光を求めるように、こごえる身体が炎を欲するように、無意識が彼を求めていた。


 レナエルの望むものは、すぐさま与えられた。


 離れかけた身体はまた引き寄せられ、強く優しい中にすっぽりと包まれた。

 その温かさと彼の匂いを感じると、恐怖感はあっという間にかき消された。

 強ばっていた身体からふっと力が抜け、穏やかな眠りが訪れようとしていた。


「ありが……と……」


 完全に意識が途切れる直前、どうしても伝えたかった言葉を必死に告げると、柔らかく優しい温もりが、唇に触れた気がした。


「それほど言うのなら、これは褒賞としてもらっておいてやる」


 そう耳元で囁かれた言葉は、もう聞こえなかった。




「ジュール。兵たちが到着します」


 馬車の外から聞こえてきた従騎士の声に、ジュールはゆっくりと身体を起こした。

 耳を澄ませると、確かに多くの蹄の音が近づいてくるのが聞こえる。

 王城を発つ前に手配した部下たちが追いついたのだろう。


「ああ。今、行く」


 腕の中のレナエルは完全に深い眠りに落ちてしまったらしく、身体を離しても、声を上げても、もう動くことはなかった。


 そっと閉じられた瞼には、ゆるく曲線を描く長い金色の睫毛。

 半開きの赤い唇は、幸せそうに緩やかな笑みの形を作っている。

 微かに感じる心地良さそうな寝息。

 ふにゃりと柔らかで軽い身体。自分を信頼し切ったような、無防備な寝顔。

 なめらかな頬に浮かぶ薄いそばかすに、初めて気付く。


「こうやって黙っていれば、少しは女らしく見えるがな」


 実際には騎士馬を操り、剣を振り回す、とんでもない小娘だ。

 ついさっきも、まともに動けない身体で、男を一人倒したらしい。


 苦笑しながら、腕の中の温もりを座席の上にそっと下ろそうとすると、上着がぴんと引っ張られた。


「え?」


 驚いて目を落とすと、金色のボタンが並ぶ濃紺の上着の前立てを、しっかり握る手があった。


 ジュールはその手をじっと見つめてから、安心し切ったように眠る彼女の顔に、ゆっくりと視線を移した。

 じわりとこみあげる思いが、知らず口元を緩ませる。


「ジュール。指示を!」


 馬車の外から再度名を呼ばれ、名残惜しさに小さく息をつく。


「待ってろ。お前の姉は、俺が必ず助け出してやる」


 放すまいとする手をそのままに、ジュールは手早く紺色の制服の上着を脱ぐと、座席に横たわるレナエルにそっとかけた。

 そして、自分の制服に半分埋もれた明るい金の髪をくしゃりと撫でると、馬車を降りた。

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