二人の筆頭騎士
意識のないレナエルを乗せた馬車は、王都の北東をアルラ湖に向かってひた走っていた。
馬車の前後には男を乗せた馬が二頭ずつ、馬車を守るように走っている。
先頭は、他の馬よりも一回り以上大きい、堂々とした体躯の銀色の騎士馬だ。
その背には、一つに束ねた銀色の髪を風になびかせた男が跨がっていた。
その隊列を小さく見下ろす丘の上に、漆黒の騎士馬に乗った男がいた。
「ギュス」
ジュールは奥歯をぎりりと噛むと、愛馬の腹を強く蹴った。
十分な休息も取れぬまま、昼夜問わずに走り続けたジュールの馬は、それでも主の思いを受けて速度を上げた。
たてがみに施された三つ編みを振り乱し、力強く土を蹴り、目標との距離をどんどん詰めていく。
すぐ目の前に迫った隊列は、馬車の車輪が軋む音と自らの蹄の音に紛れ、別の馬が迫って来ていることに、まだ気づいていない様子だ。
ジュールは腰の長剣を鞘ごと取り外して右手に握り、後方に大きく振り上げた。
そして左手で手綱を操り、馬車の左後方を走る馬のギリギリに寄せる。
前方に間近に迫った男が、殺気立った気配に気付き振り向こうとしたが、そんな暇は与えなかった。
鋭く振り抜いた腕に重い衝撃がかかり、鈍い音と共に男が前につんのめる。
次の瞬間、男は馬上から消えた。
「うわあああ!」
叫んだのは難を逃れたもう一人の男だろうが、既に追い抜いていたジュールの視界からは消えていた。
馬が嘶く声と、乱れた蹄の音を後ろに聞きながら、漆黒の騎士馬は馬車の横を力強く駆け抜ける。
いきなり現れた鬼気迫る姿に驚いた御者が、馬車を急停止させるのを横目で確認した後、馬車のすぐ前を走る馬に乗った男も、一瞬のうちに地に叩き落とした。
そこまでは、あっという間だった。
先頭を走る銀色の馬上の男は、後方の異常に気づいているはずだが、振り返ることも、馬を止めることもしなかった。
堂々とした騎乗姿の背中は、さすがに、僅かの隙も感じられない。
ジュールは少し距離を取って、彼の馬の横を走り抜けた。
二頭の騎士馬が並んだ一瞬、ギュスターヴが冷え冷えとした怒りを宿した、琥珀色の瞳をちらりと向けてきた。
ジュールは道の少し先で手綱を引いた。
大きく棹立ちになった愛馬は、興奮した嘶きを上げ、躯を旋回させた。
ギュスターヴも行く手を塞ぐ黒馬の前に、馬を止めた。
「ギュスターヴ・ルコント。貴様、一体、どういうつもりだ!」
馬上の二人は、今度は真正面から睨み合った。
憤怒の炎を浮かび上がらせたジュールの視線を受けて、ギュスターヴは口元だけを笑みの形に歪めると、前髪をかきあげる。
「ふ……。お前とは一度、本気で剣を交えてみたいと思っていたんだ。黒隼の騎士」
「ふざけるな!」
「できれば、このまま逃げ切りたかったのだがな。しかし、ここでお前を倒せば、私はリヴィエ王国一の騎士であると、証明されるだろう。ゲーアノート陛下もお喜びになる」
「な……んだと?」
ジュールは耳を疑った。
彼が口にした名は、リヴィエ国王のそれではない。
オクタヴィアン辺境伯領と国境を接する大国、ビンデバルト帝国皇帝のものだった。
「この国を裏切るつもりか! お前は、第二王子殿下の筆頭騎士だろう!」
「ふん。第二王子の筆頭など、所詮二番手。何の価値もない。ゲーアノート陛下は、こんな私を帝国一の騎士にすると約束してくださった。この国の北の国境に、突破口を開くことを条件にな!」
「ばかな……。北の国境を守る辺境伯は、お前の伯父だろう!」
「それがどうした。オクタヴィアンには私の踏み台になってもらう。そして、あの希有な能力を持った双子は、皇帝陛下への手みやげだ。きっと、陛下がリヴィエを手中に収めるための、お役に立つだろう」
ギュスターヴは胸の奥の黒い欲望を口にすると、ひらりと馬から下りた。
「貴様には、騎士の誇りはないのか!」
「そんなもの、最初から持ち合わせてなどいない。さあ、私と剣で勝負しろ。お前は騎士の誇りとやらを賭けるがいい。自分の手で、この国を守りたいのならばな!」
嘲るように挑発するギュスターヴに、ジュールの心は逆にすうっと冷えていった。
彼は決して気の合う相手ではなかったが、同じ筆頭騎士としてそれなりの敬意を払い、実力も認めていた。
しかし、今、目の前にいる男は気高い騎士などではない。
敵国に寝返り、目的のためにレナエルたちを利用しようとしている、ただの悪党だ。
「いいだろう。受けて立つ」
馬を降りたジュールは、ギュスターヴと向かい合うと剣を抜いた。
「ギュスターヴ様!」
馬車の後ろからついてきていた男が、剣を抜いて駆け寄ってきた。
「手出しするな!」
ギュスターヴはその男を一喝すると、すらりと腰の長剣を抜いた。
身体の右前に剣を立てた、正攻法の構えを見せる。
対するジュールは、剣を右頬の横に掲げ、突きの姿勢に構えた。
互いに、じりじりと間合いを詰めながら、相手の隙を探る。
最初に動いたのはジュール。そこから、凄まじい攻防戦に転じていく。
高い金属音が、絶え間なくあたりに響く。
騎士団での立場が同じ二人は、力強さと俊敏さを併せ持つ、同じタイプの戦い方をする。
その実力は全くの互角と言えた。
何度か激しく打ち合い、互いに広い間合いを取った時、道の向こうから一頭の馬が駆け寄ってきた。
「ジュール!」
その声にちらりと視線を向けると、馬上に従騎士のダヴィドが確認できた。
「一体……何が……」
少し離れた場所に馬を止めた従騎士は、この国の一二を争う騎士たちが剣を構えて睨み合う光景に、呆然となった。
前日から今までの経緯を知らない彼に、何が起こっているのか理解できないのは無理もない。
「ダヴィド! ジネットは見つかったか?」
視線を正面に戻しながらのジュールの声に、ダヴィドがはっと我に返る。
「は、はい。オクタヴィアン家の別荘に!」
その答えに、ギュスターヴが忌々しげに舌打ちした。
「ダヴィド、こっちは手出し無用だ! 他の奴らを押さえろ!」
ジュールはそう叫ぶと、相手に鋭く斬り込んでいった。
どちらも一歩も引かない凄烈な戦いぶりだ。
しかし、ギュスターヴは奇妙な違和感を感じ始めていた。
少しずつ、相手の剣とのタイミングが合わなくなってきているのだ。
剣を弾き返すつもりが、僅かに押し込まれる。
余裕でかわしたつもりが、剣の軌跡が身体のギリギリを通っていく。
ギュスターヴの顔に、疲労と焦りの色が浮かんできた。
彼は、ジュールが硬軟を自在に扱える騎士であることを知らなかった。
ギュスターヴほどの剣の使い手であれば、相手が曲線を描く剣を僅かに交えていることに、途中で気付いてもおかしくはない。
しかし、自分と同じタイプだとの思い込みと、この国一の騎士と賞賛される男を力でねじ伏せたいという強い欲望が、目を曇らせていた。
「くそっ!」
重心がぶれたまま、苦し紛れに繰り出された剣を、ジュールが優雅な動きで手首を返し、裏刃で受けた。
銀色の細い刃の上を、力任せの剣が滑り落ちて行くその技は、王太子シルヴェストルと同じ。
そのことにギュスターヴが気付いた時には、もう遅かった。
バランスを崩されて落ちた切っ先を、ジュールの剣が下から大きくすくいあげるように、弾き飛ばした。
「終わりだ。ギュスターヴ・ルコント」
弾いた剣が地面に落ちる音が聞こえるより先に、ギュスターヴの目の前に、鋭い切っ先がぴたりと突きつけられた。