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老医師の孫

 霧のような雨が、音も立てずに落ちる昼下がり。


 ジネットは、豪華な昼食を少しだけつついた後、病人らしくベッドに戻って本を開いた。

 退屈しのぎに経済本を要求したのに、差し入れられたのはくだらない恋愛小説。

 少し読んだだけで胸焼けがして、本を放り出した。

 薔薇の花柄が織り込まれた薄い布地が波のように張り巡らされた、居心地悪いほど甘ったるい天蓋を、ぼんやりと見上げる。


「そろそろ、こっちに到着したかしら……?」


 二日前の午後、セナンクール本店に甘露粉薬を買いにきた男の後を、ダヴィド・フレジエという名の男がつけていったと、レナエルから連絡があった。

 予定通りなら今日中に、いつもの老医師がその偽薬を持って診察に来るだろう。


 王城で暇を持て余しているらしいレナエルからも、朝から何度も「ダヴィドは、まだ来ないの?」と、催促があった。


 だけど、ここは三階。

 どうやって忍び込んでくるのだろう……? 


 そんなことを考えているうちに、いつの間にかうとうとしていた。


「ジネット様、お医者様がいらっしゃいました」


 自分の身の回りの世話を任されているメイドの声で、はっと目を覚ました。

 ゆっくり首を回してみると、枕元に彼女と見知らぬ若い男が立っていた。


 男はありふれたシャツとズボンに、白い上着をはおり、いつも老医師が持っている箱形の鞄を手に提げていた。

 かなり上背があり体格が良く、少し癖のある赤毛を後ろで一つに束ねている。

 丸いレンズの眼鏡の奥は、人なつっこい緑の瞳だ。


 もしかして、この人が……ダヴィド・フレジエ?


 事前に妹から聞かされていた彼の風貌と、眼鏡以外が一致した。

 問うような眼差しで見上げると、男はにっこりと笑いかけてきた。


「すみません。じいちゃんが急にぎっくり腰になってしまって。できるだけ早く薬を持っていかなきゃって言うので、僕が代わりにきました。あ、僕も一応医者なんで、心配いりませんよ。たまたま休暇でこっちに来ていてね……」


 男は朗らかに話しながら、ベッドサイドの小机の上で鞄を開いた。


「あ、これこれ。この薬、すごく高いんですよね。僕もこれまで二、三回しか使ったことないんだけど、高いだけあって良く効くんですよね」


 明らかな嘘をぺらぺらとしゃべりながら、男は鞄の中から青い薬包を取り出した。


 ジネットが病に倒れた責任を問われるかもしれないと恐れていたメイドは、男の説明に、ほっとした表情を浮かべている。

 ジネットの演技にも、目の前の偽医者にも、すっかり騙されているようだ。


「飲ませて差し上げますよ」


 男はベッドの端に腰掛けて、包み紙を開いた。

 中には白い粉が入っている。


「さ、大きく口を開けて。かなり甘い薬だから、むせないように気をつけて」


 彼はジネットの肩に腕を回して身体を支え、甘い粉砂糖を口に振り入れながら、耳元でそっと囁いた。


「僕はダヴィド。詳しくは後で説明します」


 その後は素知らぬ顔で、グラスの水を手渡す。


 レナエルは口いっぱいに広がった甘味を水で喉に流し込むと、ほっと息をついた。


「この薬は即効性だから、すぐにお腹が空いてきますよ。どうですか?」

「あ……そういえば、お腹が空いてきたみたい」


 笑いをこらえながら話を合わせると、彼は満足そうに「でしょ?」と相づちを打ち、それからメイドを見た。


「もう大丈夫ですから、すぐに何か消化の良い食事を準備してあげてください」

「はい、今すぐ」


 彼女は嬉しそうにそう答えると、そそくさと部屋を出て行った。


「さて……と。あの人、本当にすぐに戻ってきそうだから、手短に。まず、この場所だけど、あなたの予想通りアルラ湖の西岸。オクタヴィアン辺境伯の別荘です」

「オクタヴィアン……? なぜ彼が?」


 ジネットが言葉を切って考え込んだ。


 オクタヴィアン辺境伯領は、ジネットの監禁場所として、最初に候補に挙がった場所だ。

 その推測は、その後否定されたのだが、不思議とまた、同じ名が挙がってしまった。


 オクタヴィアン家は、代々、北の大国と接する国境を守る家だ。

 現在の当主も、厳格な将軍として名を馳せている。

 仕事柄そのことをよく知っているジネットは、最初から、辺境伯がこの件に関わっているはずがないと思っていた。


「国境を守る上で、わたしたちの力が役立つと思ったのかしら? でもそれなら、こんなことをする必要はないわよね」


 不穏な動きのある国境警備の為であれば、不思議な能力を持つ双子に正式な命令を下すこともできるだろう。

 無理矢理誘拐したり、懐柔するかのような過剰に贅沢な扱いをする必要はないはずだ。

 どう考えても、正当な目的の為ではない。


 きらびやかな部屋をぐるりと見回したジネットに、ダヴィドも同意する。


「だよね。辺境伯の仕業とするには不自然すぎる。だけど今はそんな推理よりも、あなたを助け出すことが先決だよ。これから言うことを、レナに伝えてくれる?」

「分かったわ」

「屋敷の警備は厳重だけど、ジュールと僕と、腕の立つ兵が七、八人いれば制圧できる。アルラ湖南のコシェという酒場で待つ。……これに、この場所がアルラ湖の西岸のオクタヴィアン辺境伯の別荘であることを添えて、伝えてみて」


 ジネットはこくりと頷くと、目を閉じた。


『レナ、お待たせ! ダヴィドが到着したわ』


 しかし、妹からは何の返事も返ってこなかった。


『ねぇ、聞いてる? …………レナ?』


 どうして?

 わたしからの連絡を、心待ちにしているはずなのに……?


 嫌な予感が胸をよぎり、ぞくりと背筋が冷える。


 もう一度強い調子で呼びかけてみたが、結果は同じだった。


 まさか。


「どうしたの?」


 目を見開いて呆然とするジネットの顔を、ダヴィドが横からのぞきこんだ。


「レナから返事がないの。何かあったのかも……」

「返事ができないほど、忙しいとか?」

「そういうときは、後で、って一言返すことになってるわ。眠っていたとしても、あれだけ強く呼びかけたら気付くはず」


 これまで、妹が呼びかけに答えなかったのは、王城に着いた直後に高熱で気を失ったときだけだった。

 いつもはどんな時でも、たとえそれが真夜中で熟睡していたとしても、必ず返事は返ってきたのだ。


『レナっ! どうしたの! 何があったの? 返事してっ!』


 両手で頭を抑え、叫ぶように必死で呼びかけてみたが、やはりだめだった。


「まさか、あの子まで捕まって……」


 これだけ呼びかけても返事がないのは、そうとしか考えられなかった。

 自分が攫われたときのように薬で眠らされているか、気を失っているか……。

 最悪の事態も頭をよぎったが、それはありえないと心の中で強く否定した。


 口元を両手で覆って震えるジネットの背中を、彼がなだめるようにさすってくれた。


「向こうの状況が分からないから何とも言えないけど、その可能性は高そうだね」

「どうしたらいいの……」

「僕はすぐに王都に引き返すから、君はレナに声をかけ続けてくれる? もし連絡がついたら、ジュールに兵をこちらに向かわせるよう伝えてもらって。多分、途中で落ち合える……」


 ダヴィドがそこまで言ったところで、部屋の扉が開いてメイドが入ってきた。


「食事をお持ちしました。ベッドまでお運びしましょうか?」

「いいえ。テーブルに並べてちょうだい」


 ジネットは動揺を悟られないよう、気丈な声で命じた。


「何の心配もいりませんよ。これからはちゃんと食事して、しっかり休んでくださいね。数日のうちに、必ず元通りになりますから。さぁ、立てますか? 僕につかまって」


 ダヴィドは目配せすると、右手を差し出した。

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