つかみ所のない王太子
三人は、従者が開けてくれた大きな扉から、王太子殿下の執務室に入った。
広い部屋の真ん中には、白い長方形の大きなテーブルが置かれ、背もたれの高い白い椅子がぐるりと囲んでいる。
右手の壁は、床から天井までの作り付けの書棚にぎっしりと本が詰まっており、左手の壁は大きな地図が数枚。
部屋の奥の大きな窓を背にして、王太子個人の大きな机がある。
王太子の執務室だというのに飾り物の類いは一切なく、レナエルが使っている部屋の方が何倍も豪華だった。
「レナエル・クエリーをお連れしました」
「やあ、来たね」
ジュールが声をかけると、窓際に立っていた王太子が、ゆっくり振り返った。
窓から入る光にきらきらと縁取られた蜂蜜色の髪に、襟元と袖口にたっぷりのレースをあしらった純白のシャツを身に着けたその姿は、背中に羽がないのが不思議なくらいだ。
彼は、無機質で殺風景な空間の中で、清らかな異彩を放っていた。
「ああ、そのドレス、とてもよく似合うね。君には絶対、オレンジ色が合うと思っていたんだ。空色と迷ったんだけど……うん、やっぱりこっちでよかった」
王太子は満足そうに言いながら、軽やかな足取りでこちらに近づいてきた。
そうか、このドレスは殿下の見立てなんだ……。
「あ……りがとうござい、ます」
レナエルは恨めしい思いでいっぱいだったが、引きつった笑みを浮かべて、礼を述べるしかなかった。
「ささ、座って」
恐れ多くも、王太子自らに椅子を引かれ、こわごわ椅子に腰掛ける。
「もう熱は下がったんだよね。身体は辛くない? スリーズのクラフティは好きかい? 苦手だったら別のお菓子を準備させるけど、どうかな?」
王太子はレナエルの隣に座り、両手でテーブルに頬杖をついて、少年のように屈託なく話しかけてきた。
しかし、その美しい顔に添えている手は、そこだけ別人のように無骨だ。
「ジュール、リヴィエ全土の地図を。大きい方だ。ダヴィドは僕の机の引き出しにある報告書の束をここへ」
レナエルとのにこやかな雑談の合間に、騎士たちに短い指示を出す声質や口調は、堂々とした権力者のそれだった。
濃紺の制服を着た二人は、慣れた様子で、てきぱきと指示に従っていく。
シルヴェストル殿下って一体……どういう人?
どうしてもイメージが一本化できない、つかみ所のない王太子の姿にとまどう。
今はダヴィドに指示を出しながら、王太子の表情をしている彼の横顔をのぞき見ると、それに気づいた彼が「ん?」と小首をかしげた。
テーブルの上に大きな地図が広げられ、書類や書簡の束、そしてなぜかチェスの駒が入った箱が置かれた。
香り高いお茶が注がれた、白い三つ足のティーカップは四つ。
レナエルの前だけに、二種類のクリームが添えられたクラフティの皿が置かれていた。
「さて、始めようか。昨日のうちに、ジュールからだいたいの話を聞いたんだけどね、レナのいるところで整理してみよう。あ、レナ、ケーキも食べて。おかわりもあるから遠慮しないでね」
後半で緊張感が抜け落ちた王太子の言葉で、まずダヴィドが立ち上がった。
「では僕から……」
彼はジュールの従騎士だから同席しているのだと思っていたら、ジネットが誘拐された後の調査を任されていたらしい。
彼から細かな説明があったが、ほとんど手がかりがないということだった。
ただ、ジネットが豪華な馬車で連れ去られたということが分かったため、再度調査するとのことだった。
続いてジュール。
ジネットから聞かされた情報を元に、目印として地図の上にチェスの駒を置いていく。
説明をしながら置いた駒を動かしたり、足したりしていく。
最終的には、ジネットが推測しているように、北の国境にあるオクタヴィアン辺境伯爵領あたりか、東の山岳地帯の手前の地域が怪しいという話になりかけた。
「でも、手がかりがラバーナムの花だけじゃ、弱いよねぇ。ねえ、今、お姉さんと話ができる? どうやって話をするのか見てみたいな」
王太子が子どものように瞳を輝かせて、レナエルを見た。
「……はい。少しお待ちください」
レナエルは目を伏せて、ジネットに呼びかけた。
『ジジ、今、話せる?』
『うん、誰もいないわ。どうしたの?』
『あのね、シルヴェストル殿下がジジと話してほしいって。ジジに聞きたいことがあるんじゃないかな』
『……分かった』
昨日、王太子に会ったということを話しておいたから、ジネットもこうなることは予想していたはずだが、やはり相手が大物過ぎる。
覚悟を決めたような、硬い声が返ってきた。
レナエルが目を上げて、ちらりと王太子を見ると、それが合図だと理解して、彼は嬉しそうに表情をほころばせた。
「今日の王都はとってもいいお天気だよ。そっちはどう? ……って聞いてみて」
なにそれ? と思ったが、そのまま姉に天気をたずねた。
どんな質問が来るかと身構えていたらしい姉は、拍子抜けしたようだったが、すぐに答えが返ってきた。
「晴れているみたいです。でも、ちょっと肌寒いって」
「じゃあ、昨日、雨は降ってなかった?」
『昨日は……お昼近くまで雨が降っていたわ。降り始めは、前日の夕方ぐらいかしら? でも、どうしてそんな話……? あ、そういうことか。じゃあ、王都の天気はどうだったのかしら?』
ジネットはすぐに、王太子の質問の意図を掴んだようだ。
答えと同時に質問を返してきた。
「王都では、雨は一昨日の早朝から降っていて、ジュールたちが到着してしばらくしてから止んだんだよね。だから、天候の変わり方から考えても、王都の東にいる可能性は高いね」
王太子がにっこり周りを見回すと、ジュールたちは頷いた。
「馬車で三日半かかることを考えると、いちばん遠くてこの辺り。惑わせるために遠回りしている可能性を考えると、近くてこの辺りだな。アルラ湖の周辺は気温が低いから、花が咲いていてもおかしくない」
ジュールが王都から少し離れた、東から北にかけての広い範囲を指でぐるりと指し示した。
東は森林地帯、北は国境、王都にいちばん近い場所は、地図にも大きく描かれているアルラ湖だ。
「王都の北から東にかけて、調査隊を出すべきだ。最初に端まで行ってから、調査をしながら王都に戻ってくる方法が良いだろう。馬を飛ばせば、最短七、八日で戻れる」
ジュールは説明しながら、最北にあるオクタヴィアン領に置いた黒のルークを摘むと、こつこつと音をさせながら、地図上に駒を進め、王都に近づけていった。
「しかし、範囲が広いですから、手がかりが大きな屋敷というだけでは、調査に時間がかかりそうですね。結果が出るまでには、十日以上はかかるのでは?」
ダヴィドの指摘に、王太子がふむと腕を組んだ。
捜索範囲は、大小の八つの領地にまたがっている。
それぞれに領主の館がある他、裕福な商人の館が多い栄えた町が三つある。
さらにアルラ湖沿岸は、自然が豊かで夏でも涼しいことから、貴族の別荘が建ち並ぶこの国最大の避暑地だ。「大きな屋敷」に該当する建物はかなりの数にのぼる。
「じゃあ、レナ、お姉さんにもう一回聞いてみて。部屋の窓から何が見える?」
「雑木林だけ、だそうです」
「方角は分かる?」
「窓は西向きのようです」
「じゃあ、すぐ西側に雑木林がある屋敷だってことだね。ってことは、郊外にあるのだろうか。もう少し何か手がかりがないかな?」
王太子の言葉を姉に伝えると、彼女は何やらぶつぶつと呟き始めた。