レナエルの緊張
翌日の昼過ぎ、レナエルが滞在する部屋の扉が叩かれた。
そこにいるのが誰であるか、事前に知っていたにもかかわらず、応対に出たモニクが、ぎょっとしたように後ずさる。
「あいつの容態は?」
「は、はい。昨晩のうちに、熱もすっかり、下がったようで……あの……」
いつでも睨んでいるように見える目で見下ろされて、かわいそうなメイドは、すっかり怯えて、声がうわずっていた。
「そうか。入るぞ」
ジュールが見たことのない青年を伴って、部屋にずかずかと入ってきた。
レナエルはといえば、豪華な濃緑のソファに、緊張した面持ちで座っていた。
さっき、シルヴェストル殿下がお呼びだからと、モニクの他にもう二人メイドがやってきて、三人がかりで、明るいオレンジ色の華やかなドレスにレナエルを押し込み、薄化粧を施し、髪を優雅にまとめ上げた。
彼女たちは一通りの仕事を終えると、興奮したように、口々にレナエルを褒めた。
普段は、自分の見た目に無頓着なレナエルだが、元々の素材はすこぶる良い。
華やかに装えば、そこらの貴族の令嬢には全く引けを取らない。
そう、見た目だけなら。
しかし当の本人は、恥ずかしくてしょうがなかった。
ずっと男物のシャツとズボンで旅をしてきたから、ドレス姿などジュールには見せたことがない。
しかも、これまで着たことのないような豪華なドレスをまとい、したこともない化粧をしているのだ。
髪にはドレスと同じ素材でできたオレンジ色のリボンと薔薇の生花までついている。
怖い——。
何が怖いのか自分でも分からなかったが、彼に会うのが怖かった。
顔を強ばらせているレナエルの前まで来ると、彼は連れてきた青年を紹介した。
「レナ。こいつは俺の従騎士のダヴィド・フレジエ。この先、俺の代わりにお前の警護にあたることもあるだろう」
レナエルは上目遣いでちらりとジュールを窺った。
少し吊り目の黒い瞳で無表情に見下ろしてくる彼は、普段と何も変わらない。
レナエルが何を着ていようと、全く関心はないようだ。
レナエルはいたたまれなくなって、ふいと視線をそらせた。
「ダヴィドです。ジュールから貴女の武勇伝は聞いたけど、こんなにかわいらしい方だとは思わなかったな」
そう誉め称えてレナエルの手を取った彼は、人懐っこい印象の緑の瞳を細めた。
年齢は二十歳そこそこだろうか。
ジュールより少し背が低いが、充分に大柄で、少し癖のある赤毛を後ろで一つに束ねている。
紺色の制服の金のラインは一本でボタンは紺色。
飾緒はつけていない。
腰には十字型の鍔の長剣が下げられていた。
「行くぞ」
ジュールは素っ気なく言うと、くるりと踵を返した。
初めて履いたヒールの高い靴に、いろんなものが詰まった大きく広がるドレスの裾。
ソファから立ち上がることすら大変で、もたもたしていると、目の前にすっと手が差し出された。
「どうぞ、お手を」
見慣れないものを見るように、レナエルはその手を見た。
ダヴィドがにっこりと微笑んで、自分を待ってくれている。
だけど、自分が男の手を頼って歩く姿など、想像したくもなかった。
自分を置いてさっさと歩いていく、ジュールの後ろ姿にも腹が立つ。
「大丈夫よ。一人で歩けるから」
レナエルは自分を女の子扱いする手をきっぱりと断り、ドレスの裾を両手でわしづかみして大々的に持ち上げた。
ヒールの高い靴はその場に置き去りにし、裸足のまま、すたすたと歩いていく。
ダヴィドはあっけにとられながら、ソファの前に残された靴を拾い上げた。
小走りでジュールに追いつくと、彼は横目でちらりとこちらを見た。
「化けるものだな」
「え?」
自分のドレス姿を指して言っているのだとは思うが、褒めるでも、けなすでもなく、結局のところ、意味が分からない。
けれど、彼のことだから……。
おかしいなら、はっきりそう言えばいいじゃない!
レナエルはふて腐れた気分になった。
「どうせ馬鹿にしてるんでしょ? こんなドレス、着たことないもん。似合わなくてもしょうがないじゃない! でも、無理矢理着せられて、しょうがなくて……」
言えば言うほど惨めになってきて、言葉を止められない。
「……似合わないとは言っていない」
だから、まっすぐ前をむいたまま、表情一つ変えずに言った彼の言葉に耳を疑った。
似合うと褒められた訳でもないのに、両手から力が抜けて、ドレスの裾がばさりと足の前に落ちた。
不用意に出した足が、裾を踏みつける。
「う、わっ、わわっ!」
つんのめって転びそうになったところを、後ろから強い腕一本で抱きかかえられた。
そして、そのままぐいと引っ張られて、元の体勢に戻される。
「ほら、しっかり歩け」
彼はレナエルの二の腕をぎゅっと掴んで引っ張りながら、何事もなかったかのように歩き出す。
エスコートされるような優雅さはない。
まるで、連行されていく罪人ようだ。
でも、これなら不安なく歩ける。
レナエルは真っすぐ前をむいて歩く彼の、鋭利な印象の横顔を見上げた。
「あ…………ありがとう」
その声に、彼は振り向くことはなかったが、こめかみがぴくりと動いた。
二人の後ろからついてくるダヴィドは、不思議な光景を見るように首をかしげていた。