黒ずくめの男
離れの玄関先には、屋敷中の人々が集まっていた。
がっくりと肩を落としている人。
怒りをぶつけるように叫んでいる人。
両手で顔を覆って泣き崩れている人。
使用人仲間だけでなく、本館に住むオーシェルのセナンクール家の当主ロドルフや、その妻のエレイア、長男テランスの姿もあった。
「奥様! ……みんな!」
叫びながら駆け寄って行くと、皆が一斉にこっちを向いた。
驚きと安堵の声が上がる。
レナエルは、涙にぬれた顔を上げたエレイアの胸に、まっすぐに飛び込んでいった。
「レナ……よかった。よく無事で……。怪我は、ない?」
「奥様、大丈夫です。心配かけて……」
震える腕が背中にまわされて、強く抱きしめられた。
いつも母親のように接してくれる、優しい人だ。
普段強気なレナエルも、彼女の羽織ったカーディガンにすがりながら、つい涙声になった。
たくさんの人々に取り囲まれ、声をかけられ、横から伸びた手で頭をなでられた。
ついさっき、この温かな場所から無理やり連れ去られようとした。
正直、別れを覚悟した。
本当に、戻って来られて良かったと、人々の輪の中心でしみじみ思う。
「本当に良かった。よく、逃げてこられたな。さすがレナだ。悪い奴らをやっつけてきたんだろう?」
後ろから、大きな手で肩を叩いたのは、この館の主ロドルフだ。
ちゃかしたような言葉の端に、大きな安堵が見え隠れしている。
大柄で恰幅が良い彼は、セナンクール家の貿易拠点を取り仕切る男らしい、堂々とした風貌だ。
ベッドからそのまま出てきたこともあって、今は寝間着姿で、普段撫で付けているグレーの髪は乱れている。
「いいえ……まさか。馬車で連れ去られそうになったところを、知らない男の人が……」
レナエルがことの顛末の説明を始めると、暗がりから、土を踏む足音が聞こえてきた。
その場の全員がはっとして、警戒の視線を向ける。
「悪いが、男手を貸してもらえないか」
聞き覚えのある、低く通る声がした。
姿ははっきりとは見えなかったが、自分を助けてくれた人物に違いなかった。
レナエルは思わず、人影を指差した。
「あっ、あの人! あの人が、あたしを助けてくれたんです」
影は大きな歩幅で、足早に近づいてくる。
建物の窓から漏れる灯りや、幾人かが手にしているランプの光に照らされて、ようやくその姿が分かるようになってきた。
年齢は三十代ぐらいだろうか。
長身で細身だが、肩幅はしっかりとある。
鼻筋の通った精悍な顔立ち。
長い前髪の間からのぞく、こちらを睨むような少し吊り気味の黒い瞳のせいか、近寄りがたい硬質な雰囲気をまとっている。
暗がりの中では黒づくめだと思ったが、男の髪の色は、ほとんど黒に見えるダークブラウン。
身につけている後ろの裾が長い上着やズボンは、おそらく濃紺だ。
大きく開かれた立襟の縁と、袖の折り返しに三本の金色のラインがあり、斜めに並んだボタンも金。
腰には、存在感のある、十字型の鍔の長剣が下げられていた。
男の独特な姿から、ロドルフは彼が何者であるか悟ったのだろう。
驚いた様子を見せて、数歩前に出た。
「貴方は、もしや王立騎士団の……?」
「ああ。俺は、白翼騎士団のジュール・クライトマン」
男がぶっきらぼうな口調で名乗ると、ロドルフはさらに眼を見張った。
「……クライトマン? ではクライトマン男爵のご子息の? 確か三男様が、王太子殿下の筆頭騎士になられたとうかがったが」
「あぁ、そうだ」
「まぁまぁ、あのクライトマン様の? 貴方様のお小さいときに、何度かお目にかかったことがありますわ。ずいぶんご立派になられて」
エレイアもジュールと名乗った男のことを、知っているようだ。
親しげに声をかけると、幼い頃の面影を探すように目を細めた。
クライトマン男爵といえば、オーシェルよりもう少し南にある、葡萄の産地として知られる地方の領主だ。
大規模なワイナリーを経営する他、領地の近隣で収穫される様々な農作物の売買にも携わっており、貿易商であるセナンクール家とは、昔から良好な取引関係にある。
レナエルは、クライトマン男爵や家業を手伝う二人の息子とは面識があったが、もう一人息子がいたとは知らなかった。
言われてみれば、目の前の騎士は、確かに髪や瞳の色、顔立ちが彼らと似ている気がする。
ぞくりとする、猛禽類を思わせる鋭い眼光を除けば……。
あ、そうだ。
ジュールを観察するように眺めていたレナエルは、まだ彼にお礼を言っていなかったことに気づき、前に進み出ると、ぺこりと頭を下げた。
「あの……ありがとうございます。助けてくださって」
「ああ」
彼は無表情に一言だけ答えると、人の輪の外に座っている男に眼を向けた。
男は両手を後ろ手に縛られ、片方の足首に血の滲んだ包帯を巻き付けていた。
そのすぐ近くには、テランスが見張りのように立っていた。
父親に似たオリーブの瞳と、母親譲りの金の髪をした彼は、人当たりの良い穏やかな性格なのだが、さすがに怒りのこもった眼を男に向けていた。
ジュールは縛られた男をぎろりと睨んだ後、テランスに声をかけた。
「その男は?」
「はい。レナエルの部屋に……」
「あたしの部屋に潜んできた男の一人よ。ベッドの下に隠れて、足首を斬りつけてやったの!」
テランスが説明しかけた声を、レナエルが横から得意げ遮った。
「あんたが?」
ジュールは一瞬驚いた様子を見せた後、明らかに不機嫌な顔になった。
「女が危険なことをするな!」
よくやったと言われるだろうと思っていたレナエルには、意外な言葉だった。
思わずむっとして反論する。
「……は? 抵抗もせずに、おとなしく捕まれっていうの? そんなこと、できる訳ないじゃない!」
「敵を倒す力もないくせに抵抗するのは、無謀でしかない。逆にやられてしまったら、どうするんだ。おとなしく助けを待つのが賢明だ」
「うまく助けが来るとは、限らないじゃない! だいたい、その男を倒したのはあたしなんだから!」
「ああ。足首を狙ったのは、ひ弱な女にもできる方法だな。だが、いつもうまくいくとは限らない。それに一人倒したところで、結局、あんたは捕まって、俺に助けられたんだろう?」
レナエルは一瞬、言葉に詰まった。
確かにさっきは、自分ではどうすることもできない状況に陥っていた。
そこを助けてくれたのが、この目の前の男だ。
本来なら感謝すべき相手なのかもしれないが、こんな風に見下されるのは悔しくてしかたがない。
上目遣いでジュールを睨みつける。
「どうせ捕まるのだとしても、一矢報いてやるわよ」
「小娘が。ただの思い上がりだ」
彼は吐き捨てるように言うと、ふんと鼻を鳴らして背を向けた。
そして、少し離れて様子を見守っていたこの館の主、ロドルフに歩み寄る。
「さっきも言ったが、男手を貸してほしい。この屋敷を襲った奴らを、ここに連れてこよう。それから、港に常駐している警備兵に連絡して欲しい」
「あ、ああ。そうでしたね。マルタン、オーバン、エディ。お前たちは、騎士様についていってくれ。それからブリス。お前は、急いで警備の詰め所に連絡。テランスはその男の見張りを続けてくれ」
ロドルフが慣れた様子で指示を出す。
名を呼ばれた男たちは短く返事をすると、それぞれ動き出した。
ロドルフは少し遅れて、ジュールの後を追っていった。
「あっ、あたしもっ」
主の後について駆け出そうとしたレナエルは、両肩を後ろにぐいと引っ張られ、のけぞった。
身をよじって後ろを見ると、優しい奥様が微笑んでいる。
「あなたは、こちらにいらっしゃい。何か温かいものを飲むといいわ」
「え……でも」
自分を襲った男たちが、警備兵に引き渡されるまでを見届けたい。
奴らを存分に罵ってやりたい。
いや、できれば一発……といわず、二三発殴りたい。
思わずぎゅっと握った右の拳を、エレイアが両手で包み込んで持ち上げた。
「だめよ。あなたの考えていることは、お見通しなんですからね」
そう言ってにこにこしながら、否応無しにレナエルを本館に引っ張っていった。