この感じ、どこかで
廊下を遠ざかる、王太子と従者たちの足音が完全に消えてから、レナエルはようやく大きく息をついた。
ありえないほどの緊張感から解放されて、ぐったりとなった身体を、両腕をつっかえ棒にして支える。
「おい、どうした」
その様子を心配したのか、ジュールが王太子と同じように、額に手を伸ばしてきた。
しかし、相手がジュールなので、今度はさっと避ける。
「あ、痛っ! ………………くうぅぅ」
急に頭を激しく動かしたために、また強い頭痛が襲ってきた。
両手で頭を抱えてうめきながら、苦痛をやり過ごそうとしていると、身体がふわりと浮いた。
「無理をするからだ。まだ寝ていろ」
間近から聞こえたその低い声で、また自分が荷物にされたのだと気づく。
「ちょっと、やめてよ。下ろして!」
「病人のくせに、暴れるな!」
頭痛をこらえながら反抗してみたが、自分を抱え上げる強い腕は全くびくともしなかった。
だけど、この間のような、雑な扱いではない。
自分に負担をかけないように、ゆっくり大切に運んでくれているような気がする。
この感じ、どこかで……?
「もしかして、夜中にも、こうやって運んでくれた?」
「…………」
返事は返ってこなかったが、これを肯定だと確信した。
……そっか。
あれは、夢なんかじゃなかったんだ。
あのとき、大きな安心感を与えてくれたのは、この同じ彼の腕。
すごく優しくて、温かくて気持ちよくて…………は?
つい、もたれ掛かりたくなってしまった自分に気付き、顔がのぼせたように熱くなり、次に、今すぐ逃げ出したい衝動に駆られた。
なのに、身体が硬直してしまって動けない。
歯を食いしばり、息まで止めて耐える部屋を横切る僅かな時間が、とてつもなく長く感じられた。
ベッドに下ろすために、一瞬、覆い被さるようになった彼の身体が離れていく時、至近距離で目が合った。
レナエルは彼の前髪の間からのぞく、黒い瞳にどきりとしたが、彼の方はむっと眉間にしわを寄せる。
「無理をするから、また熱が上がったか。顔が真っ赤だぞ」
目の前に大きな手が迫ってきたが、今度は避けることができなかった。
そっと額に置かれた彼の手はひんやりしているのに、レナエルの体温は急に上がった。
顔が沸騰したように熱くて、周りの空気が無くなったかのように息苦しい。
その苦痛に耐えきれなくなって、彼の手を払いのけ、羽布団を頭の上まで引っ張り上げた。
「そ、そ、そうみたい。もう少し、寝る……からっ、あっち行って!」
「そうか。だが、寝る前に何か軽く食ったほうがいい。今、準備させる」
布団を間に挟んでいるせいか、少し遠くに聞こえていた彼の声が遠ざかっていった。
潜った布団に隙間を開けて、そっと様子をのぞいてみると、彼は、部屋の隅に待機していたメイドに、話しかけている。
グレーのドレスに白のエプロンをつけ、茶色の髪を後ろでひっつめた若いメイドは、濃紺一色の威圧的な後ろ姿の向こうで、壁に貼り付いていた。
色白の顔は青ざめ、グレーの瞳は明らかに怯えている。
その様子が気の毒でもあり、面白くもあった。
「彼女に何か冷たい飲み物と、口当たりの良い食事を準備してやってくれ。これ以上熱が上がるようなら、侍医を呼んでもいい。それから…………レナっ!」
メイドに指示を出していたジュールが、突然振り返った。
まさかこっちを向くとは思っていなかったから、不意打ちをくらったレナエルは、布団に潜ってごまかすこともできず、彼の鋭く睨むような視線に捕らえられる。
「いいか、ちゃんと食って、ちゃんと寝ろ! 勝手に動き回ったりしたら、承知しないからな!」
レナエルが隙間からのぞいていることに、気づいていたのだろう。
彼は、いらついた命令口調で釘を刺すと、さっさと部屋から出て行った。
扉が音を立てて閉まると、部屋の中にはむっとした表情のレナエルと、泣きそうなほどに怯えたメイドが残った。
「なによぉ! 怒鳴らなくたっていいじゃない!」
腹立ち紛れに拳を羽枕にぐりぐりと押し込んでいると、メイドがおずおずと近づいてきた。
「レナエルさんって、すごいんですね。あの黒隼の騎士様と対等に話せるなんて……。わたし、あの方が怖くて怖くて……」
両腕をさすりながら、いかにも怖そうに話す彼女に、レナエルが笑いかけた。
これまで四日間も、彼女がこんなに怖がっている男と四六時中一緒だったのだ。
ようやく、あの陰険な彼から解放されて、同じ年頃の女の子と一緒にいられることが嬉しかった。
彼女とは仲良くなれそうな気がする。
「レナでいいわ。訳あってこんなところにいるけど、あたしだって、商家のただの使用人なの」
「そうなの? じゃあ、わたしのことはモニクって呼んでね。今、何か食べやすそうな食事を持ってくるから」
彼女もすぐに、くだけた口調になった。
「うん。もうすっかり朝だもんね。昨晩から何も食べていないから、お腹がすいたわ」
まだ少し熱っぽいし頭も痛んだが、胃腸の方はすっかり元気だった。
食べなければ治るものも治らない。
治らなければジネットを助けにいけない。
よしっ、食べるぞ!
と気合いを入れていたら、モニクが怪訝な顔をした。
「朝? もう、夕刻なんけど?」
「夕……刻?」
言われてみれば、窓から斜めに差し込んでいる陽の光は、ほんのりと柔らかな色を帯びている。
これは、朝日ではなくて、夕日だったのか。
「なかなか熱が下がらなくて、ずっと眠ったままだったのよ。なのに、わたしが用事で部屋を空けた隙に、窓によじ上ろうとしてるんだもん。すごく、びっくりしたわ」
レナエルが呆然としていると、彼女はけらけらと笑った。
そして、「待っててね」と言い残し、軽やかに部屋を出て行った。
しまった! きっと、ジジが心配してる!
彼女が戻るまであまり時間がなさそうだが、とりあえず無事に王城に到着したことだけでも知らせなきゃいけない。
レナエルは慌てて目を閉じた。