深夜の襲撃
なに?
今のは……夢?
レナエルはベッドに身を起こすと、どきどきする胸を両手で押さえた。
さっきの叫び声は、夢というにはあまりにも生々しかった。
嫌な予感に、冷や汗が背中を伝っていく。
『ジジ、どうしたの? ジジ!』
どうしても姉の無事を確認したくて、強く呼びかけてみる。
『ジジ! 寝てるの? 大丈夫? 返事してっ!』
しかし、何度必死に呼びかけても、全く返事がなかった。
仮にジネットがぐっすり眠っているのだとしても、これだけ呼びかけて気づかないはずがない。
『ジジ、お願い。返事をして!』
祈るような思いでもう一度呼びかけたとき、しんと静まり返った中に、廊下の床板がかすかに軋む音がした。
はっとして耳を澄ませると、その不気味な物音は、ゆっくりと自分の部屋に近づいてくる。
誰か、来る!
レナエルはとっさに、枕元にある引き出しを開けた。
中に入っているのは護身用の短剣。
それを握りしめると、音を立てずにベッドを滑り降り、ベッドの下に潜り込んだ。
その直後、床板の軋みと人の気配が、ドアの外でぴたりと止まった。
部屋のドアが音もなくゆっくり開き、ぎりぎりにしぼったランプの明かりがぼんやりと室内を照らし出した。
男物の大きな靴が、音もなくゆっくり近づいてくるのが見える。
部屋の入り口に、もう一つの人影が見張りのように立ち止まった。
ここから逃げなきゃ。
みんなにも伝えなきゃ。
どうしたら……。
震える息をゆっくり長く吐き出して、気持ちを落ち着かせながら、慎重に短剣のさやを外す。
大きな靴が目の前で止まった。
男がベッドに手を伸ばす気配を感じる。
ばさり。
乱暴に毛布をはぎ取る音。
「おいっ、いねぇぞ!」
驚いたような男の声を聞きながら、レナエルは短剣を握った手を、ベッドの下から伸ばした。
男の足首の向こう側、アキレス腱に滑らせるようにして、思いっきり短剣を引く。
「うわあぁぁぁっ!」
男は悲鳴を上げて床に尻餅をつくと、両足首をつかんで転げ回った。
「ひいいぃぃぃ、足が……! 足がっ!」
「おいっ! どうした!」
のたうち回る仲間の様子に、入り口にいたもう一人の男が、慌てて近づいてきた。
レナエルはベッドの下から滑り出ると、腕を大きく振り切るようにして、その男に切り掛かかる。
「うわっ!」
短剣を握った手には、たいした手応えはなかったが、男はのけぞるように身を引いた。
レナエルはその隙に、ドアから廊下に飛び出していった。
「みんな起きて! 悪者が入ってきた! 早くっ!」
同じ建物で眠っている使用人たちに、大声で異変を知らせながら、廊下を駆け抜ける。
「娘が逃げたぞ!」
「くそっ! つかまえろ!」
背後で男たちの怒声が上がる。
シャツの胸元を赤く染めた男が、部屋を飛び出して追いかけてきた。
あの男たちの狙いは、あたし……だけ?
でも、どうして?
階段を跳ぶように降りると、開け放たれていた玄関扉から外に飛び出した。
そこには、長剣を持った大柄な中年の男が待ち構えていた。
レナエルの足が、ぎくりと一瞬止まる。
すぐに方向を変えて建物の壁に沿って走り出したが、あっという間に、壁を背にした状態で男二人に囲まれてしまった。
「まったく、面倒をかけさせやがって」
忌々しげに口を開いたのは、さっきレナエルが斬りつけた男だ。
無精髭とぼさぼさの頭、ぎらつく眼。
いかにもならず者といった風情だ。
「あんたたち、どうしてこんなことをするの!」
レナエルが短剣を前に構え、男たちを睨みつけた。
彼らはその言葉には答えずに、じりじりと間を詰めてくる。
「答えなさいよ! 何が目的なの! あたしを殺すつもりなの?」
騒ぎに気づいたのか、建物の窓のいくつかに明かりが灯り始めた。
ドアを開け閉めする音や、人が慌ただしく建物の中を走る音、心配そうに自分を呼ぶ声も聞こえてくる。
「勇ましいお嬢ちゃんだ。だがなぁ、短剣で歯向かおうったって無駄なんだよ」
大柄の男がにやりと笑うと、レナエルの喉元に長剣の切っ先を向けて、一歩前に出た。
レナエルは息を飲んで、顎を上げた。
うつむけば切っ先が顎に触れる。
そんなぎりぎりに研ぎすまされた刃があった。
「さあ、今すぐ短剣を捨てな」
「……くっ」
相手を睨みながら、握っていた短剣を、そのまま足下に落とす。
土につきささったそれを、大柄の男が遠くに蹴り跳ばした。
無精髭の男がレナエルの右手をつかんで後ろに捩じり上げ、さらに、もう一方の手で、長い髪を掴んで乱暴に引っ張る。
「痛っ! 何するのよっ!」
「おとなしくしてりゃ、痛い目に遭わずにすむんだよ。さぁ、来い!」
「放してよ! なんで、こんなことするのよ!」
長剣を突きつけられているレナエルの様子が見えたのだろう。
建物の玄関の方向から、女たちの悲鳴や、自分の名を呼ぶ男の声が聞こえてきた。
「おーっと、お前ら。そこから動くんじゃねえぞ。このお嬢ちゃんの命が惜しかったらな!」
大柄の男がレナエルの背中に剣を突きつけたまま、玄関先の人々に向かって叫んだ。
セナンクール家で働く仲間たちは、どうすることもできずに、その場に立ち尽くす。
「おら、さっさと、歩け!」
二の腕をきつく掴まれたレナエルは、鋭い切っ先に脅されながら、引きずられるように歩いていく。
そのまま裏門から外に出ると、そこに幌のある荷馬車が止まっていた。
「娘をつかまえたぞ。追っ手が来る前に、ずらかるぞ!」
無精髭の男は、御者台に向かって声をかけると、レナエルの腕を無理やりひっぱって、馬車の後ろに回り込んだ。
「早く乗れ!」
突きつけられている剣の存在に屈し、歯噛みしながら荷台に乗り込もうとしたとき、突然、背後で高く澄んだ金属音が響いた。
はっと振り向くと、すぐ背後のあったはずの長剣が、ない。
「な、なんだ、お前は!」
思わず声を上げて後ずさった男たちとの間に、殺気立った黒い影が滑り込んできた。
淡い月光を弾いてきらめく剣身。
土を蹴る音。
闇を切り裂く空気の振動。
何かを殴りつけるような鈍い音。
「うわぁぁぁっ!」
ほぼ同時に、二人の男の悲鳴が上がった。
誰?
あたしをを助けようとしてくれている?
しかし、闇にまぎれた乱入者の俊敏な動きに、実際に何が起こっているのかよく見えない。
けれども、とてつもなく腕の立つ男だということは分かる。
「馬鹿か! ぼさっとするな! さっさと、逃げろ!」
呆然と突っ立っていると、低くよく通る声に怒鳴られ、びくりとなった。
声の主は全身黒づくめで、姿が闇に溶け込んでいたが、ちらりと振り返った横顔が、白く浮かび上がって見えた。
おそらく……若い男。
「う、うんっ!」
レナエルは身を翻し、男たちが争う激しい物音を背後に感じながら、仲間たちのいる屋敷の離れに向かって駆け出した。