逃走経路
宿の使用人の娘に案内された部屋は、二階の奥にあった。
木製の軋む扉を開けると、作り付けの棚と、ベッドが二つ並べて置かれているだけの狭い部屋だった。
使用人の娘は棚にランプを乗せると「ごゆっくり」と言い添えて部屋を出て行った。
壁も床も天井も、何の飾り気もない茶色の板張り。
窓にかかった若草色のカーテンだけが唯一の装飾と言えた。
足元からは食堂の騒々しさが伝わってくる。
「あーっ」
レナエルは大きく伸びをすると、ずっとかぶりっぱなしだった帽子を脱いだ。
髪を束ねていたひもを解き、変な癖がついてしまった明るい色の髪を両手でざっとほぐすと、堅いベッドに仰向けに寝転んだ。
一日中、馬を走らせてきたから、くたくただった。
ジュールは足早に窓に近づくと、カーテンを開けて外の様子を確認した。
その後、壁に耳をあてたり、長剣を外して天井をつついたりしている。
どうやら、部屋の安全を確認しているらしい。
一通り調べ終えると、彼は窓際のベッドに腰掛けた。
え? なんでこの人、まだここにいるの?
「姉と話をしてみろ」
不審に思ったが、この言葉で納得した。
「う、うん」
レナエルはベッドに身を起こした。
ふうっと大きく息をついて眼を閉じる。
『ジジ? ジジ、聞こえる?』
『うん』
『今、話せる?』
お互いに、現在の状況を簡単に説明し合う。
姉から聞いた内容は、途中で会話を切って、ジュールに伝えていった。
ジネットは宿に泊まるのではなく、馬車の中で夜を明かすのだという。
馬車の御者や同乗している二人の他に、馬に乗った男が何人か同行しているらしいが、馬車の外に出るときは目隠しをされるので、詳しくは分からないという話だった。
「どんな道を走っているんだ?」
ずっと、だまって話を聞いていたジュールが口を挟んできた。
「そんなの、分かるはずないじゃない。外の様子は見えないんだから」
「それでも、何か気づくことはあるはずだ。聞いてみろ」
彼の質問をしぶしぶジネットに伝えると、彼女は考え込んでいるらしく、しばらく返事が返ってこなかった。
『……そうね、馬車は一日中、かなり飛ばしていた様子だったけど、そんなに激しくは揺れなかったから、きっと、大きな整備された道を走っていたのよね。私が目覚めたときは石畳の道だったけど、しばらくしてから土の道に変わった。今は多分、道を外れた林の中に馬車を隠しているのだと思うわ。馬車を止めるまでにがたがた揺れたし、降りたときに強い緑の匂いがしたもの』
少しずつ思い出すように話す姉の言葉をジュールに伝えると、また質問された。
「道は真っすぐだったか?」
『大きく曲がりくねっていたという印象はないわ』
「坂は?」
『極端な坂道も、なかったように思う。ほぼ平坦な道だったわ。……あ、そういうことなのね』
『どうしたの?』
何かに気づいたような様子の姉に、しばらく二人の会話を取り持っていたレナエルが、久々に自分の言葉で話しかけた。
『ん……。これまでの細かい質問って、ジュール・クライトマンからよね?』
『そうだけど?』
『ふふふ。彼、頭の切れる人ね。じゃあ、彼に伝えて。アザクール街道を南西に抜けてムラン伯領あたり。あるいは北東に抜けてビゾ湖の手前。でなければ、ラン=ダール、ブリュリス。うーん……サントルも候補に入るかしら』
姉が次々に上げる地名を、復唱するように声にすると、ジュールは驚愕の表情を浮かべて、いきなりベッドから立ち上がった。
「なっ……! お前の姉は何者なんだ!」
「何者って……自分で言ってるじゃない。あたしの姉だけど?」
「そんなことは分かってる!」
彼は、ぽかんとしているレナエルにいらついた眼を向けると、ベッドに落ちるように腰を下ろした。
右手を額に当てて、しばらく考え込んだあと、ゆっくりと顔を上げる。
「……それなら、エスグラルクの森林地帯はどうかと聞いてみてくれ」
レナエルには何の話なのか理解できなかったが、とりあえず、彼の言葉をジネットに伝えてみる。
彼女の返事はすぐに返ってきた。
『エスグラルクに行くまでには、石畳の道があるような大きな町はないわ。かかる時間も合わない。だから、違うと思う。……というより、本当は、違うってことを分かってて、聞いているんでしょ? わたしのこと、試してるの?』
『そうなの?』
『絶対そうよ!』
ジネットが憤慨したように言うので、レナエルは姉の言葉を一言も漏らさないように注意しながら、ついでにつんとした口調もまねて再現してみせた。
「わたしのこと、試してるの?」に至っては、ジュールの顔をびしっと指差した。
彼が僅かに身体を引いて、驚いたように吊り気味の眼を見開く。
「お前の姉の頭の中は、一体どうなっているんだ。まるで、地図を見ながら話しているようじゃないか。それに、俺の意図も正確に読んでいる」
彼の言葉で、レナエルはようやく、二人が自分を介して探り合っていたことに気づいた。
その上で、あのジュールが、姉の能力に驚嘆していることに、得意な気分になる。
「だって、ジジはセナンクール男爵の右腕って呼ばれてるほどなのよ? 仕事柄、リヴィエ王国と周辺諸国の地図は頭に入ってるし、王都を中心にした各地方までの道や、所要時間も把握してるわ。それに、くせ者ばかりを相手にしてるから、腹の探り合いも得意よ」
「ふん。双子の姉妹なのに、ずいぶん違うものだな。姉の方は、かなりの頭脳派だ。確かに、セナンクール男爵の右腕と呼ばれるだけのことはある。それに比べて……」
まるで自分のことのように姉を自慢するレナエルに、ジュールがたっぷりと嫌みを含んだ眼を向けた。
「何が言いたいのよ。あたしは、ジジのように頭は良くないけど、騎士馬に乗れるし、剣だって扱えるわ!」
「それは、女としてどうなんだ?」
「……う」
「そんなことができても、逆に危険なだけだ」
女であっても大型馬を操れて、剣も扱え、喧嘩なら並の男には負けない自信はある。
オーシェルでは、誰もが一目置いてくれていたこの能力を、この男は認めようとしない。
それは、自分自身を丸ごと否定することと同じだ。
昨晩、出会ったときからずっとそうだ。
「そんなことないっ!」
強く否定したものの、この男に比べたら、自分の力なんて子どものようなものだ。
それを嫌というほど思い知らされているから、レナエルはそれ以上何も言えずに、唇を噛み、拳を握りしめて俯く。
『レナ? どうしたの?』
会話が途切れたままになっていることを訝しんだ姉が、心配そうに声をかけてきた。
『くやしいぃぃぃっ! この男、腹が立ってしょうがない』
『腹が立つって……ジュール・クライトマンが?』
『そうよ! 殴ってやりたいほどむかつくけど、それができるような相手じゃないのが、余計に悔しいっ』
目の前の男に直接言えない分、姉に怒りをぶつけていると、ジュールが立ち上がる気配がした。
高い位置から低い声が降ってくる。
「おい、もういい。おおかた、姉に俺の文句を言っているだけだろう。明日は夜明けとともに発つから、もう休め」
レナエルが恨めしげな表情で顔を上げたが、彼はこちらを見ることなく、さっさと入り口の扉に向かって歩いていった。
これでやっと一人になれると、ほっとしていると、彼はそのまま廊下に出るのかと思いきや、長剣を肩に持たせかけ、扉を塞ぐように腰を下ろした。
「おまえはそのまま、そのベッドを使え。窓際はダメだ」
「え? なんで、そんな場所に座るの? 早く出て行ってよ」
彼の思いがけない行動に、口を尖らせて抗議する。
同じ部屋にいられたのでは、着替えることすらできない。
「同じ部屋にいなければ、護衛などできない。一晩ぐらいなら、外で寝ずの番をしてやってもいいが、何日も続けては無理だ。いいから早く寝ろ!」
彼は、眼を閉じて、いかにもうるさそうに答える。
「だって、男と一緒の部屋に寝ろって言うの?」
「俺とお前は兄弟っていうことになっている。何の問題もない」
「大ありよ!」
「ふん。何を心配しているか知らんが、俺はガキには興味はない。とっとと寝ろ!」
そう言い捨てた後は、いくら文句を言っても、彼は完全に沈黙を貫いた。
この男が朝から晩までべったり一緒にいる日々が、あと四日も続くっていうの?
「もおっ! こんなの、信じられないっ!」
レナエルは毛布をひっつかんで頭からかぶると、扉に背を向けてベッドに丸くなった。
着替えなんかどうでも良くなった。
ただただ、そこにいる男に腹が立つ。
『ねぇ、聞いてよジジ! ジュールったら……』
その後は、姉を相手に怒りをぶちまけているうちに、前日からの疲れもあって眠りに落ちた。