むかつく男
喉元の危険が消えたジュールは、身を乗り出すようにして、レナエルの顔を覗き込んだ。
「それに、もともと、王城に連れてくるときは、事情を説明した上で丁重にお連れしろと言われていた。あんたに何を話しても、全く問題はない」
「じゃあ……、なんであたしに、こんなこと、させたの……よ」
屈辱感に声が震えた。
息が上がり、全身から汗が噴き出している。
長剣を握ったまま落ちた腕は、そのまま筋肉が固まってしまったように動かない。
それでも、わき上がってくる怒りに、消えたはずのものが満ちてくる。
「こんな話、普通に説明しても、信じないだろう? ……というより、お前のその生意気な鼻っ柱を折ってやりたかった。その腕、もう限界だろう?」
「馬鹿にしないで!」
怒りは一気に頂点に達した。
レナエルは重い長剣を、土から一気に引き抜き、ぴたりと彼の喉元に狙いを定めた。
彼は瞬時に身を引き、驚いたように眼を見開いた。
しかし、直後にはまた、憎らしいほどの余裕の表情に戻る。
「ほぉ、なかなか。……だが、その程度では、最初から脅しでもなんでもない」
そう言い終わらないうちに、レナエルの腕に、大きな衝撃が伝わった。
「あっ!」
何が起こったのか分からなかった。
ただ、両腕が痛いほどにしびれて、その苦痛が肩から背中へと広がっていく。
左に払われた自分の両腕を見ると、その延長線上の土に斜めに突き刺さった長剣があった。
恐る恐る視線を戻すと、彼がさっきより低い位置からがこっちを見ている。
腰を前にずらし、下半身をねじったような体勢から考えると、その長い脚で剣身を蹴り払ったのだろう。
レナエルと眼が合うと、彼はにやりと笑った。
「言っただろう? 最初から、脅しでもなんでもなかったと」
彼はそう言いながら悠然と立ち上がると、服についた泥を払った。
そして、呆然と立ち尽くしているレナエルに背を向けて、土に刺さった長剣を片手で軽々と引き抜いた。
付いた泥をマントの裾で丁寧にぬぐい、剣身を太陽の光に透かして確認すると、すっと腰に納める。
レナエルはその上背のある大きな背中を、ぼんやりと眺めていた。
背筋を伸ばして長剣を扱うその慣れた動きは、実に堂々としていて美しかった。
「小娘のくせに、根性だけはあるな。しばらく、休んでいろ」
戻ってきたジュールが、レナエルの肩に大きな手を置いた。
ただ置いただけの手の重みに、レナエルはあっけなくその場に沈んだ。
みっともなく地べたに座り込んで、もう、立っているのもやっとの状態だったことに気付く。
何もかもが、限界を大きく超えていたのだ。
小さく唸りながらふてくされた顔を上げると、ジュールがふっと笑った。
「あいつらも、もう少し休憩させた方がいいだろうしな」
彼が顎で示す方向に目を向けると、二頭の美しい馬が、明るい日差しを浴びながら、のんびりと草を食んでいるのが見えた。
今ここで、飼い主たちが繰り広げていたことなど、全く気に留めていない平和な様子だ。
きっとルカは、ジュールが本当は害のない人間であることを感じ取っていたのだ。
そうでなければ、主の危機にのほほんとしているはずがない。
座り込んだ地面の、ひんやりとした土の感触が心地いい。
草を撫でる風が、濃い緑の香りを運んでくる。
放心状態で上を見上げると、木々に丸く切り取られた青い空に、鳶が高く舞っていた。
「あーあ、馬鹿みたい」
レナエルは土の上に、ぱたりと仰向けに倒れた。
最初から敵うはずのない相手だったのだ。
そして、争う必要のない相手だったのだ。
それなのに、自分一人が、思い込みでじたばたして……。
そう思うと、急に笑いがこみ上げてきて、レナエルは土の上で身体をより、大声で笑い出した。
悔しい気持ちはあったが、ここまでぼろぼろにされると、いっそ清々しかった。
「おい、気でも違ったか」
しばらく笑い転げていると、顔の上にぬっと影がかかった。
仰向けに戻り、大の字になって見上げると、腕組みした大きな人影が、睨むように見下ろしていた。
吊り目の男の威圧的な表情は、逆光の中でさらに凄みを帯びて見えたが、疲れ果てて感覚が鈍ったのか、怖いとは思わなかった。
彼を下から睨み返し、その顔に向かって勢いよく指を差す。
「だいたい、あんたが悪いんだからね! 妙に悪人顔だし、口は悪いし、おまけに大事なことを隠しているし。これじゃ、誤解してしてくれって、言ってるようなもんじゃない。それに、俺を脅せだなんて、頭がいかれてるわよ!」
浴びせられた生意気な言葉にむっとしたのか、彼の顔の位置がぐっと下がった。
「そんな無様な姿できゃんきゃん吠えるな、小娘。だまって休んでろ」
近い位置から脅すような低い声が降ってきたが、その響きはさっきまでとは違って感じた。
どちらかというと、軽口のよう。
片頬を上げた口元が、明らかに面白がっている。
だから、レナエルもむくれた顔をしてみせた。
「さっきから、小娘小娘ってうるさいわよ! あたしはレナよ!」
「なら、ついでに言わせてもらうが、俺はジュールだ。小娘にあんた呼ばわりされる筋合いはない」
「レナだって、言ってるでしょ!」
レナエルはがばりと起き上がった。
「ふん、そうだったか?」
ジュールはばかにしたように鼻を鳴らすと、自分の愛馬に向かって歩いていった。
置き去りにされたレナエルは、離れていく大きな背中に、いーっと歯をむいて顔をしかめた。
なんて、むかつく男!
だけど、信用しても大丈夫そう……。
とんでもないことをさせた男だが、彼の説明には嘘やごまかしを感じなかった。
そういえば、昨晩からそうだった。
彼は事態を客観的に見て、的確に判断し、戦略的に動いていたのだ。
もしかすると、あの射抜くような鋭い目つきも、威圧的な言動も、計算のうちかもしれない。
……いや、それはないな。
そんなことをぼんやり考えながら、愛馬の首を撫でる彼の後ろ姿を眺めていた。
彫刻のように均整のとれた体つきの漆黒の馬と、上背のある堂々とした立ち姿の騎士。
彼の腰にある長剣の柄が、太陽の光を弾いている。
あれで、もっとまともな性格だったら……と溜め息をつきつつも、レナエルは美しい人馬の姿に見とれていた。