オーシェル港の平和な日々
強い日差しを眩しく弾く深い深い藍色を、大きく弓なりに陸地が削っている。
その自然の地形を利用して作られたオーシェル港は、リヴィエ王国一の貿易港だ。
遠くの水平線に、帆を張った船影がゆっくりと滑っていく。
港に停泊している船は帆を巻き上げ、帆柱の先端に様々な色や形の国旗をはためかせている。
船の甲板や桟橋に小さく見える人々が、忙しそうに荷の上げ下ろしをしている。
「うーん、気持ちいい! やっぱり、ここからの眺めは最高!」
レナエルは、海を削るように突き出た岬の先端にある、小さな灯台の下で大きく伸びをした。
たくさんの船が浮かぶ港と、白い石壁の家々が立ち並ぶ町、遠く青く広がる水平線。
そしてそれ以上に広い空を一望できる絶景は、大のお気に入りだった。
「うひゃっ!」
突然、海から崖を吹き上がってきた強い潮風に押され、レナエルは切り立った崖から、二、三歩後ろに下がった。
高い位置で一つ結びされた長い髪が、風をはらんで大きく広がった。
もともとはダークブロンドの髪は、毎日のように強い日差しと潮風にさらされて色あせ、光に透けるような明るい色だ。
勝ち気な印象の瞳は、晴れわたる空を映したかのような、明るいブルー。
少し日焼けした頬には、うっすらとそばかすが浮かんでいる。
動きやすい裾が短めの飾り気のない水色のドレスと、あちこち擦り傷ができた編み上げのブーツは、十六歳の年頃の娘にしては、色気がなさすぎる。
実際、周囲からは年相応に娘らしくしなさいと言われるのだが、本人にはそんな気が全くないのだからしょうがない。
レナエルはそのまま後ろに下がって、ひんやりした灯台の石壁に背中をつけた。
ずるずると腰を落として一息つくと、目を閉じる。
崖の下で跳ねる波音が騒がしかったが、それもすぐに気にならなくなった。
『ジジ。今、忙しい?』
しんとした頭の中で話しかけると、すぐに弾んだ声が返ってきた。
レナエルの双子の姉、ジネットだ。
『大丈夫よ。ちょうど、みんなでお茶をするところだったの。この間、新しく仕入れたベリーのお茶ね、すっごくいい香りなのよ。レナにこの香りが届けられないのが残念だわ』
『あたしだって、ジジにこの潮風と太陽を送れないんだもん。おあいこよ』
レナエルは薄く目を開くと、眩しい空を仰ぎ見た。
姉妹は、どんなに遠く離れていても頭の中で会話できるという、特殊な能力を持っていた。
国内随一の貿易商、セナンクール男爵家に仕える二人は、仕事の都合で、貿易港オーシェルと、本店のある王都リヴィエに別れて暮らしている。
二人が直接会えるのは年に数回であるが、こんなふうにいつでも話ができるから、それほど寂しくはなかった。
『なあに、また、灯台にいるの? あんまり日に当たると、そばかすが増えちゃうわよ』
『いいもん、そばかすくらい。どうせ、あたしに言い寄ってくるのは、港のおじさんたちばかりだもん。そうだ。あのあと、彼とはどうなってるの?』
最近、ジネットには結婚話が持ち上がっている。
顔立ちはレナエルと全く同じはずなのに、ジネットは清楚で知的な雰囲気の娘だった。
屋内での仕事が多いため、日に焼けることのない肌は透けるように白く、髪もつややかなダークブロンド。
貴族の客と接することが多いこともあって、上品な立ち居振る舞いも身につけている。
彼女が男性に言い寄られたことは、一度や二度ではなかった。
今回のお相手は、子爵の爵位を持つギュスターヴ・ルコント。
ただの町娘にすぎないジネットを、防具の取引の際に見初めたとかで、ここ二ヶ月ほど、何かと口実をつけて熱心に口説きに来るのだという。
いつもなら軽くあしらうのに、今回の求婚者は大物すぎて、かなり厄介らしい。
『今朝も来たわよ。この薔薇のような貴女を、私の色に染めてみたいのです……なんて言って、白薔薇を一輪くれたわ。昨日は、貴女の美しさに、この花も頬を染めているようです……ってピンクの薔薇』
姉のいかにもうんざりした声に、レナエルが吹き出した。
『うっわー! なにそれ。じんましん出そう』
『でしょ? よくまぁ、あんなクサい台詞が次々と出てくるものね。きっと、口から生まれてきたって、あんな人のことを言うんだわ。貴族の令嬢の間では、とってもモテるらしいけど、どこがいいんだか。気色悪いったらないわ!』
ジジのこの本性を知ったら、きっと百年の恋も冷めるだろうに……。
姉の相変わらずの毒舌ぶりに、レナエルが苦笑した。
ギュスターヴがどんな人物なのかは、これまでも、何度か姉から聞かされていた。
彼女の説明にはかなり毒が盛られていたが、それでも、すらりとした長身、月光のような銀の髪、琥珀の瞳、整った顔立ち、甘く優しい声……。
そういった事実は否定しようがない。
それでいて、第二王子の筆頭騎士だというのだから、きっと腕も立つのだろう。
客観的には女性にモテて当然の男だ。
『……でも、ホントはあたしに遠慮してるんじゃない?』
十六歳といえば、充分に結婚適齢期だ。
しかし、ジネットはこれまでどんな男が言い寄ってきても、首を縦に振ることがなかった。
今回の縁談も、信じられないないほどの良縁だ。
姉妹は平民だが、貴族と結婚するのであれば、主であるセナンクール男爵が養女にしても良いと言ってくれているから、身分の差もさほど問題にならない。
ジネットさえ了承すれば、この婚姻はまとまるのである。
レナエルはおそるおそる言葉を続ける。
『ジジが結婚したいんだったら、あたしは賛成するよ。ジジには幸せになってほしいもん。旦那様もいいって、言ってくれてるんでしょ』
『それはそうなんだけど、旦那様はこうも言ってるのよ。あんな女ったらしに、大事なジジをやりたくない……ってね。でも、子爵だし、店のお得意様でもあるから、つっぱねるのも難しいのよね。正面切って暴言吐けたら、どんなにすっきりするかしら』
『……そっか』
結婚に賛成するとは言ったが、姉にも男爵にもその気がないことを確認して、レナエルは密かに胸を撫で下ろした。
見知らぬ男に、大事な片割れを奪われるような気がしていたのだ。
どんなに離れていても、すぐ近くにいるように声が届くのだとしても……。
『で、何の用だったの? 仕事の話でしょ?』
つい黙り込んでしまった妹に、ジネットがせっつくように声をかけた。
『あ、そうそう。忘れてた。近々、東国の商船が入るらしいのよ。何を仕入れて、何を注文するのか旦那様に確認してほしくて』
『あぁ、ダーフェン国の船ね。あの国の食器は人気があるから、今度は調度品も仕入れてはどうかと思うのだけど……』
『ああ、壷とか飾り皿とかだよね。前回は初めてだったから見送ったけど、確かにきれいな品をたくさん積んでたわ。目が飛び出るほど、高価だったけど』
姉妹が働くセナンクール家は、もともと力のある貿易商であったが、ここ数年、急速に繁栄してきた。
それは、馬で五日かかる王都と貿易港間を、瞬時に結んで連絡を取ることができる、二人の能力が大きく貢献していた。
世間ではセナンクール男爵の、時流を読む能力がすぐれているからだと思われているが、実際には、情報伝達の速さで、他を出し抜いているのだ。
また、若干十六歳ながら、仲間内から男爵の片腕とも呼ばれている聡明なジネットと、行動力のあるレナエルの、情報伝達以外の働きも大きい。
『そうねぇ。あの国の陶器なら、どんなに高くても買い手がつくと思うわ。でも、私じゃ決められないから、旦那様が戻られてから……あ、そうだ』
『なに?』
『あのね……』
妹だけにしか聞こえないのだからそんな必要はないのに、ジネットは内緒話をするように声を潜めた。
『夕方、旦那様が戻られたら詳しいことが分かるはずだけど、最近、北の国が不穏な動きをしているらしいの。きっと、武器や防具類を大量に調達をするように指示されると思うわ。あと、保存できる食料とか……』
『じゃあ、今、入港している船の積み荷を確認しておくよ。ちょうど、スヴォル国の船が入ってるの。あの国の長剣と槍はいいよねー。すぐに全部、仮押さえしとくから、正式な指示が出たら、すぐに知らせて。そうだ、馬……きっと、軍馬も必要よね、ね!』
『レナったら、ずいぶん鼻息荒いわね』
『そりゃそうよ。こんな面白そうな仕事、久々だもん』
近々、戦が起こるかもしれないことは気がかりだが、レナエルは大きな取引に関わることにやりがいを感じていた。
それに、女ではあるが、武器や防具の類いは見ているだけでぞくぞくするし、無類の馬好きでもある。
これほど、興奮する仕事はない。
『じゃあ、お茶も入ったし、また後でね』
その言葉を最後に、姉の声は途切れた。
そっと目を開くと、海と空の輝く青が、視界に飛び込んできた。
手をかざして空を見上げると、太陽はほぼ真上から差していた。
そろそろお昼だ。
「さてと……。早く戻って、根回しを始めなきゃ」
レナエルはすっくと立ち上がると、はやる気持ちそのままに、灯台からの細い道を駆けていった。
その日の夕方、ジネットの予想通り、戦に備えて武器類を大量に手配するようにとの指示が出された。
オーシェルのセナンクール家で働く者たちは、その対応に追われ、仕事が一段落ついたときには、夜もとっぷりと更けていた。
レナエルは自分の仕事を終えた後、愛馬の世話にも時間を取られ、屋敷の離れにある自分の部屋に戻ったのは、深夜近くになっていた。
事前に姉から情報をもらっていなければ、もっと遅くなっただろう。
部屋のカーテンの隙間から外をのぞいてみると、半分に満たない月が高く昇り、淡い光がうっすらと辺りを照らしていた。
中庭の向こう側にある本館の灯りは既に消え、ひっそりと静まり返っている。
離れに寝泊まりする他の使用人たちも、ほとんど眠ってしまっているようだ。
「あーあ。今日は遅くなっちゃった。ジジ、寝ちゃったかな?」
レナエルはランプを消してベッドに潜り込むと、姉にそっと話しかけた。
返事がなければ、今晩はあきらめるつもりだったが、すぐに返事が返ってきた。
『もぉ、遅いじゃない。ちょっと寝ちゃってたわ』
『ごめーん。今日はちょっと忙しかったんだもん。ルカの世話をしていたら、こんな時間になっちゃった』
少々不機嫌そうな声の姉に、甘えるように言い訳する。
こんなに遅い時間でも、相棒がちゃんと自分を待っていてくれたことが嬉しい。
『あんな指示が出されたら、そうよね。大変だったでしょ。お疲れさま』
二人はベッドに入ってしばらくの間、おしゃべりをして過ごすことが日課になっていた。
とりとめのない話をしているうちに、どちらからともなく眠りに落ちていく。
そんなささやかな時間が幸せだった。
この晩も、いつの間にか言葉が途絶え、二人は心地よい眠りについた。
『いやぁー! 助けて。レナ!』
ジネットの叫び声が聞こえた気がして、はっと目を開いた。