真夜中は別の世界
僕が生まれ育った場所は、東京都内の某地区である。正直な話、治安が良い……とは、お世辞にも言えないような場所だ。
実際、うちの近所では夏になると上半身裸の日雇い労働者や工員などが路上をうろつき回っていた。時には、缶ビール片手に下半身を丸出しにして徘徊するおじさんまで出没していたくらいだ。
公園に行けば、額に剃り込みを入れた中学生が、タバコを吸いながらしゃがみこんでいる。小学校時代の僕の友だちなどはタバコを吸わせてもらい「タバコ吸ったぜ。俺、今日から不良だよ」などと、笑いながら言っていたこともあった。
しかし、そんなのはまだマシだ。当時の僕はまだ、自分の住んでいる町に潜む裏の顔を知らなかった。それは、まさに異世界への入口……そう、僕の町には別の顔があったのだ。
それは、小学三年生の夏休みのことだった。
僕は、友人のアキヒコの家に遊びに来ていた。アキヒコは頭は悪いが明るくヤンチャな少年で、僕たちのリーダー格でもある。そのアキヒコが、何を思ったのか、こんなことを言い出した。
「なあ、三丁目のボロい空き家あるじゃん」
「ああ、あるね」
何の気無しに僕が答えると、アキヒコはとんでもないことを言った。
「夜、あそこにオバケが出るらしいんだよ。みんなで、ちょっと行ってみないか?」
「えっ……」
僕は困惑した。アキヒコの言っているボロい空き家とは、町外れにある一軒家のことだ。
かつては金持ちの一家が住んでいたらしいが、家の持ち主である中年男が妻と息子を滅多刺しにした後、首を吊った……といういわくつきの場所である。
「おいケンイチ、お前もしかしてビビってるの?」
アキヒコに言われ、僕はカチンときた。
「は、はあ!? ビビってるわけねえじゃん! だいたい、オバケなんかいるわけねえんだよ!」
そう、当時の僕は幽霊やオカルトじみた話が大嫌いだった。学校では、そんな話をしている連中をバカにしていたくらいだ。
すると、アキヒコはにやりと笑う。
「だったら、怖くねえよな。行こうぜ」
そう言った後、アキヒコはマサカズの方を向いた。
「マッちゃんも行くよな?」
このマッちゃんことマサカズは、図体の大きい食いしん坊キャラである。もっとも、性格は引っ込み思案でおとなしい。活発なアキヒコの後を付いて歩くタイプだった。したがって、答えは決まっていた。
「う、うん。行くよ」
マサカズは、愛想笑いを浮かべながら答えた。
僕たちは計画を立てた。夜中の零時に、家を抜け出して集合する。その後、町外れの空き家へと侵入し探検する。自分たちが入った証明として、三人の名前を書いてくる。さらに、中にあった物を戦利品として持ち帰る。
はっきりいえば、計画などと呼べるようなものではない。だが、僕たちは真剣だった。空き家の探検……それは、僕たちにとって大きな意味を持っていた。
特に成績が良いわけではなく、かといってスポーツが出来るわけでもない。クラス内では、底辺のグループに属していた僕たち。お世辞にも、人気者だとは言えなかった。
だからこそ、クラスにいる一般の同級生たちに真似の出来ないことをする必要がある。勉強もスポーツも出来ない僕たちに何が出来るか……体を張って皆が驚くようなことをやらかすしかない。
もし僕たちが今の時代に生まれていたら、バカなことをしでかしてはSNSで拡散するような子供になっていただろう。だが幸か不幸か、当時は今ほどネットは発達していなかった。
夜中、僕たちは空き家の前に立っていた。
空き家は二階建てで、昼間に見た時よりも不気味な雰囲気を醸し出している。正直、僕は入るのが怖かった。
しかしアキヒコは平気でずかずか入って行く。ドアのノブに手を伸ばし、ぐいと捻った。
ドアは、いとも簡単に開く。
「おい、鍵かかってないぞ」
アキヒコが、小さな声で僕たちに言った。僕とマサカズは、思わず顔を見合わせる。こんな簡単に入れるとは、全く想定外だった。
「何やってんだ? 早く来いよ」
言いながら、アキヒコは家の中に入って行く。こうなった以上、僕たちも付いて行くしかなかった。
僕たちは、懐中電灯で足元を照らしながら、慎重に進んで行く。周囲には埃が積もっており、時々カサカサという音も聞こえてくる。虫や鼠などが動いているのだろう。
既に誰も住んでいないはずだが、家具はまだ残されている。窓にはカーテンも付いているし、床には絨毯らしきものも敷かれている。ただし、どれもボロボロだが。
その時、先頭を歩いていたアキヒコが足を止める。
「階段があるぞ」
彼の声は、少し震えていた。いうまでもなく、アキヒコも怖かったのだ。しかし、僕はそこには触れずに言葉を返す。
「階段? じゃあ二階に通じてるんだね」
「いや、違うんだよ。降りる階段なんだよ」
「じゃあ、地下室があるの?」
言ったのはマサカズだ。彼の声も震えていた。
「ああ、そうみたいだ。降りてみようぜ」
そう言うと、アキヒコはさっさと階段を降りて行く。僕たちも、仕方なく付いて行った。
階段を降りると、目の前に扉がある。アキヒコが取っ手を引くと、扉は呆気なく開いた。
そこは、おかしな場所だった。
この地下室は、かつて物置として使われていたらしい。何に使うのか分からないような道具が、あちこちに置かれている。
だが、その道具は埃を被っていなかった。一階の家具には、埃が積もっていたのに。
それだけではない。この部屋からは薬品の匂いがした。何だか分からないが、明らかに空気そのものが違っている。
僕は耐えきれなくなった。
「アキヒコ、もういいだろ。出ようよ」
「何だお前、ビビってんのか」
そう言うアキヒコの声も震えている。僕は腹が立ってきた。
「アキヒコだって、ビビってんじゃねえか!」
「んだと! 俺はビビってない――」
言いかけたアキヒコの表情が、一瞬にして硬直した。そのまま、後ずさっていく。まるで、僕から遠ざかろうとしているかのように。
僕とマサカズの背後には、何かがいる。アキヒコをも震えあがらせる何かが……。
その時、いきなり部屋が明るくなった。と同時に、後ろから声が――
「君たち、こんなとこで何やってんの?」
あまりにも普通の声だった。近所の優しいおじさんが、笑いながら声をかけているような………僕とマサカズは、恐る恐る振り返る。
だが、そこにいたのは優しいおじさんなどではなかった。作業着のような服を着た男が二人、クスクス笑いながら立っている。幼い僕たちにも、男たちが堅気でないのは分かった。
さらに二人の後ろには、布に包まれた長い物体がある。
「ヨッシー、こいつらどうする?」
片方の男が、僕たちを指差す。
ヨッシーと呼ばれた男は、無言のままポケットから何かを取り出す。
次の瞬間、ヨッシーはしゃがみ込んだ。僕の襟首を掴み、口の中に何かを突っ込む――
それは、ナイフだった。ナイフの刃が僕の口の中に押し込まれ、頬のあたりに刃が当てられている。僕は恐ろしさのあまり、思考が停止していた。
「いいかい、よく聞くんだ。俺たちの言うことを聞いて、おとなしくしていろ。でないと、君は口裂け男になっちゃうよ。口が耳元まで切れてね……無茶苦茶痛いよ」
もちろん、僕に抵抗など出来るはずがない。泣きそうになりながら、ウンウンと頷いていた。
するとヨッシーは、マサカズの方を見た。
「じゃあ、君はどうする?」
だが、マサカズは何も答えない。彼は無言のまま、その場にへたり込んだ。
直後、嫌な匂いが周囲に広がる。何が原因かは、考えるまでもなかった。
「ヤス、こいつクソ漏らしたぜ」
言いながら、ヨッシーはマサカズを指差す。ヤスと呼ばれた方は、うんざりした表情になった。
「ざけんなよ……」
呟くように言った後、ヤスは部屋の隅を指し示した。
「お前ら三人、そこでおとなしくしていろ。俺たちがいいって言うまで口を閉じて、じっとしているんだ」
いったい、どのくらいの時間が経ったのか分からない。
僕たちに分かったのは、ヨッシーとヤスというユニークな名前のコンビが、目の前で死体をバラバラに切り刻み解体していったことだ。布に包まれた物体は、男の死体だったのである。二人は布を引きはがし、男の死体を器用に解体していった。雑談を交えながら、楽しそうに。
今もはっきり覚えている。彼らの作業は実に手際がよく無駄がない。僕は何度も吐き、胃の中は空になった。にもかかわらず、彼らのしていることから目が離せなかった。
やがて、彼らは作業を終えた。死体を綺麗に解体し、肉と骨とに分けてビニール袋に詰める。さらに、部屋の中に薬品を撒いた。その時、ヨッシーが僕を見る。
「君、凄いね。ずっと見てたのかい」
その言葉には、何らかの感情が込められていた。彼は僕の目の前にしゃがみ込むと、再びナイフを取り出す。
刃を、僕の喉元に押し当てた。
「実はね、君ら三人も殺すつもりだったんだ。でも、君は度胸がある。その度胸に免じて、生かしておいてあげるよ。だけど、ここで見たものの話は誰にもしちゃダメだ。もし他の人に話したら、俺は必ず君を殺す。君だけじゃない……君の家族も、全員殺す。分かったね?」
そう言った後、ヨッシーはヤスの方を向いた。
「腹減ったな。帰りにラーメンでも食っていこう」
「ああ、俺も腹減った」
彼らが去った後、僕は他の二人を見た。
アキヒコは両手で顔を覆い、震えながら下を向いていた。
マサカズは、意識を失っていた。
そして僕は、疲労に襲われ深い眠りについた。
その後、どうやって帰ったのか……詳しいことは覚えていない。不思議なことに、ところどころの記憶がすっぱり飛んでいるのだ。微かに記憶に残っているのは、朝方になって家に帰り両親にこっぴどく叱られたこと、その後にひどい熱を出して寝込んだことくらいだた。
空き家で目にしたもののことは、誰にも言わなかった。
夏休みが終わり、僕は普段のように学校に登校する。宿題を全くやっておらず、担任の教師に叱られた。だが、そんなことはどうでもよかった。
アキヒコとは学校で会ったが、以前のように話すことは出来なくなっていた。
マサカズは、学校に来なかった。それ以後、彼は一度も登校しなかった。
ヨッシーとヤスのコンビとは、その後会うことはなかった。僕は今も分からない……なぜ、奴らは僕たちを見逃したのだろうか。もしかしたら、マサカズが「もらした」せいなのかもしれない。真相は永遠にわからなかったが。
僕たちの人生を変えた空き家は、夏休みが終わらないうちに取り壊されてしまった。
もっとも僕たちの記憶から、あの場所が消えることはなかったのだ。
・・・
野口昭彦は、仕事を終えて帰途についていた。今日もまた、口うるさい上司からガミガミ説教をされた……本当に疲れる。
だが、そんなことはどうでもいい。今日は、あの日なのだ。昭彦は異様な興奮を覚え、自分を抑えるのが精一杯だった。
家に帰ると服を着替え、車に乗り込む。ゆっくりと走り、獲物を探した。
やがて、目当てのものを見つけた。まだ二十歳になるかならないか、タンクトップにホットパンツという露出過多の若い女だ。もう零時を過ぎているというのに、警戒する素振りもなく平然と歩いている。
昭彦はニヤリと笑った。こういうバカには、罰を与えなくてはならない。この世界が、どれだけ危険なのかを。
そう、昭彦にとって真夜中は別の世界なのだから。
昭彦は車を降り、後ろからそっと近づいていく。ポケットから、スタンガンを取り出した。まずは、スタンガンで不意打ちだ。その後、手錠をかけて車に運び込む。時間をかけてたっぷり楽しんだ後、殺す。これまで、何度もしてきたことだ。
女との距離は縮まってきた。後はスタンガンを食らわすだけ――
「ちょっといいですか?」
不意に、背後から声をかけられた。昭彦はハッとなり振り返る。
そこには、スーツ姿の男がいた。それも三人。さらに前を歩いていた女も、鋭い表情でこちらを見ている。
昭彦は思わず顔をしかめた。どうやら、罠だったらしい。
「お話を聞きたいので、ちょっと署まで来てもらえませんか?」
一人の男が、警察手帳を見せながら言った。昭彦は、すました表情で頷く。
「ええ、構いませんよ」
警察署での取り調べに、昭彦は黙秘を貫き通す。彼の家には何も証拠はないのだ。取り調べで自白さえしなければ、昭彦は無罪である。
死体さえ見つからなければ、ただの行方不明……その知識は、小学生の時の悪夢の記憶から学んだことである。刑事の取り調べも、あの時の恐怖に比べれば大したことはない。今もいかつい顔の刑事がさんざん怒鳴り散らしたが、昭彦は全て無視した。
さて、次はどんな刑事が来るのだろうか。
入って来たのは、まだ若いスーツ姿の青年だった。自分と同じくらいの年齢か……。
直後、昭彦の表情が一変する。
そこにいたのは、小学生の時の親友・加藤健一だった。あの悪夢のごとき体験を、自分と共有した相手とここで再会しようとは……。
健一は、真っすぐな目で昭彦を見つめる。
不意に、その表情が歪んだ。
「一昨日、マッちゃんが死んだ。首を吊ったよ」
「えっ……」
昭彦には、それしか言えなかった。マッちゃんとは、二人と共にあの悪夢を過ごした友人・中田正和に間違いない。夏休みが終わっても学校に姿を見せず、そのまま引きこもりになってしまったと聞いていた。
その正和が、自殺したとは……。
「お前のせいでマッちゃんが死んだ、とは言わない。だがな、責任がないとも言えないんだよ。俺たち二人はな、マッちゃんの人生を変えちまったんだよ……間接的にせよ、な」
声を震わせながら言った直後、健一はいきなり立ち上がる。
昭彦の前で土下座した――
「昭彦、お前の人生が変わっちまったのも分かる。仕方ないとも思う。だがな、これ以上罪を重ねないでくれ! 頼むから、罪を償ってくれ!」
叫ぶ健一を、昭彦はじっと見下ろしていた。彼の頭に、かつての記憶が蘇る。健一や正和を引き連れ、あちこちで悪さを繰り返した日々が、昨日のことのように思い出された。
ややあって、昭彦は笑った。
「やめてくださいよ刑事さん。俺は、何も悪いことはしていませんから。スタンガンは、護身用に持っていたものです」
その時、健一は凄まじい形相で立ち上がった。
「昭彦……てめえは、人間をやめちまったのか?」
絞り出すような声で言った健一に、昭彦は冷ややかな表情を向ける。勝ち誇るかのように、クスリと笑った。
「あのう、おっしゃっている意味が分からないんですが」
二十日間の拘留期限が過ぎ、昭彦は証拠不十分のため釈放された。彼は、とある場所へと向かう。
久しぶりに、小学校の卒業アルバムを広げてみた。健一は、暗い表情で写真に写っている。昭彦よりも、ずっと暗い表情だ。それこそ、将来は殺人鬼にでもなりそうな顔つきである。
だが自分と違い、健一はまともな人生を歩んでいた。その事実に、昭彦は複雑な思いを抱いている。様々な感情が入り混じった思い……嬉しいという気持ちはある。だが、素直に喜べない気持ちもある。
だからこそ、こんな形でケリをつける気になった――
ふと、眠気を感じた。抵抗できない強烈な眠気だ……昭彦は横になり、目を閉じる。
マッちゃん、ごめんよ。
昭彦の目から、ひとすじの涙がこぼれた。
・・・
連続女性失踪事件の最有力容疑者であった野口昭彦の死体が発見されたのは、釈放された翌日のことである。死因は、睡眠薬の大量摂取による自殺だった。




