夏が、来た
とある閑静な住宅地。木村栄治は塀によりかかり、じっと待っていた。
時刻は、既に午後十時を過ぎている。空には月が昇り、周囲は暗闇が支配していた。にもかかわらず、この暑さはなんなのだろうか。栄治は額から落ちてくる汗を拭い、スマホを見ている……ふりをしながら、周囲に気を配る。
もうすぐだ。
もうすぐ、標的が現れるはず。
やがて、一人の男が姿を現した。歳は二十代前半、アイドルのように整った顔立ちとホストのような派手な髪型、さらにタンクトップとハーフパンツという服装である。スマホをいじくりながら、警戒心のかけらもない表情で栄治の前を通り過ぎていった。
なんと愚かな男なのだろうか。もっとも、こちらとしてはその方が仕事がやりやすい……栄治は、音も立てずに背後から忍び寄る。
直後、首に腕を巻き付けた――
若者は、ようやく自分が危機に陥ったことに気づいたらしい。スマホを落とし、必死でもがく。だが、その抵抗は無駄だった。栄治の腕は若者の気道をふさぎ、頸動脈を絞めていく。
やがて、若者の意識は途切れた。
意識を失った若者を車に運び、両手両足を縛りあげる。口には、針で穴を空けたダクトテープを貼りつけた。これで、呼吸は可能だが大声を出すことは出来ない。あとは、品物を届けるだけだ。
栄治は若者を担ぎ上げ、車のトランクに放り込んだ。その後、何事も無かったかのような表情で車を走らせる。
依頼人に若者を差し出せば、全ては終わる。今回の依頼人は中年女だが、彼女が青年をどうするのか……それは、栄治の知ったことではない。飼い殺しの奴隷として飽きるまでいたぶり続けるのか、あるいはジワジワといびり殺すのか……どちらにせよ、若者の人生はもう終わりだろう。
さらに、どちらの道を歩むにしても、栄治の知ったことではない。いや、死体になってしまったら、栄治の出番はまだあるかもしれない。
死体の始末という、面倒な役目が。
依頼人に若者を引き渡すと、栄治はまっすぐ家に帰る。今日は、本当に暑い日だ。
夏が来ると、栄治はいつも憂鬱な気分になる。彼にとって思い出したくもない記憶……それが、否応なしに呼び起こされる季節だから。
家の扉を開けて明かりをつけ、栄治は中に入っていく。決して広くはないが、かといって一人で生活するには狭くもない大きさだ。このマンションに引っ越してきて半年になる。
栄治はちゃぶ台の前に座り、クーラーのスイッチを入れる。
ふと、人の気配を感じた。振り返ると、父と母が立っている。
「また来たのかよ……」
栄治は舌打ちした。二人は、何がしたいのだろう。言いたいことがあるなら、言えばいいのに。
不快そうな表情を向ける栄治を、父と母は無言のまま見つめている。栄治はもう一度、聞こえるように大きく舌打ちした。立ち上がり、冷蔵庫の中を覗く。昨日スーパーで買いこんだ惣菜が、まだ残っていたはずだ……父と母が、無断で食べていない限りは。
冷蔵庫の中は、昨日のままだった。ビニールパックに入った唐揚げとポテトサラダが残っている。台所にあったカップラーメンにお湯を入れ、ちゃぶ台に並べた。
父と母は、相変わらず無言のままだ。うっとおしくて仕方ない。
「さっさと失せろ。でないと、もう一度殺すぞ」
さすがに耐えきれなくなり、栄治は二人を睨んだ。すると、父と母は何やら言い出した。口が動いているが、声は聞こえない。
栄治は、もう一度怒鳴りつけようとした。だが、面倒くさくなり止めた。その代わりにテレビをつけ、カップラーメンと惣菜の残りを食べ始める。
美味くも何ともない。ただ、食べなくてはならないという義務感から食べている。明日も、面倒な仕事があるのだ。食べなければ、仕事に差し支える。
そんな侘しい食事を、さらに不味くさせる両親の存在……父も母も、無言のまま後ろで突っ立っている。その顔には、表情らしきものは浮かんでいない。
不意に、誰かが隣に座った。見なくても、何者であるかは分かっている。
「姉ちゃん、また来たのかよ」
隣を見ようともせず、うんざりした口調で栄治は言った。隣に座りテレビを観ている女は、一応は姉なのだが……栄治より歳下に見える。
だが、それも仕方ない話だ。姉は十年前に死んでいるのだから。両親と一緒に、火事で焼け死んだことになっている。
ところが、真相は違う。火事になる前に、既に殺されていたのだ。
・・・
木村雄一と沙織の夫婦には、二人の子供がいた。長女の冴子と、弟で長男の栄治だ。
四人は、端から見ればごく普通の家族だった。都内の一軒家に家族で住んでおり、近所からの評判も悪くはない。
だが、木村家は普通ではなかった。沙織は、とある金持ちの社長の愛人であったのだから。
夫の雄一は、もともと海外に赴任していた優秀な商社マンだったのだが、ある日テロリストに誘拐される。言うまでもなく、身代金目的だ。
マスコミには知らされないまま、身代金と引き換えに解放された雄一。以来、彼は身も心も病んでしまった。想像を絶する恐怖を味わわされ、毎日受け続けてきた肉体への暴力。平和な日本で平穏に育った雄一に、耐えられるはずがなかったのだ。
雄一は毎日、虚ろな目で椅子に座りテレビを観ているだけ……家族を養おうという意欲は失われており、性的にも不能になっていた。当然ながら、仕事など出来るはずもない。
こうなった以上、木村家は暮らしかたを変えなくてはならなかった。生活のレベルを下げ、雄一の病気による年金の支給を申したてる。場合によっては、生活保護も申請する……それが、普通だろう。
だが、沙織は違っていた。見栄っ張りである彼女は、生活レベルを下げることに耐えられなかった。さらに、夫が壊れてしまっていることも世間に公表したくなかった。
そんな沙織に手を差しのべたのが、金融会社社長の肥田である。彼は、木村家を援助してくれた。引き換えに、家族は肥田の奴隷となる……。
肥田は、沙織の肉体を欲望のおもむくままに扱った。しかも、肥田の性欲は尋常ではない。夫や子供の見ている前であろうと、平気で沙織を犯した。
そんな家庭で、栄治は姉の冴子と共に育っていった――
栄治は、自分の家族が嫌で嫌で仕方なかった、虚ろな目で、腑抜けのような表情で日々を過ごしている父。自分の目の前で、狂ったような痴態を見せる母。下卑た笑みを浮かべ、母に手を伸ばす社長。
そんな異常な光景を、黙って見ていなくてはならない自分たち……。
「いつか、姉さんと一緒に家を出よう」
冴子は、そう言っていた。姉は、とても美しく清らかな存在である。幼くして、この世の狂った部分を見せられてきた栄治にとって、姉だけが唯一まともな存在であった。
いつか姉と一緒に、この家を出て行こう。
誰も知らない場所で、まともに生きよう。
栄治は、そう心に決めていた。
だが、その夢が崩れ去る時が来る……。
社長は、ついに冴子にまで手を出したのだ。十六歳の冴子は美しく成長していた。母の美貌を受け継ぎ、さらに狂った家庭で育ったがゆえの暗い瞳と諦念に満ちた表情とが、彼女にえもいわれぬ不思議な魅力を与えていたのだ。
そんな冴子を、社長は放っておいてくれなかった。
それは、栄治にとって忘れられない日であった。
中学二年の夏休み、栄治は暗くなってから帰宅した。家の明かりは消えていたため、彼はそっと中に入って行く。恐らく、皆は眠っているのだろう。肥田は既に帰った頃だ。栄治は足音を立てないようにして、二階の階段を上がって行った。
だが、姉の部屋の前を通りかかった時、妙な違和感を覚えた。明らかに、姉のものではない寝息が聞こえるのだ。
不吉な予感が胸を掠め、そっとドアを開けてみる。
あっさりと、ドアは開く。
姉のベッドの上には、とても醜い生き物がいた。脂肪の塊のごとき肉体を隠そうともせず、一糸まとわぬ姿で眠っている。寝息の度に、贅肉が震えるのが滑稽であった。
その隣には、冴子がいる。だらしない表情で、肥田と同じく裸体のまま眠っていた。
この時、自分がどんな心理状態であったのか、何を考えていたのか……栄治には、今もって説明できない。ただひとつ確かなのは、劇的な怒りの衝動に駆られたわけではない、ということだ。彼は極めて冷静に、音を立てずドアから出ていった。
無言のまま台所に行き、包丁を手にする。
そして、再び二階へと上がって行った――
ネットなどで武勇伝を語る人間は、決まってこんなことを言う。
「キレた直後、気がついたら全員が血まみれで倒れていた。何をやったのか覚えてない」
実に羨ましい話だ。なぜなら、栄治は自分が何をしたか、今もはっきりと覚えている。
彼は、口を開けたまま寝ている肥田に包丁を突き刺した。何度も何度も刺した。
血は大量に流れ、ベッドは真っ赤に染まる……にもかかわらず、肥田はなかなか死ななかった。ああいう人種というのは、本当にしぶとい。悲鳴を上げながら、必死で逃げようとした。逃げられないと知るや、惨めに命乞いをした。涙と鼻水とよだれを撒き散らしながら、助けてくださいとすがりついてきた。
その時、栄治は思いだした……首と後頭部の境目には、延髄という急所があることを。そこを刺せば、死ぬはずだ。
栄治は、包丁を振り下ろした。
冴子は、栄治の凶行をじっと見ていた。
逃げようと思えば、逃げられたはずだった。なのに妖艶な笑みを浮かべ、両手を広げたのだ。
「あんただって、私とやりたいんでしょ……知ってたよ、あんたが何を考えてるか」
姉は、はっきりとそう言った。だが、その言葉は栄治の心に響かなった。人をひとり殺した直後だというのに、彼の心は氷のように冷えきっている。
栄治は表情ひとつ変えず、包丁を振り上げた。
その時、姉の顔に浮かんだものは……乾ききった笑みだった。
栄治は、下に降りていった。
その時、さらなる異変に気づいた。上の騒ぎを、父も母も聞いていたはずだ。なのに、出てくる気配がない。
いや、もしかしたら……二人は、逃げ出したのかもしれない。
まあ、いい。こうなったら、もはやどうなろうと知ったことではない。殺人犯として裁かれたとしても、一向に構わない。
自分の人生は、終わっているのだから――
「栄治」
闇の中から、自分を呼ぶ声がした。
振り返ると、父が立っていた。暗闇の中、どんな表情をしているのか分からない。
「頼む……お前だけは、まともに生きてくれ」
はっきりとした声で、父は言った。
その言葉を聞いた瞬間、栄治は包丁を振り上げ襲いかかった――
お前のせいだ。
お前がまともじゃないから、俺もまともでなくなった。
その後、栄治は灯油を撒き火をつけた。
何もかもが燃えていく。呪われし家族は、みな焼けていった。
炎に包まれ、灰と化した家……焼け跡からは、四つの焼死体が発見されたらしい。
母は、焼け死んだのだろうか。
それとも、父が殺したのだろうか。
栄治もまた、警察から取り調べを受けた。だが、知らぬ存ぜぬで通した。父がおかしくなっていたことや、母が肥田と関係を持っていたことも、包み隠さずに話した。そんな狂った家に帰りたくなかったため、外を泊まり歩いていた、という嘘も吐いた。
警察は、その嘘を信じた。結果、全ては父の犯行ということで処理された。
・・・
父や母や肥田のような人間にだけは、絶対にならない、まともに生きる……栄治は、そう誓っていたはずだった。
それなのに……。
気がつくと、あのクズども以下の外道へと成り下がってしまった。吸い寄せられるように裏の世界へと足を踏み入れ、そこにどっぷりと浸かっている。
これまで、何人の人間を地獄に叩き落としてきたのだろうか。
自分がこんな人間になったのは、誰のせいだろう。
あの事件以来、夏が来ると彼らは現れる。
無言のまま栄治の周囲で好き勝手に過ごし、夏の終わりとともに消えていく。栄治に恨みの言葉を吐くわけでもなく、危害を加えるわけでもない。時おり、哀れむような視線を向けるだけだ。
彼らは何なのだろう。幽霊なのか、それとも幻覚か……栄治には分からない。彼らが何の目的で来ているのか、それも分からない。
ひとつ確かなのは、彼らは今も栄治を見つめている。
家族の中で、唯一生き残ってしまった栄治を。




