その男、侠客につき
その瞬間、世界の強者たちのランキングが一斉に変化した――
安藤啓一は、ゆっくりと左右を見回した。
全く見覚えのない風景だ。周囲は樹木に囲まれており、下には草が生えている。虫や小動物の蠢くカサコソという音、さらには動物の鳴き声らしきものも聞こえる。
これは……かつてテレビなどで観た、南米のジャングルそのものではないか。
俺はついさっきまで、ネオ・カブキチョウというコンクリートジャングルにいたはずなんだが……。
まさか、本物のジャングルに来るとはな。
安藤は困惑し、頭をぽりぽりと掻いた。さて、これからどうしたものか。まずは、ここがどこなのかを知る必要がある。
だが、どの方角に行けば人がいるのだろう。
常人なら途方にくれて崩れ落ちるか、逆にやけを起こして歩き回り、無駄に体力を消耗していただろう。だが、安藤はネオ・カブキチョウでステゴロ(素手での喧嘩)最強と謳われたヤクザである。
まず、安藤は上着を脱ぎ肩にかけた。ネクタイを緩め、ハンカチで額の汗を拭く。雲ひとつない青い空に、太陽が浮かんでいる。少し暑いが、ネオ・カブキチョウのうだるような熱気に比べれば、遥かに過ごしやすい。虫が寄って来るのがうっとおしいが、風俗街の客引きに比べればマシだろう。
やがて、安藤は歩き出した。数々の修羅場をくぐり抜けてきた勘に身を委ね、ジャングルをゆっくりと進んでいく。
その時、妙な気配を感じ足を止めた。遠くから、がさがさという音が聞こえてくる。途方もなく巨大な何かが、こちらに向かって来ているのだ。この感じからして、人間とは思えないが……熊か、あるいは巨大な何か。
安藤は、相手の出方を窺うことにした。もし話が通じるようなら、このあたりの情報を聞いてみる。話が通じない相手なら……その時は、その時だ。
やがて、音の主が姿を現した。
安藤は身長が百九十センチ、体重は百六十キロある。分厚い筋肉の上にうっすらと脂肪の乗った肉体は、見る者全てを怯えさせる迫力があった。
だが、安藤の目の前にいる「何か」は彼より遥かに大きい。恐らく、三メートル近い身長だろう。尖った耳や牙の生えた口、緑色の肌……どう見ても日本人ではない。
さらに筋肉はゴリラのようであり、獣の毛皮をその身にまとっていた。一応は人の形をしてはいるが、話が通じるような相手には見えなかった。
この姿は……幼い頃にプレイしたRPGに登場するモンスター・オーガーのようだ。
「お前、オーガーに似てるな。ところで、言葉分かるか? 俺は、このあたりは初めてなんだよ」
安藤は、念のため話しかけてみた。だが、返ってきたのは威嚇するような唸り声である。こちらを睨んでいる表情から察するに、平和的に話し合う気はないらしい。
戦いは避けられないようだ。
突然、オーガーは吠えた。野性を剥き出しにした、獣の咆哮……直後、オーガーの拳が放たれた――
キャッチャーミットほどもある巨大な拳が、安藤の顔面に炸裂する。その一撃は、とてつもなく重い。普通の人間なら、たった一発で撲殺されていただろう。
だが、安藤は常人ではない。強者ぞろいのネオ・カブキチョウでも、ステゴロ最強と謳われていた漢である。
避けようと思えば、避けられたはずだったオーガーの鈍重なる一撃。だが、安藤は顔面で正面から受け止めたのだ。僅かに顔を歪めたものの、微動だにせず耐えきっている。
「いいパンチだな、兄ちゃん。だがな、二年前の抗争でダンプぶつけられた時の方がよっぽど効いたよ」
そう言って、ニヤリと笑う安藤。
一方、オーガーは予想外の事態に呆然となっていた。目の前にいるのは、大きめの人間だ。彼にとって、人間とはすなわち餌でしかなかった。
だが、こいつは他の人間とはまるで違う――
「次は、こっちの番だぜ」
言った直後、安藤は右手を上げる。その手のひらは握られていない。
直後、全体重をかけ、凄まじい勢いで右掌底を放った――
その一撃は、オーガーの顔面を捉える。
次の瞬間、オーガーの体は重力から解き放たれた。二百キロを超える巨体が宙を舞い、後方へと飛んだ――
地面に叩きつけられ、オーガーは呻く。今の一撃は、彼の想像を遥かに超える重さであった。崖の上から、巨大な岩が降ってきた……それくらい、重い掌底だったのだ。
「まだ、やるかい」
倒れているオーガーに向かい、安藤は言った。だが、オーガーは猛然と立ち上がる。彼にとって、人間は餌だ。
餌に負けたとあっては、この先生きていけない。
「グオオオ!」
オーガーは吠えた……己を鼓舞するかのように。直後、安藤に襲いかかる――
これが、仮に純粋なる野生動物であったなら、戦わずにさっさと逃げていただろう。野生動物は、無駄な争いはしない。相手が手強いと判断したなら、戦わずにその場を離れ、もっと楽に倒せる獲物を探す。彼らが死に物狂いで戦うのは、命の危険を感じた時だけ。
ところが、このオーガーは人型である。思考は人間に近い。したがって、己の持つ野性の本能に、素直に従うことが出来なかった。プライドという感情が、彼の命を縮めてしまった。
「まだ、やるんだな。だったら、もう手加減はしねえぞ」
安藤の声は冷たい。と同時に、右の拳を固めた。
突進してきたオーガーに、右拳を放つ。過去、己の前に立ちふさがる者を、ことごとく打ち砕いてきた拳。安藤にとって、もっとも頼りになる武器だ。
その安藤の右拳は、オーガーの顔面に炸裂した――
何のへんてつも工夫もない、たった一発のパンチ。古武術の秘技でも拳法の奥義でもない、単なる力任せの一撃である。お世辞にも技と呼べるものではない。
にもかかわらず、安藤の拳はオーガーの頭蓋骨を砕いた。その巨体は後方へと飛んでいき、地響きと共に倒れる。
この怪物は、もう起き上がることは出来ない……安藤は、悲しげな目で見下ろしていた。
久しぶりに、本気の一撃を放った。こいつなら、もしかしたら自分を満足させてくれるかもしれない……そう思ったのに。
「悪いな、兄ちゃん。その程度じゃ、ネオ・カブキチョウではアタマを張れねえんだよ」
そう言うと、安藤は再び歩き始める。彼は、振り返りもせず去って行った。
安藤の姿が完全に消えると、息を潜めて見ていた者たちが動き出した。野性の狼や鴉である。彼らはオーガーの屍に群がり、その肉を食らい始めた――
オーガーは、この森では食物連鎖のトップクラスにいた存在である。頂点ではないが、己の分をわきまえている限り、彼はほとんどの生き物よりも長生き出来たはずだった。
だがオーガーは、自分よりも強い者と戦うという愚を犯した。野生動物にとって、もっとも愚かな行為である。
その愚かさゆえ、オーガーは弱者の食料と化してしまった……。
安藤は、またしても足を止めた。
妙な気配を感じる。この気配は、人間のものだ。だが、ただの人間ではない。明らかに、堅気ではない人間の発する空気だ――
「その顔に、その格好……お前さん、何者だ?」
草の陰から、不意に姿を現した者がいる。身長は百六十センチほど、坊主頭でいかつい顔をしていた。作業着のような汚い服を身につけ、低い姿勢でじっとこちらを見ている。
「なあ、あんた。洒落た格好してるが、こんな所で何してんだ?」
そう言って、男はニヤリと笑った。もっとも、目は油断していない。明らかに、こちらを警戒している。
一方、安藤の方はにこりともしない。というより、出来なかったのだ。驚きのあまり、思わず声を発していた。
「お、お前は……白川!」
白川義夫……百年以上前の時代に、伝説の脱獄王として名を遺した男である。
一本の釘で錠前を破る技術、ほぼ水平の壁を道具なしで昇れる超人的な腕力、どんな刑務所でも弱点を発見する鋭い観察眼、短距離ランナーの瞬発力と長距離ランナーの持久力とを兼ね備えた脚力……彼は、本物の超人として後世に伝えられている。犯罪に手を染めなければ、オリンピックでいくつのメダルを獲っていたか分からない……とまで言われていたのだ。
もっとも、白川は既に死んでいるはずだった。最後に脱獄した刑務所から逃げる際、警官隊からの制止を無視したために銃で射たれ、崖から転落したのだ――
今、安藤の目の前にいる男は、かつて読んだ本に載っていた白川の写真と瓜二つである。
「はあ? お前、俺を知ってるのかよ……となると、悪いがただでは帰せねえな。こっちは、脱獄の最中なんだよ」
言ったと同時に、男の表情が変わる。低い姿勢のまま、すっと身構えた。
直後、安藤も本能的に身構えていた。この男、やはり伝説の脱獄王・白川らしい。脱獄の最中、とはどういうことだろうか?
だが、そんなことはどうでもいい。安藤は、久しぶりに血のたぎりを感じていた。この男は体こそ小さいが、先ほど仕留めたオーガーよりも格段に強い。今まで会った中で、最強の漢だ――
「やっぱり、白川義夫に間違いないんだな。だったら、俺とちょっとだけ遊んでくれねえか」
言いながら、安藤は一歩踏み出す。白川はすっと横に動き、ニヤリと笑った。いかにも愉快そうな様子だ。どうやら、こいつも安藤と同類であるらしい。
この不思議な世界にて、日本を代表する二匹の怪物が激突……しようとしていた時だった。
「け、けんかはよくないんだな」
いきなり聞こえてきた、とぼけた声……二人は、そちらを向いた。
坊主頭に太った体、白いランニングと短パン姿でリュックを背負った男がいた。困ったような表情を浮かべて、二人をじっと見つめている。その顔つきは、仏像のように柔和なものであった。
唖然としている二人に、男は何かを差し出す。
「お、お腹が空くと、怒りやすくなるんだな。お、おむすびを食べれば、少しは気が収まるんだな」
言いながら、男が差し出してきたのは……大きなおむすびである。それも、二つ。
突然、プッという笑い声が聞こえた。白川がくすくす笑いながら、おむすびを受けとる。どうやら、殺る気が削がれたらしい。
「あんた、誰だか知らんが面白い奴だなあ……ありがとさん。おい、そこのデカい人。とりあえず休戦といこうや。腹が減ったら、いくさは出来ねえし」
そう言って、白川はおむすびを食べ始める。だが、安藤は唖然としたままであった。
「お前、岡本か!?」
岡本清……これまた百年以上前、画壇に彗星のごとく現れた天才芸術家である。字が読めず簡単な算数すら出来なかったが、一度見たものを完璧に記憶し、寸分違わず絵に描いてしまえる驚異の才能の持ち主だ。
初めは絵描きとして活動していたのだが、その才能に目を付けた公安にスカウトされる。だが、自由のない生活にノイローゼになり、自殺したと伝えられている。
まさか、こんな場所で会おうとは。
「ぼ、僕は、お、岡本なんだな。おにぎりと、絵を描くことが、す、好きなんだな」
そう言うと、岡本はスケッチブックと鉛筆を取り出す。
次の瞬間、その表情が変わった――
岡本は、凄まじいスピードで絵を描き始める。目を白黒させている二人の前で、鉛筆一本で絵を描いているのだ。
やがて、岡本は絵を描き終えた。先ほど、安藤と白川とが臨戦態勢で向き合っていた情景……それを、あたかも写真のように完璧に白い紙の上に再現してみせたのだ。
「お前、天才かよ」
呟く白川。伝説の脱獄犯ですら感動させてしまうほど、岡本の絵は見事なものであった。
書いているうちに、ドリフ○ーズみたいな話になってしまいました。これはさすがに怒られるので、お蔵入りにしました。




