僕は狂っている
僕は狂っていた。
部屋で膝を抱えたまま、隅の方でじっとしている。
もうじき、奴が来るだろう。あの、形容できない外見の生き物が。
「ケンジくん」
あいつは、僕の名を呼ぶ。だが僕は、それを無視した。あいつの姿を見たくないからだ。
だが、あいつはもう一度繰り返した。
「ケンジくん」
言葉の後、ずずず……という耳障りな音がした。僕は目をつむり、顔をそむける。
ずずず、という音と共に、奴はさらに近づいて来た。僕のすぐ近くにいるような、そんな気配を感じる。
僕は仕方なく、そいつの方を向いた。粘土をこね回したような平たい形状の体からは、触手のような物が数本生えている。さらに、その体には大きな目が二つ付いている。他に器官らしきものは無い。
こんな生き物が、現実に存在するはずが無いのだ。にもかかわらず、僕の目にははっきりと見えている。あの粘土のような不定形の物体が、うねうねと動いている。
存在するはずのないものが見える……つまり、僕は狂っているのだ。
狂っているからこそ、人を殺しても罪には問われない。
・・・
僕は外を歩いていた。
時刻は、まだ昼の十二時前だった気がする。
歩いている僕の脇を、小学生くらい女の子が、はしゃぎながら走り抜けて行った。
その女の子が、何者なのかは僕には分からない。ただ一つ確かなのは、僕の後ろからは奇妙な生き物が付いて来ているのも見えることだ。
そいつは、ぐちゃぐちゃに叩き潰した粘土のような形状だった。だが、人間のそれのような形をした目が二つ付いていた。水色の体で、ずずず……と音をたてながら僕の後を付いて来る。
あんな形の生物が、存在するはずがないが……仮に現実に存在していたとしよう。では、今の女の子はなぜ驚かない? あの娘も、僕の後ろから走って来たのだ。ならば、奴に気づかないはずがない。
待てよ。
仮に、あの娘も幻だとしたら?
ずずず……という音とともに、奴が近づいて来る。「ケンジくん」
奴の声だ。見た目はおぞましい怪物なのだが、発するのは女のような澄んだ美声である。
「ケンジくん、待って」
ずずず……という音、さらに声を発しながら、奴は近づいて来る。
だが、僕は無視して歩き続けた。こんなものは、現実には存在しない。
存在しないはずだ。
存在しては、いけない。
ふと、僕は立ち止まる。奇妙なものが視界に入ったからだ。
車道を横切り、一人の老人が横断歩道を歩いている。歩行者用の信号は点滅し、そろそろ赤に変わろうとしていた。
にもかかわらず、老人はゆっくりと歩いていた。数台の車が止まっている前を、何事も無かったかのように悠然と歩いている。
僕は、じっと成り行きを見守る。あの老人は、一体どうなるのだろうか。ひょっとしたら、車に轢き殺されてしまうのだろうか。
「あのお爺さん、どうなるのかしらね」
また、あいつの声が聞こえてきた。僕は、それを無視する。
「ねえ、無視しないでよ。聞こえてるんでしょ」
奴は、なおも話しかけてくる。いつの間にか、僕のすぐ後ろにまで来ていた。ずずず……という移動音は収まり、代わりにウネウネという奇怪な音が聞こえてくる。
僕はスマホを取り出し、顔に当てる。そのまま話し始めた。
「うるさい。消えろ」
「そんなこと言わないでよ。ねえ、あたしとケンジくんの仲じゃない」
ふざけた奴だ。出来ることなら、今すぐ殺してやりたい……そんなことを考えていた時、歩行者用の信号は赤になった。
一瞬の間を置き、車側の信号が青になる。だが、車は走り出さない。なぜなら、老人がまだ歩いているからだ。
ということは、あの老人は僕の脳が作り出した幻影ではないらしい。
「あの爺さん、現実だったんだね」
またしても、聞こえてきた声。
「うるさい、化け物」
「化け物なんて言わないでよ。あたしには、ナナコって名前があるんだから」
声の後、ずずず……という音がした。
「ナナコ? 化け物のくせに、人間みたいな名前してんじゃねえ」
吐き捨てるように言って、僕は再び歩き出した。
猟奇的な犯罪者が捕まると、こんな言葉が出てくることがある。
責任能力の有無と、心神喪失。
責任能力とは、物事の善悪がきちんと判断でき、それに従って行動を制御する能力を指す。
心神喪失とは、精神障害の影響で、善悪の判断や行動の制御などといった能力を欠く状態のことである。これは、責任能力がないと見なされるらしい。
ついでに心神耗弱とは、両能力が著しく減退した場合を指し、責任能力が減少している場合をいう。
僕は確実に狂っている。だが、善悪の判断はついているつもりだ。盗みは良くないし、殺人も良くない。なぜなら、警察に捕まって刑務所に入ることになるからだ。
だが、ここで疑問が生じる。
警察に捕まるのが嫌だから、人を殺さない……それは、果たして善悪の判断が出来ているのだろうか。
世の中に住むほとんどの人間が、罪を犯さない理由は明白である。警察に捕まりたくないから……ひいては、罰を受けたくないからだ。
罪を犯せば、罰を受ける。これが世の中の仕組みだ。しかし、罰が無かったとしたらどうなる?
罰が無ければ、僕は平気で人を殺すだろう。
そう、罰さえ無ければ……僕はあいつを殺す。
家に帰ると、母が複雑な表情で僕を見た。
「ケ、ケンジ、おかえりなさい」
母は、ひきつった笑みを浮かべている。僕はそれを無視し、自分の部屋に入って行った。
僕は部屋の中に入り、扉を閉めた。これでようやく、外界を遮断できる。
安心した僕は、ベッドに寝転がる。その途端、またしても声が聞こえた。
「ケンジくん」
言うまでもなく、あいつだ。僕は、声のした方をちらりと見つめる。
ずずず……という音と共に、奴は近づいて来た。
「ケンジくん、あたしはここにいるよ」
お前なんか、いない。
僕は奴を無視し、目をつむった。声だけなら、まだいい。奴のあの醜さだけは我慢できない。あんな醜いものが、どうやって僕の脳内で形成されたのかは分からない。
そう、奴は僕のイカレた脳が作り出した幻である。となると、その基になる何かが、僕の記憶の中にあるはずだ。
だが、それは何なのだろうか。
僕は目をつむり、必死で考えた。本、マンガ、ゲーム、ドラマ、アニメ、映画……だが、奴に該当するものを見た覚えはない。
もし奴が見えることが知られたら、僕は病院に入れられてしまう。それは死ぬのと同じくらい嫌なことだろう。
昔、聞いたことがある。本当に狂った人間は、自分が狂っているという自覚が無い……と。それが正しいのだとすれば、僕は正常だということになる。しかし、僕は確実に正常ではないのだ。
では、僕は何なのだ?
「ケンジくん」
奴は、しつこく僕を呼び続けている。存在しないはずの者に、名前を呼ばれる苦痛……これは、どう表現すればいいのだろうか。
存在しないはずの者、いや物が見える。さらに、そいつの発する声が聞こえる。これは、どうすれば止まるのだろう。
死ねば、助かるのに。
何かのマンガで見たセリフだ。
僕も死ねば、助かるのだろうか。少なくとも、こんな気持ちの悪いものとは接触せずに済む。
「ケンジくん」
また聞こえてきた。いったい何なのだろう……。
「うるさい! 黙れ!」
耐え切れなくなった僕は、奴を怒鳴りつけた。声を発することで、少し気が楽になる。
と同時に、僕は冷静になった。もし、今の声を母に聞かれたらどうなる?
落ち着け。
そう、僕は正常な人間を演じなくてはならない。病院に行くのは嫌だ。絶対に嫌だ。
「君は、何がしたいの?」
奴は、なおも聞いてくる。僕は無視し、テレビを点けた。とにかく、奴の声を聞きたくない。
(この男は、電波に指示されたと供述しております……)
テレビから、そんな声が聞こえてきた。画面には、ランニングシャツと白いブリーフ姿の腹の出た中年男が、警官たちに連行されている映像が流れている。いったい、何事が起きたのだろうか。
「ふふふ、何あの格好」
奴の声が聞こえた。だが僕はそれを無視し、テレビの音量を大きくする。
(本当に恐ろしい事件ですね。被害者の無念を考えると、やりきれません)
アナウンサーの声が聞こえてくる。僕は苛ついた。被害者が無念であることなど、お前に言われなくても分かっているのだ。
僕が知りたいのは、そんなことではない。あの間抜けなブリーフ親父が、何をやらかしたのか知りたいのに。
(なんだか、背筋が寒くなりますね。道ですれ違っただけで、いきなり刺し殺されるなんて……)
今度は、アシスタントの若い女が言った。僕はさらに不快になる。お前の背筋など知ったことではない。問題なのは、この奇怪な格好の男が何をしたのか……詳しい情報が知りたいのだ。
「まあまあ、そんなに苛々しないでよ」
奴が横から、茶化すように声をかけてきた。僕は思わず怒鳴りつけそうになり、必死で自分を押さえる。
ニュースによれば、犯人の名は又吉修。自宅から突然、包丁を握りしめて飛び出し「お前か! お前の仕業なのか!」と叫びながら、通りかかった家族連れに襲いかかって行ったのだ。
結果、一家四人が死亡。止めに入った数人の警官にも重傷を負わせたという。
逮捕された後、又吉は「電波が走る! 走ってくる!」などと叫び続けており、精神鑑定を受けているとのことだ。
普通の人は、この事件を聞いてどう思うのだろうか。ヘラヘラ笑いながら、また頭のおかしい奴が出たな……くらいの感想で終わりだろう。
一週間前の僕なら、同じことを考えていただろう。だが、今は違う。
僕には、又吉とかいう奴の気持ちが分かる。今のところ、僕は「電波」を受信したことはない。
だが、僕には奴が見えている。奴の声も聞こえる。存在するはずの無い生き物が……。
又吉にも、同じような何かが見えていたのだとしたら?
「どうしたの?」
そう、奴にもこんな声が聞こえていたのだとしたら……。
「ねえ、聞いてるの?」
……。
「あらあら、無視する気? ねえ、大好きなあの人に彼氏がいるからって、あたしに当たらないでよ」
うるさい。
「ふふふ、やっと答えてくれたのね」
黙れ。
「だけど、諦めなさい。あの人と君とは、どう頑張っても結ばれないわ。だって、あの人は――」
その時、僕の中で何かが弾けた。
机の引き出しに入っていた、折り畳み式ナイフを取り出す。
そのナイフを、奴めがけ振り下ろした――
グサリ、という感触……ナイフは驚くほど簡単に、奴に突き刺さる。一瞬遅れて、生温かい液体が流れ出た。不気味な、緑色の液体が。
「痛いじゃない……もっと優しくしてよ」
奴の言葉を無視し、僕はなおも刺し続けた。しかし、その手応えは想像とは違っていた。まるで、ゼリーをフォークで突いているかのような感触だ。
だが、そんなことはどうでもいい。僕は、ひたすらナイフを振り下ろしていく。緑色の体液が、床と僕の体を染めていく。これは奴の血なのだろうか。
気がつくと、奴はピクピク痙攣していた。僕はその場に座り込み、奴が死にゆく様をじっと見つめる。部屋の中は、緑色の体液があちこちに飛び散り、見るも無残な状態だ。
そして、奴の動きは止まっている。死んだのだろうか?
僕は、奴を蹴飛ばしてみた。だが、ピクリとも動かない。どうやら死んだらしい。
ホッとした僕は、ベッドに倒れこむ。ようやく、奴がいなくなった。
疲れた……僕は暴力的なまでの眠気を感じ、目をつむった。そのまま、暗闇に引き込まれるように眠りこむ。
僕は、沈んでいく――
気がつくと、深い森の中に立っていた。どこだろうか。
目の前に、巨大な怪物が現れた。途方もなく巨大だ。僕の目には、大木のような足しか見えていない。一応、形は人間のそれに似ている。
怪物は手を伸ばし、僕の体を掴む。
そのまま、僕は持ち上げられた――
目の前には、怪物の顔がある。言うまでもなく、巨大な顔だ。黄色がかった肌の色をしており、頭には大きな一本角が生えている。さらに目は一つしかない。顔の上半分を占める巨大な単眼……。
どこかで見たような気がする。あれは映画だろうか。それとも、ゲームだろうか。
そんなことを考えていられたのは、ほんの一瞬の間だった。
なぜなら、僕は怪物の口の中に放り込まれたから。僕の体は噛み砕かれ、咀嚼され消えていった――
・・・
僕は目を開けた。
天井が見える。白い天井には、点々と染みが付いている。いったい何の染みだろうか。
「ケンジくん」
ずずず……という音と共に、奴の声が聞こえた。僕は無視して、じっと天井を見つめる。
あれは染みだろうか。それとも虫だろうか。今、かすかに動いたような気がしたが。
「ケンジくん」
またしても、奴の声が聞こえた。だが、僕はその声を無視する。いつものことだ。いつもと全く同じ、病院での日常の一幕でしかない。
そう、僕は閉鎖病楝にいる。理由は、人を殺したから。
この話はここまでですが、いつか内容をリメイクして、別の連載の形で投稿するかもしれません。




