アンドウ先生
「うるさいんだよ、このブス!」
「あんたの方がうるさいんだよ、このチビ!」
校庭から、二人の罵声が聞こえてきた。私は、ちらりと外の様子を見る。
一年生のキョウジが、二年生のレイラと喧嘩をしている。とは言っても、いつもの口喧嘩だから心配はないとは思うが。あの二人は、しょっちゅう喧嘩をするのだ。もう少し、仲良くできないのだろうか。
もっとも、この学校には生徒が二人しかいない。恐らく、お互いのことは気になっているのだろう。だが、子供ゆえに上手くコミュニケーションが取れず……そのため、喧嘩になってしまうのではないだろうか。
喧嘩するほど仲がいい、という言葉を、昔に教わった気がする。二人も、そうであることを願おう……そんなことを思いながら、私は窓を開けた。
「そろそろ教室に戻りなさい。授業が始まりますよ」
私が二人の授業を受け持つようになったのは、つい先日のことだった。
私の持つ知識を、子供に教える……初めのうちは、ごく簡単なことだと思っていた。
ところが、これが意外に難しい。自分にとって当たり前のことが、子供たちにとっては当たり前ではないのだ。
これは私にとって、全く未知の分野である。私は半ば手探り状態で、二人に様々なことを教えていった。算数や理科といった教科はもちろんのこと、体育や図工や家庭科なども教えていった。
幸いなことに、キョウジもレイラも素直で飲み込みの早い生徒であった。教えたことを、何の障害もなくすらすらと覚えていく。時にはつまづくこともあるが、すぐに乗り越えて先に進むことが出来た。
小学校の一年生であるはずのキョウジと、二年生のレイラ。だが二人は、同じ内容の授業を受けている。本来は、二人とも違う内容の授業を受けなくてはならないのかもしれない。しかし、私は二人を同級生として扱っている。生徒が二人しかいないのに、違うことを学ばせても仕方ない。
「ねえ、アンドウ先生」
休み時間、不意にキョウジが話しかけてきた。私は顔を上げる。
「どうかしましたか?」
「あ、あのさ……どうしたら、レイラより大きくなれるの?」
心なしか、キョウジの頬は赤くなっている気がする。なぜ、そんなことを聞くのだろうか?
「なぜ、そんなことを聞くのですか?」
質問に質問で返す……これは会話のやり方としては、いい方法とは言えない。だが、私は反射的に聞いてしまった。
すると、キョウジの顔がさらに赤くなる。同時に、彼が狼狽えているのが分かった。
「だ、だってさ! あ、あいつ、俺のことチビって言うんだよ!」
キョウジはつっかえながらも、私に訴えてくる。私はふと、レイラの座っていた席を見てみた。彼女は今、トイレに行っている。
わざわざレイラのいなくなった時間を見計らい、私に質問してくるのか……キョウジの意図が、今ひとつ見えて来ない。
まあ、いい。今は彼の質問に答える方が先である。キョウジは男性なのだから、成長すれば女性であるレイラよりは大きくなる可能性は高い。
だが、それはあくまで可能性である。身長において、確実にレイラを追い越すという保証はないのだ。幼い子供に、保証のないことを断言してもいいのだろうか?
教師とは、本当に難しいものだ。そんなことを思いつつ、無難な答えを口にしてみた。
「背が高かろうと低かろうと、君は君です。君の価値や能力には、何ら影響しません」
私の答えに、キョウジは首を捻った。釈然としない様子だ。私の答えに満足していないらしい。
ここはやはり、彼の期待に添えるような答えを用意するべきだったのか。
私は、嘘にならない程度の希望的観測を答えてみることにした。
「キョウジくん、君は男性です。男性の成長期は、一般的に十三歳くらいから十八歳くらいと言われています。つまり、君の成長期はまだ訪れていません」
「セイチョウキ?」
またしても、キョウジは首を捻る。どうやら、もっと分かりやすく言わなくてはならないようだ。
「成長期とは、要するに背が伸びる時期のことです。成長期が来れば、男性は身長が二十センチから三十センチ伸びると言われています。その時期が来れば、身長でレイラさんを追い越すことも可能と思われます」
「ほ、本当に!?」
キョウジは、期待を込めた表情で聞いてきた。本当だ、という答えを期待しているのは間違いない。
ここで、断言は出来ませんが……などと言ってしまっては駄目だ。そろそろレイラも帰って来るし、休み時間も終わる。この話は、ここまでとしよう。
「ええ、本当ですよ」
「やったあ!」
キョウジは嬉しそうに、ぴょんぴょん飛び跳ねた。しかし、私には全く理解不能な話である。仮に身長がレイラより高くなったからと言って、何が得するのだろうか。
などと考えていると、レイラが帰って来た。嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねているキョウジを見て、怪訝な表情で首を傾げる。
「あんた何やってんの?」
「べ、別に何でもいいだろ!」
言い返すキョウジ。すると、レイラはくすりと笑った。
「まあ、あんたはガキだからね。どうせ虫を捕まえたとか、そんなことなんでしょ」
「違うよ!」
真っ赤な顔で、キョウジは否定した。それにしても、レイラという子は何かにつけキョウジを子供扱いする。年齢は、ほんの一年しか違わないというのに。これまた、私には理解不能な話だ。
もっとも、いま優先すべきことは他にある。このままだと、また言い合いになってしまう。
「さあ、休み時間は終わりです。授業が始まりますから、二人とも席に着いてください」
やがて授業が終わった。私は二人を連れ、教室を出た。既に陽は沈んでおり、もうじき夜になる。
「先生、今日のご飯は何なの?」
キョウジが聞いてきた。
「さあ、何にしましょうかね」
「俺、肉が食べたい!」
「肉ですか……それは難しいですね。その前に、ニンジンを食べられるようになりましょうね」
「ええっ! やだよ!」
明らかに不満そうな声である。もっとも、今は肉よりも野菜の方が手に入りやすいのだが。
「とにかく、今はまずニンジンを食べられるようになりましょう。いっぱい食べれば、背も大きくなりますよ」
「ニンジンが食べられないなんて、本当にガキだね」
レイラが口を挟んできた。とたんに、キョウジの顔が真っ赤になる。
「う、うるせーよブス!」
「ふん、ニンジン食べられないくせに」
その日の夜、私は奇妙な気配を感じた。
キョウジとレイラは、私のすぐそばのベッドで熟睡している。彼らを起こさないよう、そっと起き上がった。
上に、何かが来ている。これは生物だ……それも、かなり巨大な。いったい、何が来ているのだろう。
私は、そっと寝室を出ていった。ボタンを押し、扉を閉める。これで、二人は安全だ。
足音を立てないよう静かに歩き、一階へと上がる。まだ、何かが蠢いている気配はしている。人間より、遥かに大きな生物だ。まさか、こんなものが校庭に侵入して来るとは……全く予想していなかった。
私は姿勢を低くして進んだ。校舎の中から、そっと校庭を見てみる。
灰色の巨大な毛の塊が、のそのそと歩いていた。四つ足で動いており、小山のような大きさである。私は自身の記憶を探り、見えている生物に当てはまるものを探した。
そこにいたのは灰色熊だった。身長は二メートルを遥かに超えており、体重も二百キロを超えているだろう。熊の中でも、かなり大型の部類であるのは間違いない。普通の人間なら、一撃で殺せる殺傷力の持ち主である。知識として知ってはいるが、本物を見るのは初めてだ。
熊は地面の匂いを嗅ぎながら、ゆっくりと近づいて来た。人間の匂いを嗅ぐのは初めてなのだ。警戒してはいるが、同時に好奇心を刺激されてもいるらしい。
この場合、私はどうすべきなのだろう。このまま何もせず、諦めて立ち去ってくれるならば、こちらも何もしない。だが、校舎の中まで入って来るようなら……その時は撃退する。
いや、待てよ。
あの熊は、ここに人間という未知の生物がいることを知ってしまった。とても小さく弱い人間という生物を。
となると、いつかキョウジとレイラに害をなす存在になるかもしれない。あの二人を獲物として認識してしまったら……餌がなくなった時、またここに来る可能性がある。
ならば、今のうちに殺しておいた方がよいのではないだろうか。森の中に逃げられたら厄介だ。
幸か不幸か、熊には出て行く気配がない。なおも周辺の匂いを嗅ぎながら、校舎の周辺をうろうろしている。二人の子供の匂いを、獲物として認識してしまったのだろう。
ならば、もはや選択の余地はない。今のうちに殺さなくては、次にキョウジとレイラが狙われるのだ。私はすぐさま立ち上がり、ドアを開けて出て行った。
熊は私を見るや、唸り声を上げ前足を振って威嚇する。明らかに警戒している雰囲気だ。
だが、私はそのまま進んで行った。
すると熊は、吠えると同時に後ろ足で立ち上がる。熊から見れば、私など一撃で殺せるひ弱な存在なのであろう。
だが、熊は分かっていなかった。私と熊とでは、戦闘力に差がありすぎた。初めから、勝負にすらならないのだ。
立ち上がった熊に向かい、私は一瞬で接近した。と同時に、熊の胸に手のひらを押し当てる。熊は、その強靭な前足を振り上げた。一撃で、私の首をへし折るつもりなのだろう。
だが、前足を振り下ろすことは出来なかった。直後、私は手のひらから電流を放出する――
数百万ボルトの電流を浴び、熊は一瞬で絶命した。電気ショックにより、心臓が停止したのだ。
私は熊の死骸を担ぎ上げ、校舎の外にある倉庫の中へと運び入れる。
そこで、熊の巨大な体を解体した。毛皮を剥ぎ、肉を切り取った。骨は粉々に砕き、土の中に埋める。
これで明日は、キョウジに肉を食べさせることが出来る。もっとも、味の方は保証できない。牛肉や鳥肉の調理方法は知っているが、熊肉の調理方法は教わっていない。熊の肉とは、美味しいのだろうか。
私に味見が出来ればよいのだが、それは無理なのである。何せ、私には味覚がないのだから。
・・・
その時、何が起きていたのか……正確なことは分からない。
私に分かっているのは、かつて人間という種が絶滅の危機に瀕していたことである。どうやら治療不可能な疫病のようなものが、地球で瞬く間に広がっていったらしい。やがて地球の総人口は、たったの数十万人へと激減した。生き残った人々は話し合い、一つの決断を下す。
まずは、広大な地下シェルターに百人の子供たちを避難させた。古い小学校の地下に、あらかじめ建設されていたのである。
その地下シェルターは、ブレインと名付けられたスーパーコンピューターによって管理されていた。さらに、コールドスリープのためのカプセルも設置されていたのである。
コールドスリープカプセル……すなわち冬眠のためのカプセルだ。ブレインによって完璧に調整されており、生命維持装置も完備されている。
選ばれた百人の子供たちと十人の大人たちは、カプセルに入り眠りについた。
ブレインはシェルターの安全を守ると同時に地上を監視し、人間の住める環境になった時に冬眠状態の人間を起こす……そうプログラムされた。
残りの者たちは、地上で治療方法の研究を続けることとなった。
その後、冬眠状態の少年少女が目覚めるまでには……約千年ほどの時間を要した。
その間に、地上にいた人間は全て死に絶えたらしい。新種の疫病を治すことが出来ず、人類は滅亡した……と、ブレインは判断している。
必然的に、人間の生み出した文明は崩壊した。
ブレインの推理によれば、この現象は地球の免疫機能による、一種の治療であるらしい。当時、科学の進歩は手の付けられない状態になっていた。自然破壊を危惧するよりも、むしろ宇宙開発の方向へと人類は進んでいたのだ。仮に地球が滅んでも、他の惑星に移住すればよい。首脳陣は皆、そう考えていたらしい。
だが、彼らは分かっていなかった。地球は生きているということを。
やがて地球は、人類を敵とみなしたのである。自然を破壊し、多くの種を絶滅させてきた人間。このままでは、地球もまた滅ぼされてしまう……。
人体に病原菌が侵入すれば、その病原菌を殺すための抗体が出来る。地球にとって、人類は病原菌であった。その病原菌を死滅させるため、強力な抗体を生み出す。
それは、人間だけを死滅させるウイルスだった。
結果、人間は絶滅した。地球は元の美しい姿を取り戻したのである。
やがて月日が流れ、ウイルスは完全に消滅した。ブレインは人間が出ても安全な環境になったと判断し、コールドスリープカプセルの冬眠状態を解除したのである。
だが、千年という歳月はあまりにも長かった。その間、ある者は装置の故障により死亡した。
また、ある者は冬眠状態から目覚めることが出来なかった。
さらに、目覚めた直後に死亡した者もいる。
結局、ほとんどの人間が眠りから覚めることが出来なかった。まともに目覚めたのは、幼いキョウジとレイラの二人だけだったのである。
言うまでもないことだが……二人の幼子が大人の保護もなしに、この大自然の中を生き延びることなど不可能であろう。
だが、ブレインに抜かりはない。人工的に野菜を栽培できるシステムは、シェルターに完備されている。さらに、こうした事態もあらかじめ予測されていた。万が一の時のため、高性能の人型アンドロイドを用意していたのである。
そのアンドロイドこそ、私なのだ。
私がブレインより命令を受けたのは、一月ほど前である。キョウジとレイラが目覚めると同時に、私も起動した。以来、二人の教師そして親代わりとなっている。
・・・
私は、足音を忍ばせて寝室へと戻る。体に付着した血や肉片などは、綺麗に洗い流した。匂いも消してあるし、倉庫の周辺もきちんと掃除した。校庭で何が起きたか、二人は気づかないだろう。今はまだ、知る必要もない。
ただし、これからは二人の行動に、より一層の注意を払う必要が出てきた。何せ、校庭に巨大な熊が出たのだ。他の猛獣が現れても、おかしくはないだろう。
今後は授業の中で、動物の危険性についてもっと詳しく教える必要があるな……そんなことを考えながら、私は二人の寝顔を見つめた。
キョウジは両手を広げ、万歳のような体勢で眠っている。一方、レイラは横向きの体勢だ。
彼らは、この世界で生き残った人間である。私の使命は二人を教育して身の安全を守り、自立した大人へと成長させることだ。
いずれ彼らは、この世界のアダムとイブにならなくてはならないのだから。
しかし、今はまだ己の使命を知らない。また、私がアンドロイドであることも知らない。
もっとも、今はそれでいい。己の使命にプレッシャーを感じることなく、普通の子供として伸び伸びと育って欲しい。
ブレインの機能は、あと数年で停止するとのことだ……「本人」が、そう弾き出している。自己修復機能も、近頃では上手く働かなくなってきている。千年もの間、故障もせずに動いてきたスーパーコンピューターといえど、そろそろ限界らしい。
それに伴い、私の機能もいつかは停止する。ブレインの予測では、私の寿命は、あと二十年ほどらしい。もしかしたら、その前に停止する可能性もあるが。
それまでに、キョウジとレイラが自立して生きていくのに必要な知識を授けられるだろうか。
「この……チビ……」
不意に声が聞こえた。レイラのものである。私は、ちらりと彼女を見た。だが、目を覚ましてはいなかった。どうやら寝言らしい。夢の世界でも、キョウジと喧嘩をしているのだろうか。
その時、なぜか私の顔に笑みが浮かんでいた。
どうしたのだろうか?
私が笑顔を見せるのは、子供たちの前だけである。二人とのコミュニケーションの手段の一つとして、笑顔を用いることはある。笑顔を見せることにより、子供たちは時に喜び、時には安心したりもする。私にとって、笑顔とは彼らとの関係を円滑なものにする手段でしかない……はずだった。
しかし今、二人の寝顔を見ているうちに、自然と笑顔になっていた。これは、どういうことなのだろうか。
あるいは、これが愛情というものなのだろうか……。




