最悪の日
俺にとって、今日は特別な日だ。
ようやく、このクソゲーのような人生を終えられる。間違いなく、人生最高の日になるだろう。
内田健二は窓を開けた。空を見上げ、これまでの人生を振り返る。
澄みきった青空は、とても美しい。健二の闇に覆われた心ですら、ほんの少しだけ明るくなったような気がした。
それにしても、つい昨日までは雨が降り続いていたというのに、死ぬと決めた日が晴れているとは……本当に笑える話だ。
健二は、自身の皮肉な運命を痛感せざるを得なかった。もっとも運命など、今さらどうでもいい話ではあったが。
・・・
健二には、兄がいた。
何もかもが、健二とは正反対だった兄の一翔。顔が良くてワイルドな雰囲気を持ち、明るい性格で友だちも多い。マンガに登場するイケメンの不良っぽいキャラが、現実にいたらこうなるだろう……というタイプの男である。
しかも、一翔はただの不良キャラではない。ボクシングの世界チャンピオンであった――
幼い頃から、運動神経が良く喧嘩も強かった一翔。健二は、兄が喧嘩で負けた場面は一度しか見たことがない。
そんな一翔は、中学に入ると同時にボクシングを始めた。すると、あっという間に頭角を現し……高校では、インターハイで優勝するほどにまでなったのだ。
その後、プロボクサーになってからは連戦連勝であった。そんな兄に、マスコミも注目するようになる。ボクシング界に彗星のごとく現れた、イケメン天才ボクサー……一翔は、たちまち有名人になった。テレビや雑誌の取材が訪れ、兄の周囲は一気に華やかなものとなる。
だが、一翔は浮かれることがなかった。ストイックな姿勢を変えることなくトレーニングに励む。試合が近づけば友人たちの誘いをシャットアウトし、酒タバコは一切口にしない。厳しく節制しネオン街には近寄らず、脇目も振らず目標に向け邁進していた。
そして二十歳の時、一翔はやってのけた。
「内田一翔、やりました! 世界のベルトを獲りました!」
健二は今も、アナウンサーの絶叫している姿を忘れていない。さらに、歓喜の叫び声を上げる両親の姿も。
しかし、健二は素直に喜ぶことが出来なかった。二十歳にして、ボクシング世界チャンピオンになった兄。一方、特筆すべき能力など皆無の冴えない弟。
兄の存在感はあまりにも大きく、健二は惨めな思いを感じていた。学校ではじじろ見られ、知りもしない人間から話しかけられる。しまいには、興味もないのにボクシングの真似までさせられたりした。
やがて健二は高校を辞め、部屋に引きこもるようになる。偉大なる兄を持つ駄目な弟……そんな目で見られる日々は、たまらない苦痛であった。
兄が死んだのは、一年前のことだ。
ある日、一翔は健二に言った……たまには、ドライブに行こうと。引きこもりのニートだった健二は、ドライブになど行きたくなかった。兄の周囲には、常に誰かがいる。華やかで騒がしく、健二の世界とは真逆であった。
そのため健二は、一翔とは関わりたくなかった。兄の周囲にいる人間は、自分とはまるで違う。
だが、一翔は引かなかった。
「どうせ暇なんだろ? だったら来いよ。俺も今、暇なんだよ。なあ、来たら小遣いやるからさ」
一翔のその言葉に、健二は疑問を感じた。兄には、暇潰しの相手はいくらでもいるはずだ。なのに、なぜ自分を誘う?
釈然としないものを感じながらも、健二は兄の誘いに応じた。もちろん、金目当てである。一翔の運転する車に乗り、ドライブに出かけた。
だが健二は、この選択を後悔することになる。
兄弟の乗る車に、信号を無視した暴走車が突っ込んで来たのは、ドライブが始まってしばらくした時のことだ。
暴走車は運転席に猛スピードで突っ込み、一翔の体を押し潰す。助手席の健二も重傷を負ったが、命に別状はない。
だが、一翔は即死であった――
後から分かったことだが、暴走車のドライバーは酒気帯び運転の常習犯であった。その日も酒を飲んだあと車に乗り込み、信号を無視して交差点を走る……結果、一翔たちの車に猛スピードで衝突したのである。
一翔は悲劇的な最期を迎えたヒーローとして、あちこちのワイドショーが特集を組んだ。さらには、追悼番組も放送された。
兄の死を嘆き悲しむ者たち。その存在は、健二に一つの言葉を投げかける。
代わりに、お前が死ねば良かったのに。
ボクシング世界チャンピオンであった兄が死に、冴えない引きこもりの自分が生き延びてしまった。その事実が、健二の心を責め苛む。
なぜ、世界チャンピオンの兄が死に、ニートの弟が生き残ってしまったのか。
一翔の追悼番組が放送される度に、健二は自身が責められているような気がした。
お前が死ねば良かったのに、という声すら聞こえてくるようになっていた。
やがて健二は、つくづく嫌になってきた。なぜ、自分は生きているのだろうか。こんな状態で生きているのは苦痛でしかない。
だから、健二は死ぬことにした。
そして今日、実行に移した。
健二は死んだ、はずだったが――
・・・
気がつくと、健二は奇妙な場所にいた。
「なんだよ、ここは……」
健二は呟いた。あたり一面は白く塗りつぶされており、奥行きというものが感じられない。不思議な空間であった。
ここは、地獄なのか?
そんなことを考えながら、健二は立ち上がった。あたりを見ながら、恐る恐る歩いてみる。
一応、地面は硬い。靴を通して感触が伝わってくる。だが、どこまで行っても同じ風景だ。死後の世界というのは、なんと不快な場所なのだろうか。これでは、皆が死ぬのを嫌がるのも当然だ。
そんなことを考えてつつ、歩いていた健二。だが次の瞬間、心臓が破裂しそうになった――
「よう、久しぶりだな」
聞き覚えのある声、精悍な顔つき、筋肉質の体。
死んだはずの一翔が、目の前に立っていた。
「あ、兄貴、なのか?」
呟く健二。彼は改めて、ここが死後の世界である事実を知らされた。死んだはずの人間と再会できるとは……。
健二の中に、様々な思いが込み上げてくる。それは懐かしさであり、憎しみであり、感激であり、怒りでもあり……複雑すぎて自分でも処理しきれない感情の波に襲われ、健二は言葉が出てこなかった。
「何やってんだよ、バーカ。こんな所に来ちゃダメじゃねえか」
そう言うと、一翔はニヤリと笑った。シャープな顔立ちで目付きは鋭い。一見すると、威圧的な雰囲気を漂わせているが……笑うと、親しみやすさを感じさせる。
ふと健二は、兄が何かの雑誌に、笑顔がとってもキュートだ……などと書き立てられていたのを思い出した。
「今なら間に合う。さっさと帰れ。出口はあそこだ」
そう言うと、一翔は健二の後方を指差す。
健二が振り返ると、そこには扉が出現していた。健二の数メートル後ろに、巨大な扉があるのだ。
先ほど通った時には、無かったはずなのに。
「な、何で……」
「いいから、さっさと行け。二度と戻ってくるんじゃねえぞ」
あくまで爽やかな表情の兄を見ているうちに、健二の胸に押さえていたものが騒ぎ出した。
「……ざけんじゃねえよ」
「えっ?」
戸惑う一翔を、健二は睨み付ける。
「あんたの……あんたのせいでな、俺の人生は滅茶苦茶なんだよ。死んでからも、俺を苦しめるのか?」
「はあ? お前、何を言っているんだ?」
訝しげな表情の一翔。健二は顔を歪める。予想通りだ。この男は自覚なしに周囲の人間を傷つけていく。
溢れんばかりの才能があり、実績もあり、さらに明るい性格の持ち主。そんな者がいれば、そばにいる人間は惨めになる。
健二のような者は、特に――
「あんたは気づいてないのかよ? あんたのせいで、俺がどれだけ迷惑していたか……親父もお袋も親戚も、みんなあんたに注目してた! その陰で俺がどんだけ惨めな思いをしてたか、あんた分かってんのかよ! あんたは天才で、俺は無能なただの人……そんな風に思われてたんだぞ!」
生まれて初めて、健二は兄に思いのたけをぶつけた。今までずっと、胸の裡で燻っていた思いを……。
だが、一翔は表情一つ変えなかった。そんな兄を、健二はさらに罵る。
「あんたが兄貴だっていうだけで、俺はいろんな奴からじろじろ見られた! 知らない奴が、あんたのことを聞いてきた! それだけじゃねえぞ! お前も強いのか、なんて言って殴られたりもしたんだ!」
喚きちらす健二……やがて疲れ果て、その場に座り込んだ。すると、一翔はようやく口を開く。
「すまなかったな」
その表情には、優しさと哀れみがあった。大人が、不幸な目に遭った子供の、やり場のない怒りを受け止めてあげているような。
健二は、またしても兄と自分との差を突きつけられたような気がした。唇をわなわなと震わせ、一翔を見上げる。
「いいか、俺はあんたの試合を観に行ってた。でもな、あんたを応援してたわけじゃない。あんたの対戦相手を応援してたんだよ。兄貴をぶっ倒せ、ってな」
「えっ?」
一翔の表情に陰りが生じた。ようやく兄にダメージを与えられたらしい。
兄の表情の変化を見た健二はニヤリと笑い、さらに激しく一翔をなじる。
「そうだよ! 俺はずっと、あんたが敗けるように祈ってた! あんたが敗けるところを、目の前で見たかったんだよ! なのに、俺の目の前で死にやがってよ! あんたが死んだせいで、俺がどんだけ迷惑したか分かってんのか!」
怒鳴りつける健二。すると、一翔が静かに口を開いた。
「そうか。お前は、本当に俺のことが嫌いだったんだな。だったら、なおのこと戻らなきゃ駄目だろ」
「んだと……」
思わず口ごもる健二。一翔は、口元に笑みを浮かべていたのだ。やはり、兄は何のダメージも受けていないらしい。
そんな健二に、一翔は真剣な表情を向ける。
「健二、俺はお前に言っていないことがある。生きているうちに言えなかったことさ。そいつを言うために、俺はここに来た」
そう言うと、一翔は健二をじっと見つめる。
少しの間を置き、口を開いた。
「ありがとう。お前のお陰で、俺は世界チャンピオンになれた」
「えっ……」
呆然となる健二。一翔の言ってることは意味不明だ。なぜ、礼を言われなければならないのか。お前のお陰でチャンピオンになれた、とは? どういう意味なのだろう。
全くもって理解不能だ。
そんな健二の表情を見て、一翔はクスリと笑った。
「覚えてないのか? 小学校の時、校庭で俺がボコられたのを」
「お、覚えてる」
健二は言葉につまりながらも、どうにか返事をした。確かに覚えている。小学生の時、一翔が校庭で喧嘩し負けた事実。一翔が六年生、健二が一年生の時の話である。だが兄は、その敗北を気にしているような素振りを見せなかった。健二もまた、そのことは気にも留めていなかった。
一翔がボクシングジムに入会したのは、それからしばらく経ってからのことである。今にして思えば、その敗北が兄を奮起させたのかもしれない。
だが、それと健二と、どんな関係があるのだろう。
「あの時俺は、世間の冷たさを知ったんだよ」
困惑している健二に、一翔はそう言った。昔を懐かしむような表情を浮かべつつ、秘めていた想いを語り始める。
「俺は小学生の時、ずっとガキ大将だった。六年生になったら、俺に勝てる奴は学校にはいないはずだったんだよ。ところがだ、一人の転校生が現れた。そいつは、みんなの前で俺をボコボコにしたんだよ」
確かに、そんなことはあった。校庭で、見知らぬ少年に叩きのめされていた一翔。あの時の兄は、確かに惨めであった。
だが、そんなつまらない記憶を今まで引きずっていたというのだろうか。その後の栄光に比べれば、道ばたの石ころにつまづいたようなものではないか。
そんなことを思いつつ、健二は黙って話を聞いていた。
「その後、俺のそばから皆いなくなった。今まで俺の顔色を窺い、ヘラヘラ笑いながら俺の周りにいた連中は、みんな離れて行ったんだよ」
淡々とした口調で一翔は語っている。だが、その目の奥には陰があった。とても暗い陰が……生前の一翔が、決して見せなかった表情である。
一翔にとって、死んでからも忘れられぬほどの黒い思い出だったのだ。
「まあ仕方ないよ。当時の俺は、本当にひどい奴だったしな。嫌われていたんだろうよ。でも、あれは本当に堪えたよ」
そう言うと、一翔は自嘲するように笑った。
健二はだんだん不快になってきた。そんな思い出話など聞きたくない。それと自分と、どんな関係があるというのだ――
「でもな健二、お前だけは違っていたんだよ」
「えっ?」
兄は、何を言っているのだろう……聞き返した健二に、一翔は爽やかな表情で答える。
「お前だけが、校庭で倒れてた俺に近づいて来た。大丈夫? って聞いてきたんだよ。覚えてねえのか?」
覚えていないはずがなかった。
一翔が校庭で喧嘩に負けた時、健二はまだ一年生だった。ボコボコにされ、鼻血を流しながら倒れていた兄。健二は心配になり、慌てて駆け寄って行った。
実のところ健二は、殴られていた一翔の姿をずっと見ていた。止めに行きたかったが、相手が怖くて何も出来なかったのだ。
喧嘩に負け、なおも殴られていた一翔を我が身可愛さに知らん顔をした……その行為に健二は負い目を感じ、だからこそ終わった後に近づいて行ったのだ。
止めに入れなかった自分への、せめてもの言い訳のために。
だが、一翔は違うものを感じていたのだ。
「あの時、誰も俺を助けようとしなかった。鼻血が出るわ、唇は腫れるわ、本当にひどい様だったよ。でも、だれも俺のそばに寄ろうとしなかった。友だち面してた奴らは、みんな離れて行ったんだよ。俺のそばに来てくれたのは、お前だけだった」
言った後、一翔は目線を逸らし上を見る。本来なら、空があるはずの場所。だが、ここには何もない。ただ、白い空間が広がっているだけだ。
「俺はな、あの時に誓ったんだよ。お前の尊敬に値する兄貴になろう、ってな。ただ一人、俺を見捨てなかったお前を守れる強い男になりたい。そして、お前が誇りに思ってくれるような、そんな人間になりたい。俺は心底から、そう思ったんだ」
そう言うと、一翔は再び健二を見つめる。
「いいか健二、お前のお陰で俺はチャンピオンになれた。キツい練習も苦しい減量も、お前のおかげで乗り越えられたんだ。くじけそうになった時、俺は思い出していたんだ……ボコボコにされ惨めな敗北を喫した、あの日のことを。そして、ただ一人手をさしのべてくれた、お前のことも」
「す、すげえ気持ち悪いんだけど……」
ようやく、健二の口から言葉が出た。ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、健二の胸のうちには熱いものがこみ上げてくる。彼は泣きそうになりながらも、必死で涙をこらえていた。
まさか、兄がそんな想いを秘めていたとは――
「健二……お前の存在が、一人の人間を世界チャンピオンに変えたんだ。お前は断じて無能じゃない。お前の人生も無意味なものなんかじゃない。もし、そんなことを言う奴がいたら、俺がぶっ飛ばしてやる」
そう言うと、一翔は扉を指差した。
「次はお前の番だ。お前が俺の分まで生きてくれ。そして……戦うんだ」
「戦うって、何とだよ?」
「お前の人生をだよ。もう一度、戦ってこい。負けることは恥ずかしいことじゃない。勝ちとか負けとか、そんなことはどうでもいいんだ。大切なのは、戦うことだ」
そう言うと、一翔は健二の肩を叩いた。
「次はお前の番だぜ。さあ、行って来い」
健二は扉を見つめた。木製の扉は閉ざされている。彼はドアノブを掴み、引いてみた。
扉は、実にあっさりと開いた。健二は前に進もうとする。
だが、足を止め振り返った。
「兄貴……俺はあんたが嫌いだったし、今も嫌いだ。あんたのせいで、俺はまた生き返らなきゃならなくなっちまった。本当に、あんたはムカつく男だよ」
そう言うと、健二は笑みを浮かべた。
「だから、俺は長生きしてやる。世間のみんながあんたを忘れても、俺だけは絶対に忘れない。この先、何十年経っても……ずっと、俺はあんたを覚えていてやるよ。最高に嫌な奴、としてな」
・・・
今日は最悪の日だ。
また、生き返らなけりゃならなくなっちまった。




