雪は全てを白く染めゆく
村山竜司は、雪が大嫌いだった。
雪は、彼に嫌なものを思い出させる……二度と思い出したくない、あの日のことを。
幼い頃、竜司の父と母は不仲であった。
いつからかは覚えていないが、つまらないことで夫婦は言い争うようになっていた。二人の間で罵声が飛び交い、やがて暴力へと発展していく。父が母を殴りつける姿を、小学生の竜司は怯えながら見ていた。
やがて、竜司は喧嘩が始まると部屋に閉じこもるようになる。テレビの音を最大で鳴らし、両親の喧嘩を視覚と聴覚から閉め出したのだ。
成長するにつれ、竜司は家に寄り付かなくなった。父と母の間には、一切の会話がなく重苦しい空気が漂っている。二人の間に漂う空気は、常にピリピリしていた。まるで、可燃性のガスが充満しているかのように。
やがて、充満しているガスが爆発する日が来てしまった。
それは、竜司が中学生になった時のことだった。
学校から帰って来ると、父と母が凄まじい喧嘩をしていたのだ。それはいつもより激しいもので、母は口が切れて血だらけになっていた。しかも父は、母に馬乗りになって殴り続けている……。
竜司は、このままでは母が殺されると感じた。咄嗟に止めに入ったが、思い切り突き飛ばされ意識を失ってしまう。
どのくらいの時間が経ったのだろう。
意識を取り戻した竜司……彼の視界に最初に入ってきたもの、それは床にしゃがみこんでいる母の姿だった。両手を真っ赤に染め、呆然とした表情でこちらを見ている。
竜司は、頭をふらつかせながらも部屋を見回した。その時、彼の目はあるものを捉える。
父が向こう側の壁に寄りかかり、妙な表情で座り込んでいた。
腹から下を、真っ赤に染めた姿で。
「なんだあれ……」
竜司は呟いた。だが次の瞬間、床が真っ赤に染まっていることに気づく。
床を染めているもの、それは……父の体から流れ出た血液だった。さらに、父のすぐそばには包丁が転がっている。
刃が真っ赤に染まった包丁が――
「う、うわあぁぁ!」
叫ぶ竜司。すると、母がビクリと反応する。
「りゅ、竜司……」
母の声は虚ろだった。顔には、絶望してしまったような表情が浮かんでいる。
「何で……何でこんなことになったの?」
呆然となりながらも、竜司は聞かずにはいられなかった。
すると、母の目が大きく見開かれた。彼女は無言のまま、じっと竜司を見つめている。
「何があったの!?」
語気を強め、竜司はなおも尋ねる。すると、母の表情が歪んでいく。竜司が状況を分かっていないことを、ようやく察してくれたらしい。
ややあって、母の肩がガックリと落ちた。その目から、涙がこぼれる。
「全部、私が悪かったのね。私のせいで、こうなったのね……」
力ない表情で虚ろに笑い、母は立ち上がった。包丁を拾い上げ、ドアに向かって歩き出す。
「か、母さん……ど、どこに行くの?」
怯えながら、竜司は尋ねた。母には、どこにも行って欲しくなかった。なぜ、こんなことが起きてしまったのか……教えて欲しかったのだ。
すると、母の足が止まった。
「ごめんね、竜司……母さん、今から警察に行く。行って、父さんを殺してしまったって言うから。あんたは何も悪くないよ」
そう言うと、ふらふらとした足取りで外に出て行った。
大介は、しばし呆然となっていたが……慌てて後を追いかけた。
母がいなくなったら、自分はひとりぼっちになってしまう。
「わーい、雪だ雪だ!」
どこからか、子供のはしゃぐ声が聞こえてきた。その時、竜司はようやく思い出す。
今夜は、クリスマスイブであったことを。
雪の降る中、母は傘もささずに歩いていく。返り血を浴びた彼女の体を、雪が白く染めていった。
「待ってよ母さん!」
竜司もまた、雪の降る中を追いかける。傘もささず、靴も履かないまま……。
すると、母は振り返る。
「あんたは来なくていいよ。これは、母さんがやったことだから。母さんのせいで、こんなことに……」
「そ、そんな!」
叫ぶ竜司に、母は寂しい笑顔を向ける。
「竜司、今日のことは忘れなさい。あなたは、一人で強く生きるのよ……」
その時、防寒具に身を包んだ男たちが現れる。よく見ると、防寒具の下は警官の制服だ。彼らは母に向かい、こう言った。
「すみませんが、何をしているのでしょうか?」
若い警官は、丁寧な口調で母に尋ねる。もっとも三人とも、包丁の届かないギリギリの間合いにいる。いざとなったら、すぐに取り押さえられるような体勢をとっていた。
それに対し、母はうなだれた様子で言う。
「私、人を殺しました」
そう言うと、包丁を捨てて両手を前に出した。その両手に、警官が手錠を掛ける。
ガチャリ、という金属音……その音は、雪よりも冷たいものだった。
両脇を警官に支えられ、去っていく母。雪の中、歩いていく後ろ姿に雪が降り注いでいく。
最後に見た母は、雪により白く染まっていた。
「ねえねえ、サンタさん来るかなあ?」
どこからか聞こえてきた無邪気な声。その無邪気さが、竜司の心を容赦なく抉った。
この悲惨な運命は、サンタのプレゼントなのか?
だとしたら、俺はサンタを殺してやりたい。
竜司はふと、そんなバカなことを考えていた。そうでもしなければ、やりきれなかった。現実に目の前で起きていることは、彼の許容範囲を超えている……虚ろな表情で、竜司は雪の中を立ち尽くしていた。
一人の若い警官が、竜司に何やら話しかけてきていた。だが彼の耳には、何も聞こえていない。
ただただ、去りゆく母の背中を見つめていた。
しんしんと降り積もる雪は、全てを平等に白く染めてゆく。罪を犯した者も、そうでない者も。
・・・
それから、十二年後――
「てめえ、何度言えば分かるんだよ!? いい加減にしねえと殺すぞ!」
竜司は、目の前にいる中年男を怒鳴りつけた。すると、男は怯えた表情でペコペコ頭を下げる。
「す、すみません」
「すみませんで済んだらなあ、警察もいらねえし戦争だって起きねえんだよクソ馬鹿!」
言うと同時に、竜司は男を殴りつけた。拳は顔面に当たり、男は苦痛で顔をしかめる。
だが、竜司は止まらなかった。男の腹に強烈な膝蹴りを入れ、倒れたところを蹴とばした。
男は悲鳴を上げるが、竜司は容赦なく蹴りまくる。その目には、異様な光が宿っていた――
「おっさんよう、てめえ分かってんのか? てめえが土下座して、何でもしますから雇ってくださいって言ってきたんだろうが! なのに、取り立ての一つも出来ねえのか!」
そう怒鳴りつけた後、竜司はまたしても男を蹴り始めた。男はうずくまり、蹴られるたびに呻き声を上げていた。
あの事件の後、施設に預けられた竜司。だが彼は、人の心を捨てていた。母に暴力を振るい、挙げ句に刺されて死んだ父。その父を刺し殺し、刑務所に行った母。竜司は、その両方を激しく憎んだ。
だが、いくら憎くても……死人と囚人には、その思いをぶつけることは出来ない。
代わりに、周囲の者に憎悪の念をぶつけた。些細なことで相手を殴り、蹴り倒す。竜司の暴力は一切の容赦がなく、敵対する者を徹底的に痛めつけた。
結果、竜司は手のつけられない不良として、あちこちの施設をたらい回しにされる。その間、人を憎んだことはあっても愛したことはなかった。
やがて中学を卒業した竜司は、裏の世界へと足を踏み入れる。父が母に刺殺されるという修羅場を幼い頃に経験している竜司にとって、裏の世界はまさにうってつけであった。しかも、他人に対し一切の情けをかけることがない。また暴力を振るうことにも、何のためらいもないのだ。
竜司は瞬く間に出世し、二十四歳の若さで、裏の世界では知られる存在へとなっていた。
一方、竜司に殴られているのは……福田信雄という名の四十男である。かつては工場務めをしていたが、リストラに遭い仕事を辞めることとなった。その後、再就職が上手くいかず……知り合いのつてを頼り、竜司の下で働くこととなった。
だが、今まで工員ひとすじで真面目に生きてきた信雄にとって、裏の世界で働くことは難しかった。口先三寸で人を騙して金を巻き上げ、時には暴力を振るうこともある……そんな仕事は、彼には向いていなかったのだ。
そのため、信雄はしょっちゅうヘマをし、竜司に殴られていたのである。
その翌日。
竜司が事務所に行くと、信雄が来ていない。竜司は忌々しそうに、電話番をしている三宅美紀に尋ねた。
「おい、あのバカまだ来てねえのか?」
「バカって、福田さんですか?」
ビクリとした表情で聞き返した美紀に、竜司は不快そうな様子で頷いた。
「当たり前だろうが。あいつ以外に誰がいる?」
「福田さんは、ケガがひどくて休むそうです。さっき連絡がありました」
「はあ? あの野郎、ふざけやがって……」
竜司は口元を歪めた。本当に使えない男だ。この際、きっちり教える必要がありそうだ。
裏の世界で生きていくための心構えを……。
その日の夜、竜司は信雄の家へと向かった。空は雲行きが怪しく、今夜は雪が降るかもしれない……との天気予報を耳にしている。
しかも、今夜はクリスマスイブだ。浮かれた男女の姿を、町のあちこちで見かける。
竜司は、たまらなく不愉快であった。クリスマスイブ、それは父が死に母が罪人となった日である。彼にとって、呪わしい思い出しかない。そんな日だというのに、皆は妙に楽しそうなのだ。
それゆえ、竜司のイライラは頂点に達していた。
やがて、竜司は信雄の家に到着した。四階建てのアパートの一室である。
「コラおっさん、さっさと入れろや!」
インターホンを連打しながら、ドアを蹴る竜司。すると、慌てたような声が聞こえて来た。
「だ、誰ですか! 警察呼びますよ!」
まだ幼い少女の声だ。いったい何者だろうか……竜司は首を傾げつつも、大声で怒鳴る。
「俺は福田信雄の上司の村山竜司だ! さっさと開けねえと、後悔することになるぞ!」
言いながら、ドアを叩く竜司。すると、中から男の声が聞こえてきた。
「ま、待て……お前は関係ない。部屋に行ってろ」
焦ったような声の直後、ドアが開く。中から信雄が顔を出した。
「む、村山さん……どうしました?」
顔をしかめ、尋ねる信雄。竜司は、さらに腹が立って来た。
「その前に、入らせてもらうぞ」
「えっ……すみません、家はちょっと――」
「いいから入れろや! 外は寒いんだよ! 雪も降りそうなんだよ!」
怒鳴ると同時に、竜司は家に入って行った。
「お父さん、この人誰よ!?」
入って来た竜司を見たとたん、少女がヒステリックに叫んだ。竜司は、その少女をジロリと睨む。
「お前、誰だ?」
「わ、私の娘です! 娘の彩佳です!」
慌てた様子で、信雄が叫んだ。
「はあ? 娘?」
言いながら、竜司は彩佳をまじまじと見つめる。ショートカットに気の強そうな幼い顔立ちである。しかし父親に似ず、なかなかの美少女だ。成長してからソープに沈めるかAVに出演させれば、かなり稼げる上玉になるだろう。
「は、はい、娘です。ところで、何の御用でしょうか?」
気弱そうな様子で尋ねる信雄を、竜司はいきなり蹴飛ばした。信雄は吹っ飛び、床に尻餅を着く。
「何の用ですか、じゃねえだろうが。てめえ、休んでんじゃねえよ」
「い、いえ……昨日さんざん殴られたせいで、肩が動かないんです。医者に診てもらったら、打撲傷と診断されました……」
顔をしかめながら、信雄は言った。だが、その言葉が竜司をさらに怒らせる。
「んだと? じゃあ、俺のせいでケガしたって言いたいのか?」
言いながら、竜司は信雄を殴りつける。その時、竜司の腕を掴む者がいた。
「やめて! 父さんを殴らないで!」
彩佳が叫びながら、竜司の腕にすがり付く。
だが竜司は、乱暴に突き飛ばした。彩佳は簡単に吹っ飛び、床に倒れる。
すると、信雄が凄まじい形相で立ち上がった。
「あ、彩佳に手を出すなあ!」
喚きながら、掴みかかって来た信雄。だが、竜司の敵ではなかった。髪の毛を掴まれ、あっさりとねじ伏せられる。
「てめえ、何をトチ狂ってんだ? 死んでみるかコラ?」
暴力慣れしている竜司は、あくまで冷静であった。だが次の瞬間、その顔が歪む――
背中に鋭い痛みを感じ、竜司は振り向いた。
「父さんから離れろ……うちから出て行け!」
彩佳は何かに憑かれたような表情で叫び、竜司を睨み付けている。
その手には、包丁が握られていた。
「てめえ、何しやがんだ……」
呻くような声を出しながら、竜司は立ち上がる。
しかし彼の胸の中には、奇妙なものが湧き上がっていた。
これは?
竜司の脳裏に、不可解な映像が浮かんでは消えていった。昔の記憶だが……何かが違う。
その時、またしても彩佳が叫んだ。
「うちから出て行け!」
直後、彩佳は突進してきた。竜司は反応が遅れ、避け損ねる。
竜司の腹に、包丁が突き刺さった――
「こ、この野郎!」
喚きながら、竜司は彩佳の襟首を掴んだ。力任せに突き飛ばす。彩佳は、床に叩きつけられた。さらに、信雄の喚く声も聞こえてきた。その声は彩佳に向けられたものか、あるいは竜司に向けられたものなのかは分からない。
だが竜司は、二人のことなど見ていなかった。よろよろしながら、家を出て行く。このままでは殺されるかもしれない、という思いもあったが……それ以上に、何かを思い出せそうな気がしていたのだ。
ずっと忘れていた、重要な何かを。
いつの間にか、外は雪が降り出していた。
雪、そして血――
竜司の頭に、かつての記憶が甦る。母を殴っていた父。止めに入る竜司。だが、竜司は突き飛ばされた……そこから先は、何も覚えていない。
ふと、包丁の柄が目に入る。自身の腹に刺さっている包丁の柄。
それを抜いてはいけないことは知っていた。刃物で刺された場合、下手に引き抜くと大量出血し、命が危険なのだ。しかし、これを抜いたら思い出せる……そんな気がした。
次の瞬間、竜司は包丁を引き抜く――
竜司は、その場に倒れた。右手の包丁、激痛、流れる血、そして雪……彼は、ようやく思い出したのだ。
十二年前の真実を。
あの時、父に突き飛ばされた竜司はカッとなった。こいつのせいで、母はいつも殴られている。しかも、父が若い女と浮気していることも竜司は知っていた。
悪いのは、親父だ。
親父さえ死ねば、この家は平和になる。
竜司は台所の包丁を握りしめると、父に向かい突進する。
包丁を、父の腹に突き刺した。
何度も、何度も――
父は吠えながら、竜司を思い切り蹴り飛ばす。竜司は壁に後頭部を打ち、意識を失った。
俺が犯人だったんだ。
母さんは、俺を庇って……。
薄れゆく意識の中、竜司は空を見上げた。舞い落ちる雪が、彼の体を包んでいく。竜司は、歪んだ笑みを浮かべた。
俺は、何をやってるんだよ……。
・・・
「おい村山ぁ……お前は本当に、自分で自分を刺したのか? 俺も長く刑事をやってるが、そんな話は聞いたことがねえぞ」
同じ質問を繰り返す刑事の高山に、竜司は面倒くさそうに頷いて見せた。
「そうですよ。俺が福田の家で包丁をいじってたら、間違えて自分の腹を刺しちまった……だから、誰も悪くないんです」
「んなバカな話、俺が信じると思うのか?」
高山はいったん言葉を止め、竜司をじっと見つめる。だが、竜司は平然としていた。
少しの間を置き、高山は再び語り始める。
「だったら、あの福田親子は何なんだよ? 父と娘が口を揃えて、自分が村山を刺したって言い張ってるんだぜ。あたしが刺しました、いや俺が刺したんです……ってな。どっちも、逮捕されたくて仕方ねえって感じだ」
そう言うと、高山は呆れたようにかぶりを振った。それを聞いた竜司は、思わず苦笑する。
「なあ竜司、警察も暇じゃねえんだ。困らせないで本当のこと言ってくれよ。お前を刺したのは、一体どっちなんだ?」
そう言うと、高山は竜司を睨み付ける。だが、竜司は首を横に振った。
「だから、どっちも嘘を吐いてるんですよ。俺は、あんな奴らに刺されるほどヤワじゃないですから。俺は、誰にも刺されてませんし誰のことも訴えたりしません」
竜司の言葉に、高山は目を細める。もう五十歳を過ぎているはずなのだが、未だに迫力ある風貌だ。刑事ひとすじ二十五年のキャリアは伊達ではない。
「そうかい。ま、嘘を吐いてるのがお前だってことは分かっている。だがな、俺も忙しいんだ。お前が被害届を出さねえなら、警察もこれ以上は関わる気はねえ。好きにしろ」
そう言って、高山は背中を向け病室を出ようとした。だが何かを思い出したのか、立ち止まり振り返る。
「たまには、お袋さんの面会に行ってやれ。お前、一度も行ってないそうじゃねえか」
高山が去った後、竜司は窓の方を向いた。だが、痛みが走り顔をしかめる。幸いにも、命に別状はない……とのことだが、しばらくの間は入院していないといけないらしい。
母さん、何で言ってくれなかったんだよ。
竜司は心の中で、母に問いかけた。
もっとも、その理由は聞くまでもない。母は、竜司を殺人犯にしたくなかったのだ。目の前で、父を殺してしまった息子……母はその時、想像もつかない絶望感を味わったのだ。さらに、これまでの生活を激しく後悔したことだろう。自分たちがさっさと別れていれば、こんなことは起きなかったはずなのに……。
だが、意識を取り戻した息子には殺人の記憶がなかった。頭を打った衝撃か、あるいは無意識のうちに記憶を封じ込めていたのかは分からない。
いずれにせよ、息子には殺人の記憶がなかった。その事実を知った時、母は決意したのだ。
息子の身代わりになることを。その罪を、自分が代わりに償うことを。
全ては、息子に殺人犯としての人生を歩ませないためだった。
だが、その息子の今の姿は?
気がつくと、外はまた雪が降り出していた。
空から落ちてくる雪が、竜司のドス黒く汚れた心を白く清らかなものへと変えてゆく。声を殺し、竜司は一人で泣いた。




