特攻野郎たち
朝、まだ人通りの少ない時間。
ビルの建ち並ぶ通りで、府川亮一は立ち止まる。少し緊張した面持ちで壁に寄りかかり、スマホを取り出した。何気ない様子で、画面をチェックする。もっとも、彼の目的はスマホではない。
やがて、向こうから一人の女性が走ってくるのが見えた。走り方はとても軽やかであり、フォームも自然だ。ホットパンツから伸びる足は、しなやかな筋肉に覆われている。
府川はスマホを見るふりをしながら、目だけでじっと彼女の方を見つめていた。
キャップをかぶりサングラスをかけているため、顔ははっきりとは見えない。だが鼻の形や口元からして、美人である可能性は高い。さらに、とても綺麗なボディーラインなのはきっちりと確認できる。豊かなバストは、彼女の動きに合わせて弾んでいた。もっとも、ウエストはきっちり引き締まっている。府川の通う高校に、こんな魅力的な女性はいない。
彼女が、目の前を走り抜けていく。府川は鼓動の高鳴りをはっきり感じながら、後ろ姿をそっと見つめた。形のよい豊満なヒップが悩ましい。うぶな高校生にとっては、たまらない光景であろう。
遠ざかって行く女を、府川はじっと見つめていた。やがて女が見えなくなると、すれ違うように廃品回収の軽トラがゆっくり走って来る。
府川はフウと息を吐き、おもむろに歩き始めた。これから、学校に行かねばならない。
ここ最近の、彼の日課……それは今の場所に立ち止まり、女の走る姿を見つめることだった。女はほぼ毎日、同じ時間に同じルートを走っている。走る速度も一定だ。女の規則正しさに伴い、府川も規則正しく女を見つめていた。
学校の休み時間、楽しそうに語り合うクラスメートを尻目に、府川は机の上で眠ったふりをしている。彼の外見には、特筆すべき点は何もない。成績も中の下であり、スポーツや部活動は一切していない。
冴えない奴……府川を説明するには、その一言があれば事足りるだろう。クラスの中でも、彼は最下層に属していた。友だちもなく、同級生たちの話題に上がるわけでもない。
今も府川は、寝たふりをしながら時間が過ぎるのを待っている。全く目立たない、地味な暗い生徒……彼は、そんな少年であった。
翌日も、府川はそこにいた。スマホを取り出し、女が来るのを待つ。
ほどなくして、女が現れた。しなやかな動きで、軽快に走る。躍動する魅力的な肉体を包んでいるのは、いつもと同じくタンクトップにホットパンツだけだ。
さらに、ビルから二人の男が出てきた。両方とも、三十代から四十代だろうか。ブランド物のスーツを着ており、背が高くガッチリした体格である。片方の男は、金属製のアタッシュケースを持っている。
女は、そんな二人組の前を走り抜けて行った。すると男たちは、いかにも下卑た目付きで女の後ろ姿を見つめる。口元には、いやらしい笑みが浮かんでいた。
そんな目で、あの人を見るな。
男たちに、そう言いたい気持ちをこらえつつ、府川は女の行方を目で追っていた。女はいつもの通りに、十字路を右折する。
府川ははやる気持ちをこらえ、さりげない動きで後を追った。十字路で立ち止まり、女の後ろ姿を見つめる。
女は、ゆったりとした速度で走っている。その横を、廃品回収のトラックがのんびりとしたスピードで通り抜けて行った。トラックを運転しているのは、スキンヘッドの逞しい青年である。ハンドルを握っている腕は、丸太のように太い。このトラックもまた、毎日この道を通る。
何もかもが、いつもと全く変わりない風景だ。この風景を、府川は何度も見てきた。
次の日もまた、府川は同じ場所に立っていた。
しばらくすると、女がこちらに向かい、ゆったりとした速度で走って来るのが見えた。キャップを被りサングラスをかけ、タンクトップとホットパンツのセクシーな姿である。
さらに、ビルからスーツ姿の二人組が出て来た。これも、いつも通りだ。彼らは駐車場まで歩き、車に乗り込む……ジョギングする女の後ろ姿を、いやらしい目で見ながら。府川が今まで、毎日のように見てきた光景である。
だが、その日はいつもとは違う展開になるはずだった。府川は胸の中で、ある決意をしていたのである。今日こそ、自分の思いを遂げる日だと以前より決めていたのだ。
近づいて来ている、あの女と……。
二人組の前を、女は軽やかな動きで走り抜けていく……だが二人の前を通る瞬間、女は妙な動作をした。
走り抜ける一秒にも満たない間に、女は小さなスプレーのような物を取り出す。さらに、二人の顔に吹きかけたのだ。
次の瞬間、二人組は片手で目を押さえる。いきなり目を襲った痛み……だが、それよりも混乱の方が大きい。いつも目の前をジョギングしていた女が、まさかこんなことをするとは。完璧なる不意討ちである。避けることなど出来なかった。
しかし女にとっては、そんな事情など知ったことではないらしい。片方の男が持っていたアタッシュケースを奪い取り、脱兎のごとき勢いで走る――
女は、あっという間に十字路を右折し見えなくなってしまった。
その時、府川も動く。目を押さえている二人組に近づき、スマホ片手に騒ぎだした。
「だ、大丈夫ですか! 警察呼びますか警察!」
言いながら、府川はスマホに触れる。すると、二人組は慌てて立ち上がった。
「よ、呼ばなくていい!」
片方の若い男が、涙を拭きながら言った。府川はおろおろしながら、男たちを見つめる。
「で、でも目が真っ赤ですよ! 何かされたんじゃないですか!? 警察を呼んだ方が――」
そう言った直後、府川は襟首を掴まれた。さらに、男の顔が近づいてくる。
「黙れ……いいか、お前には何の関係もないんだよ。警察なんか呼ばなくていいんだ。でねえと、後悔することになるぞ」
ドスの利いた低い声で男は囁いた。目の周りを腫らしているとはいえ、迫力のある風貌であることに変わりはない。府川は、震えながら頷いた。
「は、はい……す、すみませんでした……」
恐怖に顔を歪めながら、府川は何度も首を振る。もちろん縦にだ。
そんな彼らの横を、廃品回収の軽トラが通り過ぎていく。運転している青年は、不審そうな目で府川たちを見た。
すると、もう片方の男が近づいて来る。こちらの方は中年で、いくぶん知的な雰囲気を漂わせている。
中年男は、府川の肩を親しげにポンポン叩いた。軽トラの運転手の目を気にしているのだろう。事情を知らない者から見れば、知り合い同士がじゃれているように見えなくもなかった。
「兄ちゃん、あんた高校生か?」
ハンカチで目を拭きながら、中年男は聞いてきた。府川が震えながら頷くと、中年男は右手のひらを突き出して来た。
「悪いんだけどな、生徒手帳を見せてくれよ」
有無を言わさぬ迫力に、府川は逆らうことなど出来ない。生徒手帳を出し、中年男の手に乗せる。
中年男は目の周りを拭きながら、生徒手帳の写真と府川とを見比べた。
「なるほど、君はオヤマダ高校一年生のフルタ・リョウヘイくんだな。悪いけど、控えさせてもらうよ。ところでフルタくん、君はここでは、何も見なかった……それでいいね?」
静かな口調ではあるが、その奥には危険な感情が込められている。府川は泣きそうな顔で、うんうんと頷いた。
すると、男はにっこりと笑う。
「そうか、分かってくれて嬉しいよ。もう一度言うけど、君は何も見ていないし何も聞いていない。俺の言っていることがどういう意味か、君だって分かるよね?」
言いながら、男は府川に生徒手帳を返す……折り畳まれた一万円札と共に。
「これで、美味いものでも食べな。あと、ここには二度と来るんじゃないよ。もう一度、ここいらで君の姿を見かけたら……俺は本気で怒る。いいね」
その声は、先ほどまでと違い優しい。まるで、父親が息子を教え諭しているかのようだ。府川は安堵の表情を浮かべた。
「はい! わかりました!」
学校の休み時間、府川はいつものように机の上で顔を伏せている。ただし、今日は寝たふりをしているのではない。本当に眠っているのだ。
その眠りは深く、次の授業になっても目を覚まさない。挙げ句、皆の注目を浴びる中で教師に罵倒される羽目になった。
もっとも、これは仕方ない。府川は今日まで、緊張ゆえにあまり眠れていなかったのだから。
・・・
最後の授業が終わると同時に、府川はさっさと教室を出て行った。真っ直ぐ駅に向かい電車に乗り込み、とある駅で降りる。楽しそうな顔つきで、路地裏へと足を踏み入れた。
そこは怪しげな雑居ビルや古い木造住宅などが立ち並ぶ区域であり、どう見てもカタギの人間の住んでいる雰囲気ではない。刑事ドラマ、あるいはヤクザ映画にでも出てきそうな風景だ。漂う空気からして、違う味がする。
だが府川は、恐れる様子もなくずかずか歩いていく。廃墟のごとき鉄筋コンクリートのアパートで立ち止まり、左右をチラリと確認し中に入って行った。階段を上がり、三階にある一室のドアを開ける。
「リョウちゃん、遅い!」
部屋に入ると同時に、女の声が飛んでくる。府川はすまなそうにペコリと頭を下げた。
「お待たせして、すみません。でも僕は、一応高校生ですから……授業が終わらないと、来られないんですよう」
「高校なんか、さっさと辞めちまえよ。この仕事なら、中卒でもガンガン稼げるぜ」
そう言ったのは、ソファーに座っているTシャツを着た男だ。がっちりした筋肉質の体と、スキンヘッドが特徴的である。
そう、彼は朝……廃品回収の軽トラを運転していた男である。
「ちょっとリョウちゃん、マサみたいな筋肉バカの言うこと聞いちゃ駄目よ」
その言葉と共に顔を出したのは、美しい顔立ちと肉感的なスタイルを併せ持つ若い女性だ。
こちらは毎朝、府川の目の前をジョギングしていた女と同一人物である。
「誰が筋肉バカだ! 本物のバカに言われたくねえんだよ!」
「はあ? こっちこそ、あんたみたいな人型ゴリラに言われたくないんだけど――」
「おい二人とも、今はそこまでにしとけ。まずは、金を分けるのが先だ」
言いながら奥から出てきたのは、二人よりも年配の男だ。中肉中背で髪にも白いものが目立つが、顔つきは若いし体型もスマートだ。その手には札束を抱え、愉快そうな表情で歩いてくる。
男は皆の顔を見回し、テーブルの上に札束を四つ並べた。
「全部で、一千とんで二十三万だ。うち一千を、まずは五等分して二百万ずつだ……八百万は、俺たちで分ける。残りの二百と二十三万は、この金庫に入れておくぞ。いいな?」
男の言葉に、全員が頷いた。
風間道夫、四十歳。かつて詐欺罪で服役していた。裏の事情に詳しく、四人のリーダー格である。
徳山正幸、二十五歳。以前はプロの格闘家を目指していた。今も筋トレが趣味であり、いざとなったら総理大臣でもブン殴る超武闘派だ。またフォークリフトからトレーラーまで、大抵の乗り物は動かせる。
中田真理恵、二十四歳。アイドル顔負けの美貌と肉感的なスタイルで、大抵の男は手玉に取れる。また、顔に似合わず格闘の腕もなかなかのものだ。その綺麗な顔と魅惑的なスタイルからの、強烈な不意討ちを得意とする。
府川亮一、十六歳。チームの最年少。これといって特徴の無い風貌と気配を消すテクニックを活かし、風景と同化するというカメレオンのごとき特技を持つ。演技も上手く、どこにでも潜りこめる。アドリブも利き、とっさに嘘やでまかせを並べ立てて相手を煙に巻くのも得意だ。
最初に、小沼ビルの一室がヤクザの経営する裏カジノであることを知った風間が、この計画を立てた。朝、売上金の一部を二人のヤクザが組事務所へと運んでいくのだが……その金を、奪おうというものである。
裏カジノの売上金、つまりは表に出せない金だ。奪われても、警察に訴えられない。しかも、金を奪われて困るのはヤクザだけである。
そんな計画を実行に移すのは、他の三人だ。まず最初は、中田がヤクザに催涙スプレーを吹き付け、金の入ったアタッシュケースを奪う。
アタッシュケースを奪った後、中田は思い切りダッシュして十字路を右折する。そこに、タイミングを合わせて徳山の運転する軽トラが通りかかることになっている。
軽トラの窓はあらかじめ開けてあるので、中田は運転席にアタッシュケースを放り込み、止めてあった自転車に乗って一気に逃げる。一方、徳山は軽トラを運転し現場を離れる。その後は、アタッシュケースを風間に渡すだけだ。
最年少である府川の役目、それはヤクザの足止めである。さらに、中田に万が一のことがあった場合……徳山と府川が援護しつつ、三人で協力し合い現場から離脱する手筈になっていたのだ。
「いいか、金を奪うことに固執するな。ヤバいと思ったら、ためらわずに逃げろ。金を稼ぐチャンスは何度でもある。だが、命は一度失ったら終わりだ」
リーダーである風間の言葉である。皆、いざとなったら全員でフォローしつつ逃げる……という話し合いは出来ていた。
また彼ら三人は、ただ現場を見張っていたわけではない。毎日のように練習していたのである。
一見すると、ジョギングする女とそれを見つめる高校生、さらに脇を通る軽トラでしかない。しかし三人は、頭の中でイメージトレーニングをしていたのだ。各々が緊張感を持ち、自身の動きをシミュレーションしつつ、現場に集合していた。
その上、売上金を運ぶ二人組のヤクザにとって、中田と府川そして廃品回収の軽トラは日常風景の一部と化している。毎朝ジョギングを日課にしているセクシーな女と、その姿をじっと見つめる暗く地味なストーカーっぽい高校生。こんな二人を警戒する者などいない。
三人は風景の一部と化すまで、現場に通いながら頭の中でイメージトレーニングを繰り返していたのだ。
結果、見事に作戦を成功させたのである。
「あ、今から飯でも食いに行きません?」
金の分配が終わった後、府川が提案する。しかし、風間は首を横に振った。
「駄目だ。今、派手に金を遣えばヤクザに目を付けられる。リョウ、前にも言っただろうが――」
「いや、違うんですよ。奴ら、僕に一万よこしたんですよ」
言いながら、府川はポケットから折り畳まれた一万円札を取り出し、風間の前でヒラヒラさせる。
「何だそりゃあ? あのヤクザがよこしたのか?」
尋ねる風間に、府川は笑いながらウンウンと頷いた。
「そうなんですよ。あのヤクザは生徒手帳をチェックした後、君は何も見ていないし何も聞いていない……なんてクサい台詞を言いながら、ポケットに入れてきました。口止めのつもりでしょうね。それはともかく、小さい定食屋ならヤクザに目を付けられないでしょう。この金で、何か食べに行きましょうよ」
ニヤニヤしながら、府川は答える。言うまでもなく、ヤクザに見せたのは偽造した生徒手帳だ。小山田高校の古田良平なる名前が印刷されていた。風間が万が一の事態を想定し、持たせてくれた物である。
「何だよ、そりゃあ……奴らは、とんでもねえアホだな」
呆れたような口調で徳山が言うと、中田もクスクス笑った。
「本当だよ。泥棒に追い銭って、まさにこのことだよね」
「おいおい、無理して賢そうなこと言うな。お前の頭が空っぽなのは、みんな知ってんだからよ」
徳山の軽口に、中田がムッとした表情になる。
「はあ? あんたみたいな、プロテインバカにだけは言われたくないんだよ」
「誰がプロテインバカだ! だいたい、プロテインバカって何だよ!」
「プロテインの飲み過ぎで、脳までプロテインになったあんたみたいなバカのことだよ!」
「んな奴いるか!」
言い合う中田と徳山を、府川はニコニコしながら眺める。この二人の口喧嘩……いや痴話喧嘩は、いつものことなのだ。いわば、このカップルにとってのウォーミングアップである。
だからこそ府川は、中田をいやらしい目付きで見ていたヤクザを不快に思ったのだ。府川にとって、徳山も中田も大切な仲間なのだから。
その時、風間が近づいて来た。府川の肩に手を回しながら、葉巻を取り出す。
「じゃあ、二人のイチャつきが終わったら、みんなで下のラーメン屋にでも行くか? あそこは汚いが、美味いからさ」
「あ、いいっすね」
府川が答えると、風間はニヤついた表情で葉巻を咥えた。
「俺たちゃあ、道理の通らぬ無法者から金を奪う。頼りになる神出鬼没の特攻野郎なのさ」
勝ち誇った顔つきで、そんなセリフを吐いた風間。だが、府川には何のことだか分からない。思わず首を傾げる。
「はあ? 何を言ってるんですか?」
訝しげな表情の府川に、風間は苦笑した。葉巻に火を点け、ため息と共に煙を吐き出す。
「このネタが通じねえのか。俺ももう、おっさんになっちまったんだな……」




