交わされたキス 2
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泣き腫らした重い目を開けると辺りはすっかり明るくなっていた。ベッドの中で首だけ動かすと右手側にベッドの淵に腰を下ろすベルナルトの姿があった。茉莉花はごそごそと動き、座るベルナルトの腹に手を回すと抱き付いた。ベルナルトは驚いたような顔をした後、優しく茉莉花に微笑み掛けた。
「おはよう」
「仕事は……?」
ベルナルトの腰に顔をうずめ茉莉花は疑問をぶつけた。ベルナルトにゆっくりと腹に回していた手を外され、向き直ったベルナルトに頬を撫でられた茉莉花は目を細めていた。
「代役を立てた」
「でも出張って……」
「仕事はいくらでも挽回できる。失敗しても取り返しがつく。でも君は違うだろ? 君が居なくなったらもうそれでおしまいだ。私はそんな結末はごめんだ」
茉莉花の目を真剣に見つめベルナルトはそう言った。茉莉花は少し頬を染めて体を起こした。
「着替えるといい。出かけるぞ」
ベルナルトはふっと微笑み茉莉花にソファを指差した。そこには新しい茉莉花の服が用意されていた。
「はい」
茉莉花はいそいそとベッドを抜け出すと出かける準備を始めた。
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「ここはどこですか?」
茉莉花はベルナルトに手を引かれ、とあるビルに入っていた。エレベーターに乗り地下を目指していた。
「私の持っている会社の一つだ。研究所だな。ここにチェンが居る」
「! 病院じゃないんですか?」
「病院では間に合わなかった。こちらの施設で預からせてもらっている。心配はしなくていい。最先端の技術に薬が用意されている。医師もいる。普通の医療施設と何も変わらない」
「よかった……。本当にチェンは無事なんですね。よかった」
エレベーターが目的の階に着くとそこはフロア全体が白で統一されていて清潔感があった。
廊下を進んで行くと一つのガラス張りの部屋に茉莉花は駆け寄った。
「チェン……!」
ガラスの向こうには呼吸器や点滴をはめられ眠っているチェンの姿があった。茉莉花は目に涙を浮かべてガラスに張り付いていた。
「先ほど、鎮痛剤が切れて麻酔を打ったそうだ。それで眠っている」
「じゃ、じゃあ大丈夫なんだ……」
「命に別状はないと言っただろう? だが絶対安静だそうだ。だから起こさないように」
「はい」
茉莉花はほっとし、少し笑みを浮かべていた。
「少しは元気になったようだな?」
「え?」
「君は昨日から酷い顔だ。折角の愛らしい顔に暗い影が出来ていて心配だった。君は本当に優しい子だな」
「……。ベルナルトさん」
「なに?」
茉莉花はガラスに当てていた手をキュッと握った。大きく息を吸い真っ直ぐな強い光をともした目でベルナルトを見ると、勢いよく手を膝にかざし頭を下げた。
「お願いがあります!」
ベルナルトはびっくりしたのか目を見開き茉莉花に手を差し出した。
「茉莉花。顔を上げて」
茉莉花はフルフルと首を振ると力強く言葉を発した。
「もう、ベルナルトさんの言う事に絶対逆らいません。あの屋敷から一生出なくてもいい。ベルナルトさんの言う事なんでも聞きます。私に出来る事なら何でもします。だから、だから、お願いです。チェンを普通の生活に戻してあげてください。お願いです! チェンには弟が居るんです。一緒に普通の生活を、人並みの幸せをあげてください。お願いします……」
茉莉花は歯を食いしばりそう言い切った。言い切った茉莉花の肩をベルナルトはそっと掴み、顔を上げさせた。茉莉花は眉を下げ必死に目でベルナルトに訴えかけていた。ベルナルトは優しい笑みを浮かべ茉莉花の頭を撫でていた。
「分かった。君の願いを叶えよう」
「本当、ですか……?」
「ただし、君の言った条件は無しだ」
「?」
「分からないと言う顔だな? 茉莉花、君は私にとって何だと思う? 君にとって私は?」
「え?」
「私達は夫婦じゃないのか? 君は私の大切な妻だし、君の願いを叶えるのは夫としてごく自然な事だ。それに対して見返り何て求めない。初めに言った筈だ。私を頼れと」
「あ……」
茉莉花は体の力を抜いていた。こんなにもベルナルトが頼もしいと、信頼できると初めて思ったのだ。
「君はチェンをどうしたい?」
「チェンを、国に還してあげてください。家族と一緒に暮らさせてあげてください……」
「分かった。彼女の怪我も今後の人生に必要な資金も、仕事も援助する。……だが、弟は居ない筈だ。家族も」
「え、そんな筈ないですよ。だってチェンはそう言ってたもの」
「君に?」
「はい」
「……。茉莉花。君はチェンの事をどこまで知ってるんだ?」
茉莉花は小首を傾げ、ガラス越しに眠っているチェンを見つめた。
「家族がたくさんいて、出稼ぎで来てるって……。弟さんがここ一年ほど病気で良くないって。だからなんとしても助けたいって……」
ベルナルトは眉をひそめていた。
「そうか……。少し話をしよう。チェンの話だ」
「はい」
「彼女は十一歳の時に家族全てを失っている」
「え……?」
「だから彼女に血の繋がった家族は居ない。屋敷に雇う者は全て素性を調べている。チェンは君のボディーガードとして雇ったんだ。表向きは君付きの使用人だが、チェンは特殊な訓練を受けた人間だ」
「そんな事……。でも、弟さんの為って……。家族に手紙を書くって……」
茉莉花は目を丸くして眠るチェンを見つめていた。あの時の話が嘘だとは思えなかった。チェンが見せた涙が嘘だとは思えなかった。茉莉花を騙すために体を張って怪我をしたとは、到底思えなかったのだ。




