辿り着いた地で 3
「そんな事させないけど?」
一瞬の事だった。茉莉花は目を見開き、呆然と立ち尽くした。温かい真っ赤な血が茉莉花の顔や真っ白な服を染め上げて行った。
「やぁ。ジャスミン。怪我はない?」
男はぴくぴくと痙攣し首を抑えながら地面に倒れていた。その後ろに立っていたのは笑顔のエドモンドだった。
「ジャスミン? 大丈夫?」
茉莉花はその場にペタンと座り込みエドモンドを見つめた。何も言わない茉莉花にエドモンドは首を傾げ、まだ息のある男の頭を鷲掴みにした。
「聞きたい事あるんだけど? まだ死んでないよね? 死なないように刺したつもりなんだけど?」
男の喉元にエドモンドは鈍く光る刃を突きつけた。男は顔を歪めていた。
「お前のボスは?」
「カッ。ガハッ!」
男は話そうとしているのか口を開け、ヒューヒューと息を吸いながら何かを伝えようとしていた。だが言葉を発することが出来ないでいた。エドモンドはまた首を傾げ、男の腕を捲り見た後納得したように小さく呟いた。
「話せない程深く切っちゃった? まぁこれで分かったよ。ああ。なるほどね。じゃあもう用はない。ばいばい」
そう言うと笑顔で男の喉元に当てた刃を引いた。男は目を見開きその場に伏せた。
茉莉花は卒倒しそうな意識をかろうじて保っていた。心臓はバクバクと早鐘を打ち、出てくるのではないかと思うほど活発になっていた。全身を巡っている筈の血液とは関係なく手足は酷く冷たくなっているように感じていた。
「もしもし。もしもーし! あ、対象を発見。すぐに保護する。後片付けは任せた」
エドモンドは耳に付けていたインカムのスイッチを切ると、しゃがみ込み茉莉花の目を見つめた。
「ジャスミン、行こう」
エドモンドの頬にも僅かに男の血が付いていた。それを気にする事など無くエドモンドは笑顔で茉莉花に手を差し伸べたのだ。茉莉花は浅い呼吸を繰り返しながら、その手を見つめていた。それを拒否することも茉莉花には出来ずに居た。体がいう事を聞かなかったのだ。
「驚かせちゃった? ごめんね。でも、もう大丈夫だから。……よいしょっ」
エドモンドはいつかもそうしたように茉莉花を軽々と抱え上げた。茉莉花は全身冷たい感覚を持ちながら、凍ったように動かない体をエドモンドに預けた。
(怖い……)
今までの事を何とも思わないのか、エドモンドは鼻歌を歌いながら茉莉花を抱え歩き出した。そんなエドモンドに茉莉花はかつてないほどの恐怖を感じ体を小刻みに震わせていた。
「すごい顔色悪いよ? 平気?」
茉莉花はビクリと大きく肩を震わせて、エドモンドを見つめた。エドモンドは相変わらず笑顔で茉莉花を見ていた。茉莉花は必死に体に命令を下し首を横に振った。
「だよねー。そう言えば血苦手なんだったっけ? あんなの見せてごめんね? でも君が思ったよりも無事で安心した。首の傷、早く手当てしようね?」
軽口でそういうエドモンドは茉莉花の知っているエドモンドそのものだった。いつもと変わらず茶化したような話し方。いつもと変わらず人懐っこい笑み。それが茉莉花には信じられず、怖かった。
(ベルナルトさん……)
茉莉花は知らずの内にベルナルトの事を考えていた。ベルナルトなら助けてくれる。傍に居て欲しい。そんな思いが茉莉花の中に渦巻いていた
しばらく茉莉花は抱えられたまま森を進んだ。森の奥まで来たことは無かった。そこは木々が意図的に切られたように開けた場所だった。エドモンドに降ろされた茉莉花は目に涙を溜め、そこに居る人物に走って駆け寄った。
「茉莉花!」
ベルナルトは神妙だった面持ちを茉莉花の姿を確認すると同時にほっと安らげていた。茉莉花はベルナルトに勢いよく抱き付いていた。そんな茉莉花の背をベルナルトは優しく撫でていた。
「ベル……、ベルナルト、さん……」
「茉莉花、大丈夫か? 怪我は?」
茉莉花は勢いよく首を横に振った。ベルナルトがほっと息を吐くのが茉莉花にも分かった。抱き合う二人の傍に来たエドモンドがベルナルトに対し自身の首を指差していた。
「ここ、怪我してるよ」
そう指摘されベルナルトは自身の胸に顔を寄せる茉莉花の首を確認した。そして首や頬に付いていた血を優しく拭った。
「すぐに手当てしよう」
「そうした方がいいんじゃない? 細菌とか入っちゃってるかも」
茉莉花はエドモンドが話す度小さく震えていた。ベルナルトの背に回した手をギュッと握り締めていた。
「……茉莉花?」
ベルナルトは心配そうに茉莉花の顔を覗き込んだ。茉莉花の顔色は真っ青で血の気を感じられなかった。
「怖い思いをさせてしまったな」
コクコクと頷く茉莉花の後ろでエドモンドは笑みを絶やさずに居た。
「でも、ジャスミンは無事だったでしょ? 首の怪我はごめん」
茉莉花がエドモンドが話す度にビクついている事に気付いたベルナルトはエドモンドを見つめた。
「すまないが……」
「分かってる。俺に怯えてるんでしょ? いいよ。行ってくる。後片付けは任せて。後ろ盾も分かったし、すぐに片付けるよ」
「すまない。よろしく頼む」
エドモンドは笑顔を崩し、少し寂しそうに茉莉花を見て苦笑いを浮かべた。
「任せて」
そう言ってその場から離れようとした。
「……チェン」
「チェンがどうかしたのか?」
茉莉花は堰を切ったように涙を流し、ベルナルトに懇願した。
「お願いです! チェンを、助けて……!」
必死の茉莉花の訴えにベルナルトは頷き、背を向けていたエドモンドにチェンを託した。
「任せといて」
エドモンドはまたそう言うと今度は足早にその場を去って言った。
「チェン……、チェン……! どうしよう! 私のせい! チェンが死んじゃったらどうしよう!! チェンはここに来る事反対してたのに! 責任は押し付けないって約束したのに!! ああ! 私! 私……!」
「茉莉花。茉莉花。大丈夫だから。我々の精鋭スタッフでなんとしてもチェンを助けるから」
「お願い! 助けて!! お願い。お願いです!!」
「ああ。もう大丈夫だから、落ち着いて」
ギュッと抱きしめるベルナルトの腕の中で茉莉花は首を動かし、エドモンドの去っていった方向を見つめた。
「あの人、……一体何者なの!? ベルナルトさんの友人って、絵描きじゃなかったの!? なんで、なんで、あんな事! どうなってるの!?」
「茉莉花」
「あ、あの人、人を殺したのに、笑顔で……!」
「茉莉花!」
茉莉花は目を見開き話すのを止めた。強張っていた体が解けていくような感覚に陥った。茉莉花はようやく少し落ち着き安らぎを得たのだ。
唇に確かに感じる柔らかい物。一瞬何が起きたのか茉莉花は理解するのに遅れた。だが理解した今、それを素直に目を閉じ受け入れた。名残惜しくも音を立てて離される唇に、もう一度目を開いた。そこには色鮮やかに茉莉花の目に映るベルナルトが居た。ベルナルトは真剣な面持ちと紅潮させた頬で茉莉花に叫んだ。
「愛してる!!」
その告白を聞いた茉莉花は、またも数秒遅れて何を言われたのか理解し全身の力が抜け、今までの事が吹っ飛ぶくらい混乱した。頭は真っ白で何も考えられず、キョトンとベルナルトを見つめるだけだった。




