辿り着いた地で 2
「奥様!!」
茉莉花は何が起こったのか分からずに、地面に倒れた。茉莉花の着ていた白いコートは雪の下の地面と擦れ茶色く汚れた。茉莉花は体を起こし、チェンに目をやった。
「チェン……?」
「逃げて!」
茉莉花は目を見開き途端に体を硬直させた。チェンの手からは赤い血が滴り、その前にはナイフを握り締めた細い男が立っていたのだ。男は焦点が合っていないのか仕切りに瞳を揺らし、上がった口角からは泡を吹き出し、仕切りに何かをぶつぶつと呟いていた。
「チェ……、チェン!!」
「逃げてください!」
「い、一緒に……!」
「ダメです! 早く!」
「でも……!」
男は茉莉花とチェンの話しを聞きながら奇妙な笑い声を漏らし、口早に話し始めた。
「やっぱり居た!! やっぱり居た! シルヴァーニの娘! 遺産!! どっちも東洋人? どっちだ? どっちがシルヴァーニの娘なんだ!!!」
いきなり鋭い眼光で目を見開き怒鳴りつけて来た男に茉莉花は全身の血の気が引いて行く感覚に陥った。
(怖い)
ブルブルと震えだす体は力が抜け、地面に着いたままの体で後退った。そんな茉莉花を庇うようにチェンは茉莉花の前に立ち、その男を睨みつけていたのだ。
「答えろよぉ!! お、俺が正しいって、あのジジイに思い知らせてやるんだからよぉ!! お前か!? お前が、シルヴァーニの娘か!!?」
ナイフを突き出し男はチェンに問いただした。チェンは静かに首を縦に振った。
「チェン!?」
茉莉花は驚きチェンの名を呼んだ。チェンは一瞬茉莉花に振り返り、目を細め微笑んだのだ。
「逃げてください」
茉莉花はゾワゾワとした冷たい感触に全身を駆け巡られた。
「俺に付いてくるよなぁ? 俺と一緒に行こうぜ?」
男は気味の悪い笑顔を張り付けチェンに近寄った。ナイフはそのまま下ろさずにチェンに向けられていた。
「お言葉ですが、そういう訳には行きませんので。私にはまだ仕事が残っています。貴方と一緒に行く事は出来ません」
チェンの淡々とした言葉に男は青筋を立て怒りを露わにした。手に持ったナイフを振りかざし、チェンに向けたのだった。
「チェン!!」
茉莉花は顔を青くしてその光景を見ていた。体に未だ力が入らずに立つことすら出来なかったのだ。チェンは振りかざされたナイフをさっと避け、身を屈めて男に向かって蹴りを繰り出した。男はその蹴りをかわそうとしたものの、一瞬遅く腹にチェンの足の重みを感じていた。だが、蹴りは浅かったのか、男は少しうずくまるとすぐに姿勢を正し、充血した目でチェンを睨んでいた。
「クソがぁっ!!」
そして何度もチェンに向かってナイフを振りかざしたのだった。チェンは目を見開きそれらをかわして居た。
「死ね! 死ね!!」
「や、止めて!!」
茉莉花はようやく力の入った足で立ち上がった。だがその足は小刻みに震え立っているのがようやくだった。
「お前! シルヴァーニの娘なら、死なないよなぁ!? 手足切り離してもいいよなぁ!? 生きてりゃいいんだ。そうだよ! 生きてりゃいいんだ!」
男は笑顔でぶつぶつとチェンに対しそう言った後、腹を抱え笑い出した。
「何なの……。チェン、逃げよう」
茉莉花は震える体に必死に命令を下し、チェンの腕を取った。チェンは茉莉花を驚いたような目で見た後、掴まれた茉莉花の手をそっと離した。
「どうして……!」
「私が時間を稼ぐので、奥様は人気のある場所へ」
「ダメ! 一緒に行こう! わ、私のせいでチェンを危険にしたくない。早く逃げよう!」
茉莉花はもう一度チェンの手を掴んだ。その時男が笑うのをピタッと止め、茉莉花を真っ直ぐに見つめた。茉莉花はその視線に身震いし、息をすることも出来なくなるような威圧感を覚えた。
「お前、誰? ん? そういやぁ、シルヴァーニの娘ってチェン? そんな、名前じゃなかったはず……。えっと、えっと、何だったっけな……? ああ、そうだ。マリ、何だっけ? マリア? マリー? マリジア? 違う。確か東洋人で、えっと……。『マリカ』とか言う名前だったんじゃ……」
茉莉花とチェンを交互に見た男は眉間に皺を寄せ、舌打ちをした。
「俺を騙した……? まさか? そんな事しないよなぁ!?」
茉莉花は男の大声に止まっていた様な時が動かされ、息を吸いこんだ。何度も浅く呼吸をし、茉莉花は額に汗を浮かべた。チェンは額に皺を浮かべていた。
「そっちが、マリカなのか!? 俺を騙した!! 許さねぇ!! お前ら二人とも八つ裂きにしてやる! 切り刻んでそっちの女だけあのジジイの前に連れ出してやるよ!!」
茉莉花にナイフの先端を向けた男は厭らしい笑みを浮かべていた。茉莉花はまた恐怖に支配され、立ち上がった足はすくみその場から動く事が出来なくなった。そんな茉莉花に向かい男は足早に近づきナイフを高々と上げた。チェンはもう一度茉莉花を押し、地面に倒すと、男を睨み立ち向かっていった。
「邪魔すんなよ! お前も後で切り刻んでやる!!」
そう言った男はナイフをチェンに振りかざした。チェンは覚悟を決めた様に強い眼光で男を睨むと、ナイフを持つ男の手を強い力で握った。男は少し顔を歪め、握られた手を離そうとチェンを蹴った。
「チェン……?」
茉莉花は目の前の光景を目を見開いて見つめていた。茉莉花の瞳には色が映っていなかった。モノクロの映像の中、声や音がくぐもって聞こえていた。全てがスローモーションの様だった。茉莉花は恐る恐る自身の頬に手を当て、その温かい液体の感触を確かめた。手を頬から離し、目に映した茉莉花には、それだけが鮮やかに色を持ち、温かさを持ち、茉莉花に恐怖を植え付けたのだった。瞬間茉莉花は現実を捉え大きな声で叫んでいた。
「いやぁー!!!! チェン! チェン!!」
涙を流し尻餅を付きながらも後退った茉莉花を男はニヤニヤと見つめていた。チェンの腹部には深くナイフが突き刺さっていた。それでもそのナイフを離すまいとチェンはナイフを掴む男の手を握りしめていたのだった。男は茉莉花の叫び声を聞き、チェンに興味を失ったのかナイフから手を離し、チェンを蹴り茉莉花へと近づいた。
「奥様、逃げて……」
チェンは息も絶え絶えに茉莉花にそう呟いたものの、茉莉花は腰を抜かし目の前の男を怯えて見つめていた。
「やだ! 来ないで!!」
怯える茉莉花をニヤニヤと笑みを張り付け男は見下していた。そして茉莉花の目の前でしゃがむと、茉莉花の顎を掴み頬を舐めた。
「ひっ!」
「あったけぇなぁ。あの、女の血。いい味だなぁ……」
茉莉花は涙を流していた。頬に着いたチェンの血を男は美味しそうに舐めたのだ。茉莉花は恐怖に震える中、叫ぼうとしたが声が出ずに居た。
「お前はどんな味がするんだ?」
男は厭らしく舌なめずりをした後、茉莉花の目を見た。
「甘くて濃い味か? なぁ?」
そして茉莉花の首に手を掛け力を込め始めた。茉莉花は力の入らない手で必死に首元の男の手を外そうとした。だが男はそれすらも楽しいのか笑い、茉莉花の首に爪を立てた。
「っ!」
痛みに茉莉花は顔を歪めた。男は茉莉花の首から手を離すと爪に残った茉莉花の血を舐めだした。茉莉花は喉を押さえ堰込みながらもそれを見ていた。
「分かんねー。分かんねーなぁ! こんなちょっとの血じゃ分かんねーよ! ああ! くっそ! あの女! ナイフ!!」
男は頭を掻きむしり喚き出した。恐怖に震えながらも茉莉花は必死に逃げなければと自分に言い聞かせていた。
「逃げんなよ! お前は連れてかなきゃいけねーんだよ! 俺の正しさを証明しなきゃいけねーんだよぉ!!」
男は後退った茉莉花の手を強く掴んだ。
「いたっ」
「痛いのか!? 痛いのか! おもしれー。お前は帰ってから八つ裂きな! 決定」
茉莉花は無理矢理男に掴まれた手で立ち上がらされた。体はまだ恐怖に支配され震えている。男を震える瞳で見つめていた。
(やだ……。ダメ、まだ、死にたくない!!)




