鳥籠の持ち主 2
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茉莉花は特にやることもなく一人、部屋でぼーっと過ごした。部屋の中には暇を潰せるものが何もなかった。部屋の中どころか、この屋敷にはテレビやラジオすらなかった。新聞はもちろんの事、雑誌などの娯楽誌も無かった。何かしたくても何も出来ないのだ。話せる相手の一人も茉莉花には居なかった。
使用人達はいきなりやって来た茉莉花にどこか冷たかった。皆ベルナルトの言いつけに忠実だった。茉莉花が衣服や食事を拒否しようと、旦那様の命令だ、と皆口を揃え茉莉花の意見など聞きはしなかった。茉莉花は孤独をひしひしと感じていた。
扉がトントンとノックされ、ソファに座ったまま茉莉花はそちらに目をやった。鍵をかけても無駄だという事が分かった時から、茉莉花は鍵を掛けようとはしなくなった。
扉は開かれベルナルトが姿を現した。
「起きているなら返事くらいしたらどうだ?」
「……すみません」
「茉莉花、食事にしよう」
「いりません」
「昼食も食べていないそうだな? 私は食べるように言った筈だ」
「……」
茉莉花は膝を抱えて顔をうずめた。
「どうした? まだ具合が悪いか?」
ベルナルトは心配そうに茉莉花に近づいた。
「……食べたくない」
「……はぁ、君の好きな食べ物は何だ?」
茉莉花はそっと顔を上げるとベルナルトを見た。
「君が食べたくなるものは何だ? いつも君はどんな物を食べていたんだ? 祝いの日には何を作ってもらった? 何に喜んだ?」
「……特にないです。嫌いな物も好きな物も。お祝いの日なんて、ありませんでした」
「? 誕生日は? クリスマスは?」
「自分の誕生日なんて知りません。クリスマスだって家は祝う習慣は無かった。お父さんはそういう事には無頓着でした。……貴方みたいに毎日食べる事に不自由しない人には分からないんでしょうけど、私達はその日食べるのがやっとだったんです。好き嫌い何て言ってられない」
茉莉花はまた顔を膝にうずめた。
「……」
「お父さんは体が悪くて、最後は家から出る事も出来なかった。私が代わりに身の回りの事全部して、でもお父さんを置いて遠くに働きに出る事も出来なくて、毎日町の人のお手伝いをしてました。そうやって食べ物を別けてもらったり、畑で取れる少しの野菜を売ってようやく生活出来ていたんです。お父さんは少ない貯金を必死にやりくりして、私を育ててくれたんです。私が居なければもう少しマシな生活もできたのに、それでもお父さんはみなしごの私を育ててくれたんです」
茉莉花は膝を強く抱えた。ベルナルトは茉莉花の横に腰を下ろした。
「シルヴァーニ氏は良い父親だったのか?」
茉莉花はこくりと頷いた。
「小さい頃、お父さんに引き取られて、どうしてお父さんに引き取られたのか全然覚えていないですけど、でも、その時ロシアの食事に慣れなくて……。全然見たことのない食べ物ばかりでした。味も慣れないものばかり。お父さんは困っていました。お腹は空いているのにあまり食べられない。今もあの時に似ています」
「その時はどうした?」
「覚えてないですけど、毎日お父さんが違うものを作ってくれて、気づいたら普通に食事していました」
ベルナルトは眉を寄せて茉莉花を見ていた。黙った茉莉花に手を伸ばし自身に引き寄せるように肩を抱いた。
「離してください」
茉莉花は顔を上げベルナルトを見た。ベルナルトの体を押し返したがベルナルトはピクリともしなかった。
「抵抗したいなら食べる事だな」
「……」
「元々細いんだ。それ以上痩せても良い事はない。一緒に食事をしよう?」
「……貴方とは一緒に居たくありません」
「食べないことは私への抵抗か?」
「……そうかもしれませんね」
その言葉にベルナルトは顔をしかめた。
「そんなに私が嫌なのか?」
「どう考えたら嫌じゃないと思うんですか?」
「何が気に食わない? 私は君に不自由はさせていない。食事も着るものも、この部屋だって」
「そういうのです! 貴方は何も分かってない! いつ私が綺麗な服が欲しいって言いました? 豪華な食事がしたいって言いました? いくら豪華でもこんなところに来たいなんて言っていません。閉じ込められて嬉しいなんて思う筈ありません。貴方は私を人形か何かだって思ってる……。そう言うの嫌。私は人形じゃないし、貴方は自分の為に私に良くしているつもりなんです!」
「事実良くはしているだろう? ……もういい、食事にするぞ」
ベルナルトは機嫌を悪くしたように眉を寄せると、立ち上がり茉莉花の手を握り歩き出した。
「離してください……! いらないって言ってるのに!」
「俺に逆らう事は許さない。今日こそは食べてもらう。医者は何も問題はないと言っていた。君の問題だ。さっさと解決しろ」
「私に問題は無い! 問題なのは貴方よ!」
茉莉花が騒ぐのもお構いなしにベルナルトは茉莉花を引きずり、食堂の椅子に座らせた。
「今日は君が食べられるように特別な夕食にした。消化に良い物ばかりだ。味付けも君の為に食材本来の味を生かして作らせた。安心して食べるといい」
茉莉花の前には緑色のスープと茹でて柔らかくなった色とりどりの野菜、ヨーグルトやリンゴが出された。茉莉花は眉を寄せベルナルトを見た。
「気に入らなくてもいい加減食べてもらう」
ベルナルトは茉莉花を睨むと自身の食事を始めた。茉莉花は目の前に出された食事を見つめていた。フォークを掴み目の前のニンジンを刺した。震える手で恐る恐る口元に持って行ったが、匂いだけでやはり気持ち悪くなった。皿の上にそれを戻した。
「どうして食べない?」
「やっぱり無理です。気持ち悪い……」
「食べろ」
「嫌」
「医者はきっかけがあれば食べられると言った。これ以上食べる事を止め続ければ、その内本当に胃が受け付けなくなると言っていた。そうなる前に無理にでも胃に入れた方がいいと……」
ベルナルトは立ち上がると茉莉花の横に立った。茉莉花が先ほど置いたニンジンが刺さったままのフォークを手に取ると、茉莉花の口元に持って行った。
「食べろ」
茉莉花は首を振り拒絶した。ベルナルトは舌打ちをすると、片手で茉莉花の顎を押さえ、無理矢理口を開かせた。茉莉花は驚いて目を見開きベルナルトを見た。次の瞬間には口の中にニンジンを放り込まれた。
「っ」
その瞬間腹からこみ上げるように気持ち悪くなった。ニンジンを吐き出したい衝動に駆られた。だがベルナルトにニンジンを口に入れられて、すぐさま出さないように手で口を押さえつけられた。
「んー! んん!!」
「噛め」
茉莉花は必死にベルナルトの押さえつけている腕を離そうとした。だがベルナルトはびくともせずに居た。茉莉花は目に涙を溜めて小さく首を振った。ベルナルトはまた舌打ちをすると茉莉花の顎を動かし無理矢理噛ませた。茉莉花は涙を浮かべたままキュッと目を閉じた。口の中で擦り潰されて唾液と混ざったニンジンをごくりと飲んだ。飲み込んでしまうと気持ち悪さは大分マシになった。ベルナルトに解放され茉莉花は大きく息を吸った。
「う……、はぁ、はぁ」
「食えたな?」
キッとベルナルトを睨んだものの彼は動じた様子も無く茉莉花を見下げていた。
「後は自分で食えるか?」
「嫌! もう食べない!」
「そうか」
ベルナルトは茉莉花を睨むと指をぱちんと鳴らした。すると周りに居た使用人達が茉莉花を取り囲んだ。
「な、なに!?」
「お食事のお手伝いをします」
一人の使用人がそう言うと、他の使用人が二人掛かりで茉莉花を椅子に縛り付けた。
「やだっ! 止めてよ!」
胴体も手首も、足首までも椅子に縛り付けられた茉莉花は暴れる事も出来なくなった。使用人の一人が茉莉花にエプロンをかけ、スープを掬ったスプーンを茉莉花の口に近づけた。茉莉花は口をギュッと閉じ、首を反らせた。他の使用人が茉莉花の後ろに回り頭を、前を向かせた状態で固定し、また他の使用人が先ほどベルナルトがそうしたように茉莉花の顎を持った。
茉莉花は逃げる事も出来ずにただ涙を流しながら食事をさせられた。ベルナルトはその前で涼しい顔をして食事をしていた。
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「お腹は満たされましたか?」
使用人に出されたもの全てを食べさせられた茉莉花は、涙を浮かべその使用人を睨んだ。
「満腹のようですね」
その使用人はそう言うと茉莉花のエプロンを外し、カチャカチャと食器を下げ始めた。他の使用人が茉莉花を縛り付けていた布を外した。ようやく自由になった茉莉花の手首は擦れて赤くなっていた。
「明日からは自分で食べる事を勧める」
ベルナルトは茉莉花の横に立つと茉莉花の腕を取り立ち上がらせた。
「どういうつもりですか……?」
わなわなと湧き上がる怒りを必死に抑え茉莉花はベルナルトの手を払おうとした。だがベルナルトは茉莉花の手をしっかりと握り離さなかった。
「どうもこうも、君に食事を取らせただけだ。飢え死にするつもりだったのか?」
「そうじゃなくて! こんな、無理矢理!!」
ベルナルトは赤くなった茉莉花の手首にキスを落とした。茉莉花は全身ゾクッとした感覚に襲われた。
「無理にでも食べさせないと君は食べないだろう? ……君の綺麗な手が台無しだ」
「離して!」
今度はベルナルトの手を払う事に成功した茉莉花は、自身の手首を擦った。
「もういい。部屋に戻ります」
「送ろう」
「結構です! 付いて来ないで!」
茉莉花はベルナルトを睨むと駆け足で部屋へと戻った。