芽生えていた感情 2
「食事はまだだろう?」
「はい」
「さっきルームサービスを頼んでおいた。好きに食べるといい。そこにテーブルもある事だしな」
ベルナルトはプールサイドに置かれたテラス席を見てそう言った。茉莉花は手を引かれプールの中に足を浸けた。だが足を浸けただけで地面に座り込み動こうとしなかった。先にプールに入ったベルナルトは茉莉花に振り返り手を差し出した。
「おいで」
「……」
茉莉花はムスッとした顔でベルナルトを見ていた。ベルナルトは怪訝な顔つきで茉莉花に近寄り腰に手を当て持ち上げた。
「ひっ!?」
「深くないから大丈夫。それにほら、君の好きな胸板だ。飛び込んで来ていいぞ?」
「む、胸板は関係ありません!」
「それは残念。唯一君が私を好きな場所なのに」
そういい茉莉花をプールの中に引きずり込んだのだ。茉莉花はベルナルトの肩に手を付き困ったようにプールの底を見ていた。ゆっくりと降ろされると、ベルナルトの言う通り顔までの深さは無い物の、茉莉花の身長では肩が浸かるくらいだった。
「私……」
「泳げないんだったな?」
「うぅ、そうです!」
「大丈夫。私が傍に居る」
茉莉花を優しく抱きしめベルナルトは背を撫でた。茉莉花はその事に強張っていた体が解放されるような安心感を得た。そしてゆっくりとベルナルトの目を見つめたのだ。
「あの……」
「どうした?」
ベルナルトは薄い笑みを浮かべ小首を傾げていた。
「今日は観光に連れて行ってくれないんですか? 昨日の埋め合わせは?」
「君の体が心配なんだ。しんどくはないか? どこか痛くは?」
茉莉花はフルフルと首を横に振った。
「そこまでは……。若干だるいですけど……」
「すまない」
ベルナルトは茉莉花の頭頂部に優しくキスを落とし、優しい表情で茉莉花の目を覗き込んだ。
「ベルナルトさん?」
「昨日は驚いた」
茉莉花はみるみる顔を赤らめベルナルトから顔を逸らし、少し拗ねた様にしていた。
「だって……。全然相手してくれないから」
「ふっ」
「何がおかしいんですか!」
「いや、君がそこまで素直になるなんて。だから今日は埋め合わせだ。二人っきり。誰にも邪魔されない空間で過ごそう」
そう茉莉花の耳元で囁き、ベルナルトは不敵な笑みを浮かべ茉莉花から一歩遠のいた。茉莉花は必死に水の中で溺れないように背伸びをしていた。
「きゃっ!? 何するんですか!?」
頬を膨らませベルナルトを見ると、ベルナルトは手で水鉄砲を作り、そこから茉莉花の顔めがけて水を飛ばしたのだ。ベルナルトは面白そうにクスクスと笑いもう一度茉莉花に水を掛けた。
「ちょ、ベルナルトさん!」
茉莉花は仕返しとばかりに両手で水を掬い上げ思いっきりベルナルトに掛けた。ベルナルトも負けじと茉莉花に水を掛け続けた。
そんな事を続けてどちらからともなく止めた頃、二人は顔を見合わせて大きな声を上げて笑い出した。ベルナルトは水で濡れた前髪をかき上げ茉莉花に近づいた。
「私は元来悪戯好きでな?」
「そうなんですか?」
「ああ。子どもの頃は良く父親の車の、タイヤの下に水風船などを置いて驚かせたものだ」
「ベルナルトさんも案外普通の子どもだったんですね?」
クスクス笑う茉莉花の腰を引き寄せ、ベルナルトは水で張り付いた茉莉花の前髪を避けた。
「君が思うほど変わった人生なんて送ってない。普通だ。だからそんな事で壁を感じないでくれ」
「そんな事思ってませんよ? ただ変な人だとは思ってますけど。それに金持の嫌味を言う人だと思ってます」
「大体にして間違ってはいない。茉莉花、大きく息を吸いこめ。吐き出すなよ」
茉莉花はよく分からなかったが言われた通りそうした。ベルナルトはクスリと笑うと、茉莉花の足を地面から離れるように払い茉莉花を抱きしめたまま後ろに倒れた。茉莉花は驚きベルナルトに抱き付いたまま目を固く閉じた。
ベルナルトを下敷きにして水の中に沈んでいく感覚に茉莉花は怖くなった。水の外に出ようと足掻いたが、背中に回されたベルナルトの手に優しく擦られ足掻くことを止めた。ベルナルトに抱きしめられ水の中でベルナルトの心音が聞こえるほど、耳を彼の胸板に当てた茉莉花は安心していた。初めて水の中に居る感覚を純粋に感じ取れた。
「ぷはぁっ……!」
ベルナルトに抱きしめられたまま水面に顔を出した茉莉花は大きく息を吸いこんだ。
「そんなに怖いのか?」
「だって……!」
「何かされたのか?」
「……小さいとき、村の子に池に落とされて、私体が小さかったから足も付かなくて必死に足掻いて助けを求めたのに、それをみんな笑ってて……。結局自力で岸に這い上がったんですけど、それ以来水に入るのが怖い」
「いじめられていたのか?」
茉莉花はこくりと頷いた。
「だってこの見た目だし、名前もやっぱり変だし、小さい時は良くからかわれてました」
「君はこんなにも愛らしいのに。君のお友達は見る目が無かったようだな?」
茉莉花はベルナルトから目を逸らし真っ赤な顔で頬を膨らませていた。ベルナルトはクスリと笑い、茉莉花の両手を引っ張った。
「私が泳ぎ方を教えてやろうか?」
「え、え……」
「ほら、足をバタつかせてみろ」
ベルナルトに両手を引かれ足を地面から離した茉莉花は急に不安な顔つきになり、掴んだベルナルトの手に思いっきり力を込めた。言われた通り足をバタつかせ、ベルナルトに水の中で手を引かれ進んだが、目はキュッと閉じたままで、息も止めたままだった。
「……顔ぐらいあげられるだろう?」
「うっ、はぁ……! 無理です!」
「才能の問題だな」
地面に立った茉莉花は顔の水を払った。ベルナルトは諦めた様に茉莉花を見ていた。
「お腹空きました。喉も渇いた」
茉莉花は拗ねた様に零し、さっきから小さく鳴っていた腹を押さえた。
「水は体力を奪うからな。無理をさせたか?」
「ううん。楽しかったです」
「そうか。もうすぐルームサービスが届くと思うんだが」
ベルナルトはそう言うと茉莉花の腰を持ち上げ、浮かんでいた大きな浮き輪にそっと茉莉花を座らせるように入れた。茉莉花はびっくりして目を大きくしていた。
「あ、でもこれ気持ちいいかも。プカプカ浮かんでる感じ」
茉莉花は頭を後ろの浮き輪に乗せ空を見上げていた。見上げた空は綺麗な青色に白い雲が浮かんでいた。ベルナルトは茉莉花の入っている浮き輪に腕を置き、その上に顎を付いて茉莉花を見ていた。
「茉莉花、後でビーチボールで遊ぼう。買ってきた」
「水着とか買いに行ってたんですか?」
「ああ。君は疲れていると思ってな」
「……女物の水着売り場に?」
「ああ。それが?」
「……度胸有りますね?」
ベルナルトはキョトンとした顔で茉莉花を見ていた。茉莉花は苦笑いを浮かべていた。
「店員はすぐに親切に色々教えてくれたぞ? 君が小柄だと言うと色々な商品を勧めてくれた。結局それにしたんだが、かなり迷って時間が掛かった」
(ああ、忘れてた。この人イケメンだからなぁ……。不審な目を向けられるよりもそれどころか魅了しちゃうんだ)
茉莉花は溜め息を吐きもう一度空を仰ぎ見た。
(いい天気だなぁ)
晴れた空を見て茉莉花は心を落ち着かせていた。




