鳥籠の生活 2
***
「――莉花。……茉莉花!」
名前を呼ばれる声に驚きながら茉莉花は目を開けた。視界には上品なグレーのスーツを着こなし、眉間に皺を寄せベッドに腰掛けこちらを見つめるベルナルトの姿があった。
「また寝ていたのか……」
呆れたように溜め息を吐くベルナルトを、体を起こし、目を丸くして茉莉花は見つめた。
(鍵、閉めたはずなのに……)
「どうした?」
「鍵……」
「鍵?」
「私ちゃんと閉めたはずです。どうやって……?」
ベルナルトは小ばかにしたように茉莉花を鼻で笑った。
「私はこの屋敷の主だぞ。鍵など好きに開けられる」
茉莉花は驚いて言葉も出なかった。そうだとしても、そう簡単に人のプライベートに踏み込んでくるとは思っていなかった。
「私にはプライバシーも無いんですか?」
「尊重はしているつもりだ。だが君は使用人の呼びかけにも応えず、ずっと部屋に引きこもって居たそうじゃないか? 私の呼びかけにも応えなかった君が悪い。こんな時間まで一人で何をしていた? ずっと寝ていたのか?」
茉莉花は辺りを見渡した。カーテンの隙間から差し込む光は赤く、日が沈んでいるようだった。
「いつの間に……」
「まだ疲れているのか? 体調が優れないのか?」
「そういう訳じゃないですけど……」
「ならどうして食事も取らない?」
「……お腹空いていません」
「昨日からろくに食べてもいないだろう?」
「でも、空いてないんです! もう放って置いてください」
茉莉花はおもむろに立ち上がりベルナルトに背を向けた。
「何処に行くつもりだ?」
ベルナルトの問いかけに茉莉花は唇を噛みしめ佇んだ。全て見透かしたような口調に茉莉花は腹が立った。
「何処にも行く場所はないだろう? 敷地は好きに歩き回っていいと言っておいた筈だ。それなのに、君はこの部屋の外に出る事さえ出来ないんじゃないか?」
茉莉花と同じく立ち上がったベルナルトに肩を掴まれ、体を反転させられた。そのままベルナルトは茉莉花の腰に手を当て自身に引き寄せた。茉莉花は細い腕でベルナルトの胸板を押し、俯いた。
「離してください」
「その服良く似合っている。宝石も」
「こんな、こんな服も、宝石もいりません……! 私の服を勝手に処分したって、どういうことですか!? どうしてそんな事……」
「必要ないだろう?」
「必要です!」
「君に必要なものは全て私が揃える。粗末な服も、安物のアクセサリーも必要ない」
茉莉花は顔を赤くしてベルナルトを睨んだ。ベルナルトは口角を上げ茉莉花を見下した。
「ようやく私の顔を見たな?」
「離してっ!」
力強くベルナルトの胸板を押すと、ベルナルトはあっさりと茉莉花を解放した。茉莉花は一歩引きそれでもベルナルトを睨み続けた。
「食事だ」
「いらない」
「君の為にわざわざフランスから一流シェフを雇った。新しいドレスも新調した。ああ、クローゼットは見たか? 全て君の服だ。好きな物を着るといい」
ベルナルトはクローゼットに視線を動かした。
「いらない! 貴方からは何も貰いたくない! 綺麗な服も、一流の食事も何も欲しくない! もう出て行ってください!」
茉莉花はそう叫ぶと乱れた呼吸を整えた。ベルナルトは茉莉花の言葉に機嫌を悪くしたようにムスッとした顔をした。茉莉花に近寄ると、茉莉花の手を強く握った。茉莉花はビクッと体を震わせながらも、ベルナルトを見上げ睨んでいた。
「いたっ」
「なら……、何も着るな。俺はそれでも構わない。君が俺の前に裸体を現そうがそれはそれで構わない。なんならこの服も脱ぐか?」
「っ!!」
ベルナルトは茉莉花のワンピースに手を伸ばし首元のボタンに手を掛けた。一つ、また一つと外されていくボタンを茉莉花は唇を噛みしめて見ていた。
「キメの細やかな肌だな?」
「止めて! 離してっ!」
茉莉花はベルナルトの手を咄嗟に払った。薄らと頬を赤くさせベルナルトを睨んだ。
「嫌なら俺の言う事に逆らうな。……食事だ。来い」
「嫌っ! 離して! いらない!!」
「ダメだ。来い」
「お腹空いてないの! お願いだから離してっ、一人にして!」
茉莉花の言葉など聞かずにベルナルトは茉莉花を引きずるように食堂へと連れて行った。
**
「さぁ食事だ」
茉莉花は諦めた様に不機嫌に仕方なく席に座った。食事を前に出され、それを眺めていた。茉莉花にはよく分からなかったが、小ぶりの見るからに柔らかそうな肉や、香草と共に焼かれた魚、その他の鮮やかな料理はとてもおいしそうだった。
だが茉莉花はそれらに手を付けることはしなかった。水だけを口に含んでいた。不意にベルナルトの舌打ちが聞こえた。茉莉花がベルナルトに視線を向けると、ベルナルトは睨むように茉莉花を見ていた。
「何故食べない?」
「食べたくありません……。お腹空いてないから」
「……食え」
茉莉花はまた体をビクつかせた。ベルナルトの低く威圧感のある声に気圧されたのだ。それでも首を振り食事を口にしないでいると、もう一度もっと高圧的に冷たくベルナルトに食べるように言われた。
茉莉花は仕方なくフォークを握り、食べられそうなものを探した。茹でられた柔らかそうな白いカブを刺し、恐る恐る口に入れた。口に入れた瞬間に茉莉花は目を見開きフォークを地面に落として、手で口を覆った。そのまま席を立ち、慌てて洗面所へと駆けだした。
「うぇ……! ぐっ……ぅ」
胃の中がひっくり返るようだった。カブを口に入れ、カブ特有の苦さを感じ取った途端、茉莉花はとてつもなく気分が悪くなった。こみ上げてくる様なムカムカとした感じに耐えられなかった。その感覚は昨日よりも酷い物になっていた。昨日はかろうじて水で流し込めば平気だったのに、今は咀嚼する事すら茉莉花には出来なかった。食事をすることが怖くなった。
茉莉花はそのまま洗面台に項垂れるようにもたれ掛り座り込んだ。乱れた息を大きく深呼吸することで正そうとした。目からは涙が零れていた。
「茉莉花……」
気付けば誰かに背中を擦られていた。茉莉花が振り向くとそこにはベルナルトが、さっきまでとは違い心配そうに優しい瞳で茉莉花を見ていた。
「やはり具合が悪いようだな。明日医者を連れてこよう」
「いらない……」
「では、どうして?」
「分からない。昨日から、食べ物を口に入れると気持ち悪くて飲み込めない……。お腹だって本当は空いてる。でも、食べられないの! どうして何て私にも分からないっ」
茉莉花は黒い瞳からポロポロと涙を流した。ベルナルトはそっと茉莉花の頭に手を添え自身の胸元に抱きしめていた。
「もうやだっ……。家に帰りたい。こんなところで暮らしたく何てない……」
「ここが君の家だ」
「違う! 私の家はロシアの、寒い森の中よ! こんな場所じゃない! 貴方なんていない場所よ!」
「……私の傍がそんなにも嫌か?」
「嫌に決まってる! 閉じ込めるみたいにこんな場所に、無理矢理連れて来られて……。勝手に私の服を捨てられて、訳わかんない……。どういうつもりなの?」
茉莉花は泣き濡れた目でベルナルトを睨んだ。ベルナルトは表情を崩さずに茉莉花を見ていた。
「君の為だ。ここにいる理由が欲しいのか? ならその願いは叶えよう」
ベルナルトは一度茉莉花から体を離すと茉莉花の背と足の間に手を滑り込ませ抱き上げた。茉莉花は驚きベルナルトを見た。
「部屋に連れて行く」
「降ろしてください……。歩けます」
「黙って従え」
ギロリとベルナルトに睨まれ茉莉花はそれ以上の抵抗を諦めた。
「明日は君が食べられるような物を用意する」
「……いらない」
「そう言うな。一緒に食事をしたいんだ」
(それならそうと言えばいいのに……。こんな無理に引っ張って来なくても……)
茉莉花はそう思った自分にふと疑問を浮かべた。
(素直にそう言われていれば、一緒にご飯食べてたんだろうか……?)
ちらりと盗み見たベルナルトの顔はとても整っていた。
(やっぱりカッコいいよね……。鼻は高いし、私と違って目はぱっちりしてて綺麗な青色、輪郭もシャープで羨ましい。それに筋肉質だし。身長高いし……。こんな状況じゃなければ、違う形だったら夢みたいな体験なのに、全然嬉しくない……)
茉莉花は重い気持ちを抱えながらベルナルトの逞しい腕に、身を任せた。