大嫌いな鳥籠の中 1
【9】
「もう帰っちゃうの?」
茉莉花は玄関先で、目の前にいるエドモンドに残念そうにそう問いかけた。
エドモンドがこの屋敷に来て数日間、茉莉花はエドモンドを友人のように思いここに来てから初めて楽しく過ごしていた。そんなエドモンドとも今日でお別れだった。茉莉花はそれを寂しく感じていて、捨てられた子犬のような目でエドモンドを見上げていた。エドモンドは困ったように微笑むと茉莉花の頭を撫でた。
「そんな悲しそうな顔しないで? もっとジャスミンの傍に居てあげたいけど……」
ちらりと茉莉花の後ろに立つベルナルトを見たエドモンドはまたも困ったように笑った。ベルナルトは機嫌が悪そうに口をへの字に結び、茉莉花の後姿越しにエドモンドを見ていた。
「見ての通り、君の夫が嫌そうな顔をしているからね! そろそろ殴られそうだ」
茉莉花はそろりと振り返りベルナルトを見た。
(いつもと同じ。いつも機嫌悪そう……)
「もうちょっとだけ泊って行かない? 私、エドが居てくれると嬉しいな。ダメ?」
お願い、と両手を胸の前で合わせてせがむ茉莉花にエドモンドは首を振った。
「そうしたいけど、でも本当にだめなんだ」
「ベルナルトさんが怒るから?」
茉莉花はまたちらりとベルナルトを見た。ベルナルトは茉莉花が見ている事に気付くと無理に張り付いたような笑顔を浮かべた。
「私は怒ったりはしない」
「ベルナルトさんもこう言ってるよ?」
「だが、エドモンドにも仕事がある」
茉莉花は眉を下げてベルナルトを見ると、がっかりしたようにエドモンドに振り返った。
「ごめんねジャスミン。一度イギリスに戻らないと」
「エドはイギリスに住んでるの?」
「住んでると言うか、今はアトリエがイギリスにあるんだ。そこで絵の修復の仕事を頼まれてるから。基本転々としてるんだ。もうすぐその仕事も終わりそうだし、そしたらまた違う場所で仕事をすることになると思うよ?」
「あぁ、だからあんなに色んな国に行ってたのね?」
「そういう事! 趣味ってのもあるけど、一応仕事もしてるからね! 俺はベルみたいに金持ちじゃないから、働かないと」
「残念。折角お友達になれたのにもうお別れなんて。また来るよね?」
「そうだね、近いうちに……」
エドモンドは茉莉花からベルナルトに視線を移した。ベルナルトは不機嫌そうな顔を正し、真剣にエドモンドを見た。エドモンドはベルナルトにニコリと微笑み掛けると親指を立てた。
「じゃあ、ベルその内に!」
「ああ、よろしく頼む」
「任せといてよ!」
胸を張り自信満々な笑顔を浮かべたエドモンドにベルナルトは溜め息を吐いた。茉莉花は首を傾げながらエドモンドを見ていた。
(絵の事かな?)
「じゃあねジャスミン。今度会う時は美味しいお菓子を持って来てあげよう!」
「本当? ありがとう。待ってるね」
茉莉花は嬉しそうにエドモンドに微笑んでいた。それを見ていたベルナルトは眉間に皺を寄せていた。
ヘリコプターに乗り込み笑顔で手を振るエドモンドを、ベルナルトは少しの笑みを浮かべて、茉莉花は小さく手を振りながら見送った。
***
(どうしよう。やっぱり二人きりは気まずいな……)
エドモンドが帰って数日経った頃、茉莉花は問題に直面していた。ベルナルトと二人になった事に気まずさを感じていた。
茉莉花は今ベルナルトと共に夕食の席についていた。エドモンドが居る間は三人で食事をしていた。エドモンドは話すのが好きなのか、話題が途切れることは無く、彼を中心にいつも盛り上がっていた。だがそんなエドモンドが居なくなってベルナルトと二人きりになると、茉莉花は話すこともなく静かに食事をする事も、屋敷でベルナルトと会う事も憂鬱で仕方なかった。
(実際の所、エドが居なくなるのはこれが嫌だったんだよ。エドと居るのは楽しかったし、ベルナルトさんの事も気にはならなかったし……。あー、エドが居てくれればな……)
茉莉花は小さく溜め息を吐いてフォークを置いた。つい先日までの楽しい時間を思い出していた。茉莉花はベルナルトに依然好感を抱けないでいた。エドモンドが居てもベルナルトは不機嫌そうに顔を歪めていた。かと思えば茉莉花と目が合うたびに取り繕った様な笑顔を向けていた。茉莉花にはそれが不気味に思えてならなかったのだ。エドモンドが言うようにはまだ、茉莉花はベルナルトの事を信じられずにいるのだ。
「茉莉花、食事はもういいのか」
不意にベルナルトに声を掛けられて茉莉花はドキッとし肩をビクつかせた。
「何をそんなに怯えている?」
「別に怯えてる訳じゃ……。ただびっくりしただけです」
「何か考え事か?」
「いえ、別に」
茉莉花がムスッとしてベルナルトを見ると、ベルナルトも顔をしかめて溜め息を吐いた。
「で、食事はもういいのか?」
「はい。ごちそうさまです」
そう言うと茉莉花は立ち上がり自室へ向かおうと食堂の扉に手を掛けた。その後を追うようにベルナルトは立ち上がり、茉莉花が開こうとしていた扉をさっと開いた。
「どうぞ」
茉莉花はムッとした表情で扉を押さえているベルナルトを見上げると、小さく、どうも、と零しスタスタと廊下を歩き出した。
「待て、茉莉花」
「何ですか?」
「送っていく」
「いいです」
「……エドモンドが居る時とは大違いだな? あいつとは随分と楽しそうにしていたな?」
「ええ。エドはいい人ですからね。絵も上手だし、話してても楽しいですし。ベルナルトさんと友達なんて不思議です」
「どうして私にはそう反抗的なんだ?」
「別に、反抗的な訳じゃ……。ベルナルトさんは忙しいでしょ? どうぞ自分の仕事に戻ってください」
茉莉花は横を歩くベルナルトを見ないでそう言った。ベルナルトは不機嫌そうに顔を歪め茉莉花の手を取った。
「忙しくはない。君は私との時間をもっと尊重すべきだ」
「なっ!」
「もっと私に歩み寄ったらどうだ?」
「はぁ!? もう! 離してください! 歩み寄るも何もないでしょう!? 貴方だって私に歩み寄ろうとはしないくせに!」
「それは君が」
「私のせいにしないでください! 歩み寄って欲しいなら貴方もそれなりの態度を取ったらどうなんですか! 私は貴方に歩み寄るつもりなんて無いですから!」
キッとベルナルトに手を掴まれたまま茉莉花は彼を睨んだ。ベルナルトは怪訝な表情を見せた。
「何がそんなに気に食わない?」
「ベルナルトさんの全てです!!」
「そのさん付けを止めろ。私は君の夫だ。もっと親密に接したらどうなんだ」
「命令ばかり……! 嫌です! 貴方の言う事には従いません!」
「エドモンドにはもっと気さくに話していただろう? 私にもそうしろ。君に敬語を使われるのは嫌だ」
「だから命令しないで! エドは友達です。貴方は違う」
「私はエドモンドよりも君に近しい存在だと思っているが?」
「立場的にはね! でも私は貴方よりもエドと居る方が全然いい! 貴方と居ても楽しくない。心も安まらない! 貴方と居ると息が詰まりそうなんです! だからもう離して!!」
茉莉花はベルナルトの手を振り払おうとしていた。ベルナルトは更に茉莉花の手を掴む力を強め、茉莉花の抵抗を阻止していた。
「私よりもエドモンドがいいと言うのか……?」
「そうだって言ってるじゃないですか! もう、離してってば!」
「……」
ベルナルトは表情を歪めると何も言わずに茉莉花の手を引き足早に歩き始めた。
「きゃっ、引っ張らないでください!」
茉莉花は片手でベルナルトの腕をペチペチと叩きながらも引きずられるようにベルナルトの後ろを歩いていた。




