売れない画家 3
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「わぁ、可愛い子」
ページの上には小さな女の子が笑顔で花を持っている絵が描かれていた。
「それは止まった宿の前の公園で会った子。結構仲良くなって俺が滞在してる間何度か公園で会ったんだ。俺が絵を描いてたら興味深そうに見てたから、描いてあげようか、って言ったら被写体になってくれた。その絵をあげるって言ったんだけど、いらないって言われちゃって……。それよりも他の絵が欲しいからってそれを持って行っちゃたんだ」
「本当に絵が上手だね……。今にも動き出しそう」
茉莉花はその絵の女の子の輪郭をそっと指でなぞった。
「ありがとう」
「この子はエドにこの絵を持っていて欲しかったのかもね?」
「そうなのかな?」
「折角仲良くなったんだもん。自分の事覚えておいて欲しかったのかもしれない」
「俺の絵が下手だから貰ってくれないのかと思ってた!」
エドモンドはほっと溜息をつくとソファに背を預けた。茉莉花はエドモンドを見てクスリと笑った。
「エドは絵が上手だよ。私の絵も描いてくれるんでしょ?」
「少しは乗り気になった?」
「うん!」
「じゃあ、君がベルの前でも笑顔を絶やさなくなったらね?」
「それは、先は長いと思うよ……?」
「でも、それが条件だからね?」
「……頑張ります」
茉莉花はエドモンドに苦笑いを向けた。次のページを捲った瞬間に茉莉花は目を見開き、眉を下げて顔を赤くさせた。その次のページを慌てて捲ろうとしたその手をエドモンドに紙を押さえられる事で止められてしまった。
「ジャスミン顔真っ赤」
エドモンドはニヤニヤと笑い茉莉花を見ていた。茉莉花は赤い顔をエドモンドに向けて口をパクパクとさせていた。
「こ、これ!」
「綺麗でしょ? それとも嫌い?」
「そ、そういう問題じゃない!」
茉莉花は依然顔を赤くしたままスケッチブックを閉じようとしていた。だがエドモンドはそれを許さずに茉莉花にその絵を見せようとしていた。
「ジャスミンは初心なのかな? ベルとそういう事まだしてないの?」
「!!」
茉莉花は更に顔を赤くさせ小さく唸りながらエドモンドを睨んだ。エドモンドはそんな茉莉花の態度を気にも留めていなかった。
「ほらちゃんと見てよ? 綺麗な女の人でしょ?」
「やだ! 見ない! エドってば何してるのよぉ!」
「何って、俺も男だからさぁ、流石にジャスミンでもその後は分かるでしょ? 勿論相手も了承済みだよ。そういう約束で描かせてもらった様なもんだから。ついでみたいなもんだね? だからさぁ、描いてる間中ちょっと気が逸れちゃいそうだったけど、でも絵を描くときは真剣だから!」
「そんな事聞いてない! どうでもいい! なんで裸なの!? 普通に描けばいいじゃない!」
茉莉花の膝の上に置かれているスケッチブックのそのページには、裸で自信あり気に妖艶な笑みを浮かべて、ソファに座り肘置きに気怠げにもたれ掛る女性が描かれていた。
「何言ってるの! 裸だから余計に美しいんでしょ!? 見てよこの腰のライン、胸の谷間、今見ても綺麗な人だったなぁ。ジャスミンの絵も裸で描く? その方がきっとベルも喜ぶよ?」
「やだやだ! もうっ、最低!!」
「そう言うなよ? 俺は大歓迎だからね?」
「最低っ!」
茉莉花は赤い顔でエドモンドをまた睨んだ。エドモンドはクスリと笑うと次のページを開いた。
「ああ、これジャスミンの故郷」
エドモンドにそう言われ茉莉花はスケッチブックに目を落とした。それから眉を寄せて困ったように絵を見ていた。
「これって」
「日本。良い国だったよ? これは日本の寺院だね。日本はご飯が美味しかった! 独特の食文化だったけど、思ってたより悪くなかった! ほら見て、スシ」
エドモンドはまたページを捲り茉莉花に大きく描かれた寿司の絵を見せた。
「生魚なんだよね?」
「それがさ! 意外といけるんだよ! あんなに美味しいとは思わなかった! はまりそうだったよ。また行きたいなぁ、日本」
「私、全く日本の事覚えてないから……」
「そうなの? サクラは? 綺麗なんでしょ? 今度行くときはサクラを見に行きたいんだ」
「綺麗、なんだと思う。薄いピンクの花なんだよね? 河川敷とかに植えられてて春になると桜並木になるって聞いた」
「日本人はその下で酒を飲むって聞いた。楽しそうだなぁ」
「そうだね」
茉莉花はエドモンドが描いた日本の絵をペラペラと困ったように見ていた。エドモンドは腕を組み、目を瞑って頭の中で思い出しているのか、うんうん、と言いながら首を縦に小さく振っていた。
(日本ってこんな所なんだ。私はこんな所に住んでたんだよね? 自分の事なのに全く覚えてない。そもそも私はどうしてお父さんに引き取られたんだろう? 本当の両親は私を捨てたのかな……。何か事情があったのかな。それとも私が邪魔だったのかな。お父さんはその事については何も言ってくれなかったし……)
茉莉花は暗い顔をしていた。エドモンドの絵は日本の物で終わっていた。パタンとスケッチブックを閉じ茉莉花はそれをエドモンドに渡した。
「ありがとう。エドは色んな所に行ってるんだね?」
「大丈夫? なんか顔色悪いけど……」
「平気だよ?」
「本当に?」
心配そうに眉を寄せ、顔を覗き込んでくるエドモンドと目を合わせることなく茉莉花は立ち上がった。
「私、部屋に戻るね? 絵を見せてくれてありがとう。楽しかった。じゃあ」
「え、ちょっとジャスミン待って!」
エドモンドの呼びかけも無視し茉莉花は部屋を出るとバタンと扉を閉めた。
***
茉莉花は自室に戻ると備え付けられている小さな冷蔵庫から、ペットボトルの水を取り出しソファに腰掛けるとそれを口に含んだ。ごくりと喉を鳴らして半分ほど一気に飲むと、水を前のローテーブルに置いた。溜め息を吐きふかふかの大きなソファに横になった。白い天井をぼーっと見上げていた。
(私、今まで自分の出生とか全然気にした事無かった。この容姿や名前が嫌だなって思った事はある。でも、それ以上は何も考えた事は無かったな。自分が日本人だなんてそんな自覚持った事も無い。日本がどんな国なのかとか、産みの両親の事とか気にした事なんて一度も無かった。だって私にはお父さんが居たから。家族はお父さんだけで十分だったから。お父さんが私を私として認めてくれていたから、それ以上の事なんて思いあぐねなかった。容姿も名前も気にすることは無いって思ってた。それも含めて私という人間なんだって……)
「はぁ……」
茉莉花は盛大にため息を吐くと自身の頬を両手でペチッと音がするくらいに叩いた。
(そうだ。私は私だ。ダメだな。ここに来てから自分を見失いそう。確かに血筋は日本人かもしれない。でも、日本に何の思い出も記憶もない。本当の両親の事も覚えてない。……私はシルヴァーニ・エゴロフの娘なんだ。貧しい研究者の娘。ロシアのへんぴな田舎に住んでた世間知らずの女。私はただの茉莉花。シルヴァーニの娘の茉莉花。それでいいじゃない。十分だよ。他の人に何言われたって気にする事ないじゃない。私は私。日本人だと言われても日本の事は分からない。戸籍が無いと言われても、新しい戸籍上の名前が茉莉花ではなくても、何も気にする事なんてない。私が私だってちゃんと分かってればそれだけでいいんだ)
茉莉花は口角を上げた。
「そうだよね? お父さん。誰がなんと言っても私は茉莉花・エゴロフ。私のお父さんはシルヴァーニ・エゴロフ。私が持ってるものはそれだけしかないけど、それだけで十分なんだよね? 金銭の貧しさには耐えろ。心の裕福さを大事にしなさい。お父さんの口癖」
亡き父の姿を思い出してクスリと笑った茉莉花の目には強い光が宿っていた。




