鳥籠の中へ 1
【1】
それは二十世紀後半の事。
「ん……」
彼女が目を覚ますとそこは見慣れない部屋だった。ふかふかのベッドは今まで眠った事のある、どのベッドよりも寝心地がいいと思った。部屋は広く、豪華だった。彼女が今いるベッドルームの扉は開け放たれていて、その扉の先はリビングだろう。見ただけでも豪華なソファが置かれているのが分かった。部屋の何から何までを見ても見慣れない、彼女には用途も分からない、だが高価なものだと彼女でもすぐに分かる品々が取り揃えてあった。
(ここは一流のホテルだろうか?)
一流のホテルがどんなものかも彼女は知らないが、雑誌などで見るそれとよく似ていた。
ベッドの中でもぞもぞとしていると壁を叩く音が聞こえた。彼女は音のした方に目を向けた。そこには背の高い二十代後半くらいの男性が、これまた一目見ただけで分かるほど品のいい黒のスーツを、すらっとした長い手足を通し綺麗に着こなして立っていた。先ほど見ていたソファが置いてある部屋から、今彼女が居るベッドルームへと繋がる、開け放たれた扉をその男性は叩いたようだった。男性の顔は少し疲れた様に影が差していた。だがそれすらも彼の端正な顔立ちを引き立たせる演出になっていた。愁いを帯びた綺麗なアーモンド形の目は鈍く光を宿し、彼女をじっと見つめていた。
「ベルナルトさん……」
彼女がそう呟くとベルナルトと呼ばれた男性はゆっくりとベッドに近づいた。
「ゆっくり眠れたか?」
「はい」
「そうか。茉莉花、食事にしよう」
手を取られベッドから立たされた茉莉花は戸惑ったようにベルナルトの背中を眺めながら付いて行った。
***
茉莉花は未だに自身に起こった事を理解できていない。
今日もいつもと同じ時間に目を覚まし、いつもと同じように食事を取り、家事をこなしていた。ただ一つ違ったのは父親が亡くなったという事だけだった。
数日前のその日、茉莉花の父シルヴァーニはいつものように茉莉花が帰宅すると、安らかな寝顔でベッドに横たわっていた。だがその光景は茉莉花に恐怖を与えた。シルヴァーニは表情こそ安らかだったものの、その周りには彼の物と思われる真っ赤な血が飛び散っていた。ベッドにも吐血したのだろう、シルヴァーニの口の周りも胴体も赤く染まり、項垂れるようにベッドから投げ出された手先からは赤い血が滴っていた。その異様な光景に茉莉花は目を丸くし、現実として受け入れられなかった。
何かの冗談だと思い茉莉花は父親の体を揺さぶった。だが父親の体は既に冷たく、乾ききっていない血が茉莉花の手を塗らした。茉莉花は声を出すことも忘れその場に顔を覆って座り込んだ。
その後シルヴァーニの死は自殺と断定され、その遺体は丁重に葬られた。遺言らしきものは何も残されていなかった。
茉莉花は唯一の家族を失い呆然としていた。葬儀の段取りにも手が付かず見かねた隣人が茉莉花を支え代わりに手配をしてくれた。シルヴァーニの安らかな寝顔を見ていた茉莉花は、いつもシルヴァーニに優しくされていた事を思い出し、これでは父親も浮かばれないと自分に言い聞かせ、辛いながらも頑張ろうと奮い立った。父親とのお別れの日、茉莉花は笑顔で土に埋められる父親を見送った。
数日後の今日、茉莉花はその男ベルナルトと出会った。墓参りから帰ってくると家の前には真黒な品のいいスーツに、整えられた髪型、何人もの黒服の男性を連れたベルナルトが居た。茉莉花はベルナルトを、父を偲んで会いに来てくれた人だと思った。
ベルナルトは茉莉花を見るなり目を見開いていた。黒服の男達に何かを言うと、ベルナルトは茉莉花に近寄り手を取った。
「君は誰だ?」
ベルナルトの第一声だった。茉莉花はキョトンとしてシルヴァーニの娘だとそう答えた。ベルナルトは眉間に皺を寄せ、小さく舌打ちすると掴んだ茉莉花の手を離さずに真黒な高級車へ連れ込もうとした。茉莉花は訳も分からず慌ててベルナルトの手を振りほどこうとしていた。だが茉莉花の力ではベルナルトを振り払う事など出来ず、あっけなく高級車に乗せられてしまったのだ。高級車はベルナルトと茉莉花を乗せ走り出した。
「娘が居た何て聞いていない。……言葉は分かるのか?」
「降ろしてください! どこに行くの!? 貴方、父のお墓参りに来た人じゃないの?!」
茉莉花は混乱していた。訳も分からず頭に浮かんだ疑問を喚きながら、とりあえずベルナルトにぶつけた。
「落ち着け。私はベルナルト。シルヴァーニ氏の財産相続者だ」
「財産相続……?」
「君の名は?」
「茉莉花。茉莉花・エゴロフ……です」
茉莉花は財産相続という言葉を聞き少し落ち着き、だが戸惑った様子でベルナルトを見ていた。自分を置いての相続人とは、ベルナルトはシルヴァーニと深い関係なのだろうと茉莉花はそう思った。ベルナルトは茉莉花から目を逸らし俯きぶつぶつと口を動かしていた。
「そうか。茉莉、花……」
ベルナルトは少し詰まりながらも茉莉花の名前を呟いた。
「言いにくかったらジャスミンでもいいです。周りの人はそう呼びます。茉莉花って日本の名前だって。ジャスミンを指す意味があるってお父さんが言っていました」
「いや、君の名前は茉莉花だろう? ジャスミンと呼ぶのは失礼だ」
茉莉花は困惑した表情でベルナルトを見ていた。そんな風に言われたのは初めてだった。日本の名前でからかわれた事はあれど、その名を他人が尊重してくれたのは初めてだった。
突然にベルナルトはカバンから一枚の書類を出し茉莉花に見せた。
「何……? この額……」
「君のお父さんシルヴァーニ氏は多額の借金を抱えていた」
「!? そんな話……」
「私がその額を肩代わりすることとなった。その代りシルヴァーニ氏の財産、彼に関する全ての所有物、権利、……彼の持つすべてを私が貰い受けるという契約をシルヴァーニ氏と生前交わした」
「そ、そんな……。じゃあ家は? お父さんの研究は?」
「全て私のモノだ」
ベルナルトはグイっと茉莉花に顔を寄せると、茉莉花の顎を掴んだ。吐息が掛かるほどの距離で、あと数センチで茉莉花の唇とベルナルトのそれは触れ合うところだ。
「……珍しいな。東洋人だな? 血は繋がっていないな?」
「そ、それが何ですか? 確かにお父さんとは血は繋がっていません」
「へぇ……。彼は私にも君の存在を黙っていたが、君は何なんだ?」
「何って……。私は……、シルヴァーニ・エゴロフの娘です」
ベルナルトは見定めるように茉莉花を見た後、顔を離した。茉莉花は眉を寄せベルナルトを見ていた。
「何処に連れて行くんですか? 私をどうするつもりですか?」
茉莉花は不安な面持ちで声も震えていた。ベルナルトはちらりと茉莉花を見ると冷たく茉莉花に言い放った。
「言っただろう? 契約だ。シルヴァーニ氏のすべては私のモノだ。君も例外ではない。君の居場所は私が提供する。その中からは逃げる事は許さない」
茉莉花は背中をぞわっと何かに駆け巡られた気分になった。
「ど、どういう、事ですか……?」
「私の籠の中で一生暮らしてもらう」
「そ、そんな事!! そんなのできっこない! 私は物じゃない! それに私の事を知っている人は皆、私が突然姿を消したら不振に思う! そうなったら誰かが私を探しに来てくれるわ!」
「私を誰だと思っている?」
今までとは違う冷たい感情の籠っていない目でベルナルトに睨まれた茉莉花は、委縮し唇を噛んだ。
「権力も、金も私にはある。君には何一つ無い物を私は持っている。君一人囲う事など造作もない。安心しろ。悪いようにはしない。今までの様な粗末な生活を君にはさせないことを約束しよう」
「い、嫌だ……。家に返して、ください」
「それは出来ない。あの家も契約の通りもう私の物だ。君が帰る家はもうない。それに君ももう私のモノだから、返す気はない」
「やだ……。お父さん……」
茉莉花は目に涙を溜めて俯いた。体は先ほどから小さく震え、その震えは止まらない。
「残念だったな。その父親のせいで君はこうなった。君に父親の借金の返済能力があるなら素直に解放しよう」
茉莉花は堪えていた涙をポロポロと流し始めた。そんなものある筈も無かった。父親との暮らしは裕福な物ではなかった。父は研究者だったが茉莉花にも何の研究をしているのか詳しくは教えてはくれなかった。ただいつも人の為になる、人類の希望になる研究だとそう言っていた。きっと詳しく説明されても理解は出来ないと茉莉花自身思っていた。
その研究は茉莉花とシルヴァーニに富をもたらすことは無かった。土地の安い田舎に住み、進学も諦めて自給自足に近いその日暮らしのような生活を送っていたのだ。
「理解したなら諦めろ。私から逃げる事は君には出来ない」
ベルナルトはそう言うとそっと茉莉花にハンカチを差し出した。驚いた茉莉花はベルナルトを見つめた。何を考えているのか今一つ分からないその表情に困惑しつつも、ハンカチを受け取った。