天の川
私にはかつて妻と娘がいたが、七年前に数ヶ月の別居の末、離婚している。いわゆる性格の不一致と言うやつだ。妻だけが悪いんじゃない。というか、どちらに落ち度があったのか。未だにわからない。
私たちのなれそめはごく平凡なものだった。会社の上司のたっての希望でお見合いをし、最初から何となくウマが合ったのか、結局結婚を決めた。私たち以上にお互いの両親が大乗り気だったせいもある。
想像はつくと思うが、妻の理沙は上司の次女だった。その頃私は商社の営業部におり、理沙はCM制作会社の女性ディレクターだった。一流会社の会社役員の娘でありながら、ディレクターをしているというアクティヴな彼女のその生き方に惹かれたということは確かにあった。結婚が出世に有利に働くという目論見もあった。上司の期待を一身に負っていると言う、並々ならぬ重責を感じたことも確かだが、理沙と言う女は傍目から見ても初々しく凛々しく、清楚で、美しかった。
けれどそれは結婚生活とは別の要素という他なく、新婚生活を始めた我々には期待した通りの現実は訪れなかった。私は寝るところと飯さえ食えればそれでいいという、なおざりな考え方しか持っていなかったし、理沙が結婚生活に求めていた夢や目的と、私自身の結婚へのある意味投げやりな思惑とは噛み合うはずがなく、摩擦はやがて現実の光景として表われはじめた。
男子校出身で大学生時代にたった一度恋愛らしきものを体験したことがあるが、性体験どころかキス一つしたことがなかった私は、その女友達にこっぴどい振られ方をした。どんな仕打ちを受けたか。もう二度と思い出したくもない記憶である。
十日ほど彼女に逢えない日が続いたので、ある日逢いたいと電話をかけた。幾度かけても留守電だったから、気になって彼女のアパートに行った。ドアには鍵がかかっていた。呼び鈴を鳴らしても返答がない。合鍵を貰っていたので、入って待とうと思った。中に入ると彼女がベッドで見知らぬ男と二人抱きあって眠っていた。完全に熟睡の様子である。枕元に精液の入ったコンドームが三つきれいに並べて置いてあった。なるほど。そういうことか。ぼくは何も言わずに部屋を出て行った。合鍵は途中の橋の上から川へ投げ捨てた。女なんかもうたくさんだと思った。彼女にはその後二度と逢わなかった。
以来女性に接するのが大の苦手となり、また女性社員のセクハラの指摘にも敏感になっていたから、女性との必要以上の接触を拒むようになっていた。言わば典型的な女嫌い、なのである。
男女完全隔離政策を実行する都市を作ってほしい。そう切実に思ったこともある。
というか、もはや現代において男性には女性はまったく必要ないから、彼らはみな死んでくれて構わない。死ねばいい。そう強く願ったこともあった。そんな若かりし頃の〈心の闇〉のようなものを、私は確かに引きずりつづけていた。理沙がそれに気づいていたかどうかはわからない。けれども、私の性格に、ひどくネガティヴな一面があることを、恐らくうすうす察してはいただろう。もちろんそれは〈マリッジ・ブルー〉などというちゃちな問題ではない。女性はみな死ねばいい、などと考える男性が結婚に踏み切る矛盾。わかった風な口を利けば、その矛盾こそが私の人生において最大の解き明かすべき問題であった。
そもそもの結婚生活の始まるにあたってのことであったが、理沙の父親である私の上司は、結婚したら理沙に家に入ることを命じたのであるが、理沙がそれを肯んずることはなかった。頑として働くことを望んだ。働けないくらいなら結婚もしないと言い放った。彼女の結婚への第一条件が、働かせてもらえることだったのだから、私もそれを渋々納得した上で結婚に踏み切ったのである。それほどに彼女は仕事に生き甲斐を感じていたし、誇りを持っていた。それが彼女のアイデンティティであった。つまり、私の結婚への展望に少し判断の甘さがあり、出発点から間違っていた、と言えば言えたのかもしれない。
かねてから理沙とはすれ違いが多かった。私の出世に正比例するかのように、理沙の職場における地位もぐんぐんと上昇していった。腕のいいディレクターだったので依然として自らCMの演出もしていたが、総合プロデューサーの役職にも就いていた。また次々に仕事の依頼が入り、忙しいようだった。私の仕事も同様に、殺人的に多忙を極めた。婉曲な意味で理沙は私のよきライヴァルと言えば言えたが、互いに互いの仕事を尊重し合っていたかどうか怪しいと思う。彼女は私の良き人生のパートナーと言えたのか。そして私自身は彼女にとってどうだったのか。多忙の為に互いを思いやる余裕もなかったし、自分でできることは極力自分でやると言う習慣が、二人には身についていた。依存し合うことがない。また、ともにプライドの高い性格が災いしたと言ったらいいだろうか。あまりに伴侶を思いやる態度に欠けた生活であって、次第に何のために一緒に暮らしているのかという必然性すら希薄になって行った。望ましい方策としては、私の方で努力して彼女を盛りたててやって行けるのならいいのだが、本人には告げずじまいだったけれど、恐らく彼女には私の本心が判っていただろう。それはつまりもともと家庭に入ろうとしない妻が内心不満であったのだから、彼女の望むような好もしい関係が成立するはずもない。それどころか日頃のストレスが募った挙げ句、名目上は分担し合っていた家事、その中で炊事は私にもできることだったが、スケジュール的にそれも無理だったから、妻にやってもらうしかなかったけれど、曜日によって偶数日奇数日に分けて担当し合った掃除、洗濯当番、例えば柔軟剤の量や娘の下着は洗わないことなどを忘れてしまって守らない私や、私の書斎の重要な書類を妻がうっかり汚してしまったこと。そんな、成り行きから夫婦ともにぞんざいにしてしまっている家事そのものの不手際を、非難し合ったことも一度や二度ではなかった。非難し合ったところで状況が改善するわけでもないのに。すれ違いはなおも続いたし、家事そのものも私の仕事がより多忙になるにつれて、物理的に不可能になり、妻の不満は蓄積していっただろうと思われる。よくこんな状態で十七年もの間結婚生活が続いたものだと思う。
互いに不幸な結婚だったのだろう。そして結果的に彼女には私という人間が、私には彼女という人間が、伴侶として不適格であるということが、事実となって浮かび上がってきたのだ。結局結婚生活、どちらが一方的に悪いと決めつけるのは、なかなか難しいものがあるということなのだろう。
最初の内は私も若かったし、表面上当初は仲が良く、多忙な割には性生活もそれなりにあったが、私たちの夜は次第に成り立たなくなり、行きつく先にはたとえ夜をともに出来ても、性行為そのものが行えない現実に直面した。
確かに二人の多忙さは夫婦生活を毀した。ともに過労気味だったということも理由にはあろう。だが肝心なのはそれだけではなかった。要は私が妻に魅力をまったく感じず、そのために男性自身が役に立たない。そしてそれを私たちは多忙のせいにしていた。
いつの頃からか私は、妻に限らず、女性というものに興味を持てなくなっていた。肉体的にも、精神的にも、女性に対して何も感じなくなっていた。
それはEDというよりも、人間的な欠陥のように思われた。妻の顔どころか自分の顔すらまじまじと眺めることが無くなっていた。EDに関しては理沙と二人きりになった時―その頃にはほとんど二人が顔を合わせることも無くなっていたし、日頃から性生活の話題を避けていたこともあり、また、二人ともこういうことに興味を持たない性分であったが―職場の仲間に言われたのか、彼女から医師に相談することを真剣に勧められることがあった。それは私にとって恥辱的なことではあった。却って不能を陰で馬鹿にされているかのようで、その為に妻に対して「切れて」しまうこともあった。それは私たちにとって初めてのDVであった。
そして二人はお定まりの全くのセックスレス夫婦となった。それだけではない。理沙はそうこうするうちに、ベッドを共にすることどころか、同じ部屋に寝ることすらも嫌がる素振りを見せはじめた。鼾や歯ぎしりなどの性癖が私にあったせいだ。そのことで自意識の強い几帳面な私は深く苦しんでいたが、彼女の苦痛はそれ以上だったのだろう。やがて深夜の帰宅で起こされたくないからと、結局寝室も別になっていた。
また、自分の個人的な話だが、私の生真面目と言われた性格では、飲み会に誘われることも皆無に近かった。というか、自分から飲み会の誘いを断る傾向にあった。上司なのだから、部下にポケットマネーを手渡すぐらいはしたが、女などこの世にいなければいい、そう切実に思った大学生時代の古傷の痛みを引きずりつづけていた。という心理的側面も考慮に入れる必要があるかもしれない。
私の忙しい時は家に帰れぬ日もあった。別に意中の女性が他に出来ての朝帰りなどではない。また、朝帰りというより、そういう時私は家に着替えを取りに戻るだけなのだが、要は浮気などする暇も甲斐性もなかったのだ。
そして、長年連れ添っていると、年を経るにつれて互いの許しがたい欠点が見えてくる。娘たちも成長するにしたがい、近親憎悪のような感情を露呈させはじめたし、あの年頃にもかかわらず、無神経な行状も目についた。私用の書斎のミニ冷蔵庫に冷しておいた、好物のプレーン・ヨーグルトを娘らに残らず食べられる、ということもあった。だがそれ以上にショックだったのは妻の仕打ちだった。夜中に疲れ果てて帰って来たというのに、玄関をチェーンロックされることがたびたびあった。その時には私の存在そのものを完全否定されたような、哀しみと冷たい怒りが全身を貫いた。妻の寝室も娘たちの部屋も二階である。最初は小石を放って窓に当てようなど思ったが、小石を探しているうちにバカバカしくなってきた。何故チェーンロックをするような妻をわざわざ起こさねばならないのか。諦めた私はその夜、やむなくカプセルホテルとやらに泊まったが、侘びしいから慰めにコンビニでウィスキーの小瓶を買い、ちびちび飲んでは気分を紛らわそうとしたけれど、そんなことをしても腹の底で感じている感情のくすぶりのようなものは、治まりが効かなかった。
そして冷えきった風呂。帰ってきても沸かし直さないと入れない。その代わりと言っては何だが、気を利かしたのか、自分が飲んだ余りなのか、はっきりしないが、室温に温まった缶ビールがテーブルの上に一缶だけ置いてある。健康を気遣ってくれているのかどうかということすらも判然としない。冬ならまだいい。真夏にエアコンも効いていない蒸し暑い部屋でこれをやられるとまるでぬる燗につけた麦酒を飲んでいるかのようだ。夜中にダイニングのエアコンを付けるのは電気の無駄だと家族に禁じられていたけれど、構わずスイッチを入れて、つかの間の一杯。まあ、生ぬるいのを我慢して飲んでしまう、私も私だが。
また、私の毎日深夜に及ぶ残業のため、次第に夫婦の会話をする機会はほとんどなくなり、夫婦間の、感情のこもらない、事務的な書き置きのメモだけが、いつしか、唯一コミュニケーションと言えるものになった。娘たちとの親子の会話もまた同様だった。それも次第に家族以外には理解不能の奇妙なメモになっていった。例えばこんな書き置きだ。
「焼う 冷」
これは冷蔵庫に焼きうどんが入っているから、勝手に食べろと言う意味。
こういうのもある。
「乳コン!」
これは牛乳がないから、コンビニで買ってきてくれという意味。「!」は命令形を意味する。自分で買ってこい。と言いたいところだが、ミニストップが近くにあるので、徒歩で仕方なく買ってきてやる。コンビニの牛乳は高いからスーパーで買ってくればいいのにと思うが、度忘れしたのだろう。
まあ、そういう事務的でも、どこか人間臭いコミュニケーションらしきものがあるうちはよかったが、次第にそういうものも無くなってゆくようになっていった。
仕事以外に何も取り柄がなかった私は、趣味も何も持ってはいなかった。改まって言われるとびっくりすることだが、長女の美月にいつか言われたことがある。
「お父さんは何が楽しみで生きているの?」
私は咄嗟に答えることが出来なかった。いつの頃からか私は笑ったことがない。泣いたこともない。TVなど観ないから判らないが、感動的なドラマの名場面を観ても、私はたぶん泣かないどころか、恐らくこの代り映えしない表情のままであろう。
自分の現世が深まりを見せるはずであった人生の秋、つまり熟年期にさしかかっていたにもかかわらず、私の中で自分を形作るための何かが確実に失われていったようだった。私は女性に限らず、もはや人間というものがつくづく厭になっていた。味気ない乾いた空気だけを心の中に感じた。また、この世の中の荒廃ぶりを歎いた。
人間嫌いが高じて、こんな国、滅びてしまえばいいと真剣に思っていた。
我が家にもそんな空気を私は持ち込んでいたのかもしれない。恐らく私が家庭内の空気を全く読んでいないと思われたのだろう。ある日妻から突然面と向かって、「悪いけれど、出て行ってくれませんか」と冷たく言い放たれた。その時は別に落胆も何もなかった。ゆくゆくはこんな日が来ることが判っていたような気がする。
妻や子供たちと暮らし、ローン返済を終えたばかりのその一戸建ての家は、残業に明け暮れた私にとって、次第に寝に帰るためだけに存在するようになっていったから、〈我が家〉と言う感覚からは程遠かったのである。私たちの生活とは一体何だったのだろう。
先述の通り、私はかつて仕事人間だった。何というか、自分のような社会のルールにがんじがらめになっていた者にとって、若者や世間の人が言う〈生き甲斐〉〈理想の仕事〉などと言うものは暇人の寝言にしか聞こえなかった。そんなことより出世街道のレールに乗ることの方が重要なのだ馬鹿者。それが判らない者には生涯その価値が判らないのだ。ずっとそう思いつづけていた。それでよかったのだろうか。仕事など悪夢にうなされるほどやった。スピード昇進で営業部次長にもなった。けれどもその頃から私は空虚だった。何もない。何がそんなに空しいのか。何をしていても、空しいことに変わりはなかった。理由を箇条書きにし、推察してみたが、どれも説得力に欠ける答えに思われた。
私の人生の目的は何だったんだろう。まるで受験の目的を持たない受験生が必死に勉強に明け暮れている。その愚かしさを思った。回想してみればそれは私の学生時代そのものであったし、その後の社会人としての人生もそれと大差なかったと言っていい。目的もなく、ただレールに乗っていった。レールの先に昇進が待っていた。金銭的にはいい思いをした。……金銭的には。だから何だと言えば、それだけのことでしかない。それが私の人生であった。
いつも答えの出ない問題に向かう時独特の閉塞感を私は感じた。私の心の上を「重たいもの」が覆っていて、押しつぶされそうだった。言い換えれば、巨大な白い壁が目の前に聳えているようだ。決して越えることのできない白い壁。
人生とはここまで味気ないものにもなり得るのだと言うことが、生きてみてわかった。空虚。T・S・エリオットの詩であったろうか。私はうつろな人間で、頭にはまさに藁が詰まっている。その通りだ。それが私という人間なのだ。
独り身になった私はアパート探しを始め、いろんな物件を見た。資金はあったし、部屋を選ぶのにはさほど悩まなかった。やがて私は家を出てアパート暮らしを始めた。新しい住まいとなったそこは丘の上にあり、町の郊外のベランダのある一階の一室であった。
私には離婚当時、先述した十五歳の美月のほかに十三歳の悠海という娘がいた。が、以後七年間まったく接触がなく、養育費の送金だけはしていたけれど、四、五年して娘だけでなく妻とも一切連絡が取れなくなり、しかも消息すらわからなくなった。彼女の会社に連絡すれば居所はわかるはずだと思ったが、実際連絡を入れてみると、彼女はすでに会社を退社しており、所在を知ることは出来なかった。有能なディレクターだったからよその会社に引き抜かれたのだろうか。その辺もはっきりしない。また、こちらに近況を教えないということは、要は私のことを嫌っていて、あれこれ詮索されたくないということなのか。かつての〈我が家〉には不動産屋の看板が立ち、売却されたことがはっきりした。恐らく彼女は再婚したのだ。そのことを私に知られるのが嫌で、娘たちと行方をくらましたのだろう。そんな気がした。それほどまでに厭われる何かが私にあったのだろう。
私が会社を辞めたのはちょうどその頃だった。退職希望者を募っていたので、それに応じたのだ。退職願は快く受理された。円満退社。早期退職を惜しむ声は聞かれなかった。つまり私は会社に望まれる人間ではなかったのだ。デスクのものをすべて片づけ、引き継ぎを済ませた。退社の日、私はどこか胸の閊えがおりた思いであったが、せいせいしたというのと同時に、言いようのない空しさも感じた。もはやただの人に過ぎぬ私にとっての、数少ない友人たちは次々に離れていった。自分の取り柄というものが、肩書とともにあったのだということがこれではっきりした。結局自分とは何だったのか、その種明かしをされたような気がした。
ともかくアパートでの新生活を始めるにあたって、立地条件がいいので、家賃はそれなりにしたが、その代わり、丘の上の見晴らしは最高であった。ベランダの右手には雑木林があり、また西南の方角には遙か彼方の海と半島が一望できた。つまり絶景を遮る障害物が何一つなかったのだった。
遊歩道が随所にあり、散歩に出かける楽しみも生まれた。いつかこんなところに住んでみたいと誰もが思うような、眺めだけで言ったらこれ以上の場所はないだろうと思われた。私は毎日ベランダに出て、外の風景を眺めて暮らした。もう二度と働きたくはなかった。
ある日、庭のベンチにひとり珈琲を飲んでいると、植え込みをくぐり抜け、よその猫が入ってきた。三毛猫で可愛かったし、近くへ寄って来たので撫でてやろうと思ったが、猫は入って来るなり、私を見て身構えている。そのうち、やにわに向きを変えると、もと来たところをすり抜けるようにして、すごすごと逃げていってしまった。なぜだか判らない。
退職後数ヶ月たったある晩、滅多に行かない居酒屋で飲んだ。外野が酔客の馬鹿騒ぎでうるさいから、
「他の客の迷惑だ。黙って飲め」
と言ってやった。たちまち周りは険悪なムードになり、
「何だとこら。おもてへ出ろ」
私は外へ引きずり出され、嫌というほど殴られ、そして蹴られた。警察が呼ばれたので連中は慌てて逃げていった。病院で手当てを受けた後事情聴取をされたが、私はなぜこのような騒ぎになったのか何も覚えていなかった。結局居酒屋の女将の証言があって、私自身出来事の顛末を理解したし、刑事も事情が吞み込めたようだが、
「酒場には酒場のルールがあるだろう。それにあんたも立派な社会人で大人なんだから、店に迷惑掛かるようなことは慎まねばいけない」と逆に説教される羽目となった。しかし、すべてを思い出したこの期に及んでも、私は間違ったことはしていないと思った。悪いのはあの連中なのだ。
翌日の晩、験直しにこの店で飲み直そうと思ったが、生麦酒を頼むと、カウンターにドンと音を立ててジョッキを置かれ、小さなメモを渡された。メモにはこう書いてあった。
「もう来ないでもらえますか。他のお客に迷惑なので」
つまりは体のいい出入り禁止を食らったのである。その時私は、自分自身をまたも完全否定されたような気がしてならなかった。〈正しいこと〉をしてこんな目に遭うご時世を恨んだ。その時はそれこそ道理が見えないことだと、気づけない愚かさが私にあることに気づかなかった。しかしそう言われても、この年になって生き方を変えろと言われて出来るものではない。私は何もかも厭になった。人生も、人付き合いも。みんな愚劣に見えた。世の中の人間すべてが、〈人間の屑〉に思えた。こんな屑どもの輪の中に居たくない。見れば見るほど反吐が出るようなこの〈下らぬもの〉から逃げ出したかった。
ある日、一念発起と言うほど大げさなものがあったわけではなかったのだが、急に何かを思い立ち、簡単な手荷物だけ持って、家を飛び出した。そして切符を買い、鈍行列車に乗った。幾度か列車を乗り換えた。乗り換えてゆくうちに自分が何をしているのか、どこへ向かっているのか、分らなくなっていった。
それはとうの昔に死語になってしまっている「人間蒸発」に近かったかもしれない。目的なんかなかった。行くあても何もない。旅先で何をするということもない。
それにいまさら現在の自分とは違う自分になんてなれないだろう、自分探しにならないのはわかっている。そんな夢に描いたような道楽に走るには、私は現実の厳しさを嫌というほど思い知らされていた。あんなに眺めの良く立地条件の素晴らしいアパートに暮らしながら、毎日の積み重ねに息がつまりそうだった。どこでもいいから新鮮な空気を吸いたかった。
それは新たな出逢いを求めての旅ではなかった。誰にも逢いたくなかった。他人を見るだけで気が変になりそうな気がした。
車窓から目に入る景色がまったく頭に残らない。それは会社にいた頃から毎日のできごとがそうだった気がする。何を見ても何の感動もない。だから泣きも笑いもしない、よって表情の乏しい顔になってしまうのだ。
私は何が楽しみでこれまで生きてきたのだろう。今となっては、何のために生きているのかもわからない。思えば私は家族に守られていたのだろう。今はつくづくそう思うのだ。その家族というものが、私の前から消えてなくなった今、私にはもう何もない。ニヒリズムと言われても困る。何もないのだから無いと言う外ない。
見知らぬ駅で降りた。気の向く方角、誰もいなさそうな方角へ歩いた。そこは山だった。
山中の林をぼんやりと道筋に沿って歩きながら、何かにわかに心中に閃くものがあって、深い林道の途中から私は山へ分け入った。
特に意味があったわけじゃない。ただ何処かわからない場所で、思いきり迷ってみたかったと言えばいいだろうか。そしてここはそういうことをするには、まさにうってつけの場所であった。生きものの気配がそこかしこに感じられる。何かがいる。樹々は特に鬱蒼と生い茂っているわけではなかったが、空は数日前から曇っていた。暗鬱な天候であった。
森の奥の方が轟々と渦巻くように鳴っているような気がした。何か森全体が巨大な怪物の身体のようでもあった。こんな感覚は妙かもしれないが、私が旅をしに部屋を飛び出してからこのかた、ただの一度も太陽を見ていない。ずっと気にしていたが、私はこののちも太陽を見ることは結局なかった。
もはや自分がなぜ歩いているのか、その動機すらわからない。森が暗くなってきた。日が沈んだようだ。霧も出てきた。しばらくしてそれは一m先も見えないひどい濃霧になった。それでも私は視界が明るいうちは可能な限り歩きつづけた。
足許は何故か深い落ち葉で覆われており、夏草はまったく生えていなかった。一歩一歩確かめながら歩かないとわからないような場所であった。
私は久しく山歩きなどしたこともなかった。にもかかわらず歩いていて、気が急いてならなかった。理由はわからない。何ものかに追われているような気がしていた。後ろから轟々と言う、唸るような音が聞こえてきた。やはりこれは幻聴ではない。耳鳴りにしては異常な重低音であり、幻聴にしてはリアル過ぎる。ほんとうに巨大な生きものの寝息のような、或いは唸り声のような奇怪な通奏低音であった。まさに吸い込まれそうな音。ブラックホールに音があるのだとしたらこんな音だろう。
思い出した。若いころ好きで聴いた、ピンク・フロイドの〈エコーズ〉という曲のエンディングの音。あのごうごうという音そのもののようなぞっとする重低音がずっと耳に鳴り響き続けている。
夜目が利かないほどの真の闇に近かったし、逃げるように必死に先を急いだので、私は当然のことながら、落ちている枝のようなものや、石などにつまずいて転んだ。転ぶたびに起き上がり、また歩き、そして歩く度に転んだ。それでも私は歩くのを止めなかった。
やがて辺りは完全な闇になった。もう自分がどこをどう歩いているのかもわからなかった。霧は霽れそうにない様子だったし、人家の明りらしきものもまったく見えなかった。
私は何をしているのかもわからなくなった。途方に暮れてしゃがみ込んだ。背後から私を包み込むように、山の冷気が忍び寄ってきているのがわかった。服を多めに着込んでいたので寒くはなかったのだが。
ともあれ、結局自分は自ら望んで遭難したのだ。もう引き返しているのか、進んでいるのかもわからない。さっきも言ったように私は何をやっているのだろう。もはや自分のしていることに目的があるのかどうか、それさえもあやふやで判らなかった。
しゃがんでいるのも嫌になったので、私は落ち葉の中へ横たわってみた。横たわるとすぐに眠くなってきた。辺りには濃い霧が出ているし、空は曇っているはずなのに、どういうわけか仰向けになると天の川が見えた。そしてそれを見つめつづけていると星が次々に流れては消えていった。
そのあと、私はどうやらほんとうに眠ってしまったらしかった。
眠りから目が覚めると、やはり闇の中であることに変わりはなかったが、近くに獣の気配がした。何かが牙をむいて唸っているようだった。私はびっくりして飛び起きようと思ったが、身体がぴくりとも反応しない。金縛りになってしまったような感じだった。熊であろうか。山猫であろうか。そのほかの肉食獣であろうか。それはわからないが、獣の身体はひどく臭った。いままで嗅いだことのない、嫌な臭いだった。獣の体温さえ感じられるような、顔にその温かい息がかかるような、ただごとではない物々しさを感じた。
しばらくして肉を喰いちぎるような物音がした。獣が生肉を喰らっているようだった。何の肉であろう。ただ私は仰向けに横たわり、天の川を見ていた。星はなおも流れては消えた。ほんとうに綺麗な星空であった。
そのうち、獣の気配は一頭ではないように思われ出した。二頭、三頭、四頭。あるいはそれ以上の群が争うように肉を喰らっていた。巨大な肉食獣であることは、肉を喰いちぎる大げさな音、そして噛む音、骨を噛み砕く音からも明らかなように思われた。
こんなに大きく物騒な物音がしていて、緊迫した空気の中に身を置いているのに、私は眠くなってきた。目を開けているのがつらかった。そして自分が襲われていないのが不思議でならなかった。ひょっとすると顔以外は落ち葉に埋もれているのかもしれない。そう考えることにした。
眠った。どのくらい眠ったのだろう。腕時計をしていたけれど、腕は動かすことも出来なかったから、いま何時なのか知ることも叶わなかった。
とにかく、まだ夜であることに変わりはなかったようだ。獣の気配はもうない。季節は盛夏のはずであったが、樹々はすでに枯れ果てていた。あたかも晩秋か初冬のようだ。
そうこうしているうち、頬に何かが当たったような気がした。最初それが何なのか判断がつかなかった。雨かとも思ったが、違っていた。雪であった。いつの間にか季節は冬になっていたらしい。奇妙な話だ。身体はそれでも動かなかった。相当な時間が経ったはずだが、頭上に見えるのは曇天などではなく美しい天の川だけであって、満天の星空から降る雪は止む気配すら見せなかったが、どういうわけか私の顔は隠れることもなかった。雪は宇宙から降りつづけているように見えてしかたなかった。そうして天の川を見ているうちに、私はまた眠くなった。
夢を見た。けれども一旦醒めてみると何の夢だったのか、具体的にはまるで思い出せない。ただ、これだけははっきり言えると思うのは、現実と見まがうほどリアルな夢だと言うことだった。
かつて親しかった人が次々に現れて消えたことも確かだった。いい夢か悪夢か。どっちかと言えば悪夢に近かったんじゃないかと思う。どの夢にも共通しているのは、自分が行き場のない袋小路に迷い込んでゆく過程を辿っている、おのれの心的不安を映像化したようなものだったことは確かだった。恐怖感はあった。けれども、未知のものに臨んでいる時の不思議な期待感のようなものもあるにはあった。夢には正直な感情が表われる。私の行く道の先に待っているものがたとえ破滅であろうと、私にはもう恐れる気持ちは無くなっていた。
目が覚めるとずいぶん時間が経過したらしく、雪そのものは止んでいたし、相当あるはずであった積雪もほとんど消えてしまっていたようだった。
春が来たのだろうか。季節の変遷がまるで把握できない。夜なのにもかかわらず、いつかのように再び獣の気配がして、そのあと人の歩いている音がした。話し声がひとしきり聞こえた。犬を連れ、猟銃を持った二人組のようだった。猟期であるということは、……いつだ? 私には狩猟をする趣味もなかったから、猟期がいつからいつまでなのか、知るはずもない。恐らく冬か。何月だ。春先か。
犬が私を嗅ぎつけたような息遣いがした。
「おい、何をしている。獲物はあっちだろ」と二人組のうちの一人が犬を急き立てた。私の存在に気づいていない様子だった。私は助けてもらおうと思ったが、「あ」とも「う」とも声が出せない。何をどうやっても声が出ないのである。そのうち彼らはどこかへ行ってしまい、何の気配もしなくなった。木立を渡ってゆく風の音だけが、いつまでも連綿と続いて聞こえた。
いままで根本的なことに思いが及ばなかったが、それでも疑問に思われて仕方がないことが幾つかあった。
何も食べず、季節が幾つも過ぎて行ったのに、未だ生きているなんてことがありうるだろうか。
それと、仮に自分が死んだとしても、この明確な聴覚や視覚はどのようにして得られているのか、疑問でならなかった。
また、あれから一度も太陽を見ていない。夜が明けない。これはどういうことか。私が既に失明しているということだろうか。だったらあの見事な天の川や、流れ星のことはどう解釈したらいいだろう。
考えても、考えてもわからないことだらけだった。自分はほんとうに死んだのだろうか。死んだとしたらいつ。何故。どのように。それすらもはっきりとは理解できなかった。
しばらくすると雨が降り出したようだった。雨は満天の星空から、止む気配もなく降りつづけた。星明りの中、雨は落ち葉を濡らし、森をしっとりとした風景に変えていった。
だが、もはや身体が濡れてゆく感触はなかった。全身の感覚がない。これが死んだということなのだろうか。それなのに未だ身動きの取れないのはどういうわけなのか。私は肉体を離れ浮遊していてもいいはずではないか。
そんなことを考えているうちに、やがて猛烈な眠気に襲われ、私はまたも眠った。それはもはや昏睡に近い眠り方だった。どうあってもこの眠気に抗うことは不可能に思われた。そしてまた生々しい夢を見た。が、何を見たのか、憶えていない。まったく記憶に残らない、空しい夢ばかりだった。
その後幾度も目が醒めたが、醒めるたびに夜気の中に在る、自分を感じた。頭上には美しく澄みきった天の川だけがあった。そして星が次々に流れては消えた。