野ばら
「もう、こんな時間か…」
夕暮れの道を時折時計を見ながら1人の青年が早足で歩いていた。
「……。」
風を切るように青年は歩みを速くしていく。
「…ん…?」
暫く行くと、道に誰かがしゃがんでいた。姿からして、どうやら女学生のようだ。
(……。)
青年は歩きながら考えたが、良心に勝てず、声を掛けることにした。
「…どうかしましたか?」
「あっ……実は荷物を落としてしまいまして…。」
成る程、彼女の回りには鞄とその中身…そして数輪の薔薇が落ちていた。
「手伝いますよ。」
「ありがとうございます…。」
(……見事な薔薇だな…一体何処に咲いていたものだろう…?)
「…これで、全部ですね?」
「はい…。ありがとうございました。…。」
女学生はお礼を言ったあと、顔をあげた。そして何故か青年の顔を見つめた。
「…あの…?」
「あっ、すみません…瞳の色が…」
「ああ…俺、母がイギリス人なんですよ。…何か…変でしょう…?」
「いえ…!とても…綺麗だと思います…!」
「!……あ、ありがとうございます…。」
「いえ…こちらこそ…。」
「では、俺はこれで…。」
「あ…!お待ちください。」
「男の方にこんなのを渡すのもあれでしょうが…せめてものお礼です。」
女学生は、白い手巾に一輪の薔薇の茎を包み、青年に渡した。
「本当にありがとうございました。」
そして、青年に断る隙を与えず、彼女は去っていった。
「……。」
青年は目を見開き、手中の薔薇を見つめた。
暫しの間、美しい見た目と芳しい香りに我を忘れていた。
「…いけない、急がなくては…。」
青年は優しく薔薇を持ち直し、帰路を急いだ。
「只今帰りました。」
「遅かったな、宗一郎。…ん?何か楽しんできたようだな。」
「…あっ…こ、これは…人助けのお礼にもらったんです。」
「なんだ…堅物のお前にようやく春が来たと思ったのに…。」
「父さん!」
「俺がお前ぐらいのころには女の1人や2人…」
「はいはい、わかりました。」
父の無駄話をさくっと素通りし、青年―日比谷宗一郎は自室に向かった。
「あ…これが丁度いいかな…。」
自室で見つけた白い縦長の陶器に水を入れ、もらった薔薇を挿した。
(……紅薔薇か…不思議と彼女に似合っていたな…妖艶さは無いが…野の中に一輪だけ咲く薔薇という感じだ…。)
宗一郎が目を閉じると、自分の顔を見つめた彼女の顔が浮かんだ。
(…また…会えるだろうか…。)
翌日から宗一郎は外出するときはきれいに洗った女学生の手巾を持ち歩いていた。
勿論彼女に返すため。
だが、数日経っても彼女には会えなかった。
(今日も会えなかったな…。)
更に数日後の夕方…
(…今日もまた…。…もう、諦めた方がいいか…。ん…?あそこにいるのは…!)
「あの…若しや貴女はこの間の…?」
「あっ…あのときの…!その節は本当にありがとうございました。」
(良かった…会えて…。)
「いえ…丁度良かった。…あの…これをお返しします…。」
「まあ…わざわざすみません…。」
「いえ…。そういえば、あの薔薇は何処の…」
「叔母の家で貰ってきました。…庭にある数少ない花のひとつなのに快くくれたんです…。」
「そうでしたか…見事な薔薇でしたね…。」
「ええ…私も素晴らしいと思いました。」
「あ…、あの…不躾ですが名前を伺っても?」
「あっ…申し遅れました。…三角華江と申します。」
「俺は日比谷宗一郎です。…こちらこそ、申し遅れてすみません。」
「日比谷…まさか陶芸家の…?」
「父をご存知なんですか?」
「はい。…母が好んで使うので…。宗一郎様は将来陶芸家に?」
「様だなんて…そう畏まらなくても良いですよ。…ええ、俺は一人息子なので。」
「そうですか。…あっ、では宗一郎さんと呼ばせて戴きます。」
「では…俺は貴女のことを華江さんと呼んでいいですか?」
「はい。」
「…では、華江さん。ついつい立ち話になってしまいましたね。…もし、お時間があるならそこの喫茶店でお茶しながら続きをどうです。」
「そうですね。良いですよ。」
二人は近くの小さな喫茶店へ向かった。
それから二人は時間を忘れて会話をした。
「…ああ、もうこんな時間か…。帰らないといけないですよね?家まで送りましょうか?」
「…では、途中まで。」
薄暗くなった空の下、先程とは違い、二人は始終無言だった。
「…ここまでで良いですよ。」
「えっ、しかし…。」
「父に見つかると…面倒なことになりますので…。」
「…わかりました。お気を付けて…。」
「…宗一郎さん…!また、お話ししましょう?」
「…はい!」
(今日は久々に楽しかったな。…今度はいつになるだろう…華江さんと会う日は…。)
「宗一郎。帰ったのか。」
「…父さん…。」
「珍しいな、お前が帰ったと言わないとは…まさか本当に春が来たのか?」
「違います!」
「いつか聞かせてくれよ。」
「だから…。…はあ…。」
「…すっかり散ってしまったなぁ…。」
宗一郎は以前、華江から貰った、今は茎だけとなった薔薇を見つめていた。
「……。」
しかし、花びらは全て揃っていた。彼は捨てずに取っていたのだ。
(何故だろう?)
宗一郎は自分が散った花びらを大事にしているのを疑問に思っていたが、今さら捨てる気はなかった。
(……何か、華江さんに作ろうか…。)
ふと、そう思い立った宗一郎は部屋を後にした。
父の仕事場に向かうと、出来上がった作品を見つめる父がいた。
(…こういうときだけは真剣な顔してるな。)
「お、宗一郎。何か作るのか?」
「はい。花瓶でも…」
「これへの贈り物か?」
彼の父は笑いながら、小指を立て、言った。
「…違います。」
「…違う!何でできないんだ…。」
「宗一郎…まだしてたのか。…もう夜だぞ。」
「え…もうそんな…。」
「…よほど…その娘に惚れているんだな。」
「……。」
「その気持ちがあれば大丈夫だ。」
「父さん…。」
「ま、取り敢えず続きは明日にしな。」
「は…い。」
(…父さんって、思ったより楽天家で軽い人ではないのかもしれないな…。)
「…宗一郎。」
「?」
「…俺、良いこと言っただろ?」
その言葉に唖然となり、宗一郎は暫し固まってしまった。
(…さっきのこと、声に出さなくて良かったな…。)
一月後…
「…お久しぶりですね。」
「そうですね。」
宗一郎はその日の午後、喫茶店で華江と会っていた。
「あの…華江さん。…これを、貴女に。」
「えっ?…開けてもよろしいですか?」
「はい。」
(気に入ってくれるだろうか…?)
「……まあ、素敵…!」
宗一郎が彼女に贈ったのは自作の白い花瓶。
華美では無いが、上品なものだった。
「…俺が作ったんです。」
「凄いです、宗一郎さん。…ありがとうございます、こんなに素敵なものを…。」
「いえ…気に入ってもらえて良かったです。」
「大事にしますね。」
その後二人は談笑し、時を過ごした。
宗一郎と華江はその後も時々会っていた。
そしていつしか二人が出会った年も暮れようとしていた。
「…今年ももうすぐ終わりますね。」
「そうですね…早いものです。」
「…私、来年の春に女学校を卒業するんです。」
「それはおめでとうござます。」
「ですが…。」
「どうしました?」
「…今でさえ、父が…私が外に出るのを快く思っていないので…卒業したら…もう、今までのように会えないかもしれません…。」
「…そうか…そうですよね…。」
「…私、寂しいです…。宗一郎さんに会えなくなるなんて…。」
「華江さん…。」
「でも…仕方…ないですよね…。」
「……。」
(何故だろう…胸が痛い…もうすぐ彼女に会えなくなるから?…でも、彼女は友人のようなものなのに…。)
「あ…雪。」
「本当だ…。」
宗一郎は雪が降る空を見上げる華江をいつまでも見つめていた。
やがて、年が明けたが、相変わらず宗一郎は胸の痛みに悩んでいた。
「…病気になったかな、俺…。」
「…どうしました?宗一郎さん。」
「…母さん…。」
「悩みでもあって?」
「……もうすぐ、親しい人と会えなくなるんです。…それがわかったときから胸が…痛くて…。」
「……恋をしているのね、その方に。」
「………え?恋?」
「ええ。…彼女のことを思うと胸が痛くなる…でも考えられずにはいられない…そうではなくて?」
「…!」
(ああ…そうだったのか…。)
「図星のようね。」
「どうして…わかったんですか?」
「…貴方の父さんと同じ顔をしていたから…。」
(俺は…華江さんに惹かれていたんだ…薔薇のようだけど決して妖艶ではなく、可憐であどけないところがある彼女に…。…だが、この思いをどうすればいい?…もうすぐ会えなくなるかも知れないのに…どう…すれば…?)
彼が悩んだ末に出した結論は、華江に自分の気持ちを正直に伝えるということだった。
(…だが、気まずくなりたくはないな…最後に会う日に伝えるか…。…情けないな…。恋にこんなに臆病な自分が…。)
その後、宗一郎と華江は数えるほどしかない二人の時間を過ごした。
ただ、宗一郎は口数が少なくなってしまっていたが…
そして…
「華江さん…昨日、卒業式だったそうですね。…おめでとうございます。」
「…ありがとうございます…。」
「…今日が…最後なんですよね…。」
「……ええ…。」
暫く沈黙が続く。
「……。」
「……。」
どのくらい経っただろうか、二人の間を暖かい春風が吹いた時…
「…宗一郎さん…。」
華江が口を開いた。
「…私…来月、嫁ぐんです…。」
「え……」
「…父の…友人のご子息で…家と同じ、華道をしている方なんです。」
「……。」
(な…何か言わなくては……駄目だ…!言葉が出てこない…!…華江さんが…嫁ぐ……。…夢では…無いのか?)
「…宗一郎さん…腕、痛いです…。」
気がつくと宗一郎は華江の腕を掴んでいた。
「っ…すみません…。」
再び、二人の間に沈黙が流れた。
(華江さんが…他の男に嫁ぐ…嘘であって欲しい……!せっかく、自分の気持ちに気づいたのに…!)
「宗一郎さん!?」
宗一郎は華江を抱き締めていた。
「…俺は…貴女を…」
「は…離して下さい…。」
「嫌だ!俺は貴女を…愛しているのに…!」
「宗一郎さん、駄目です…!私は…。」
宗一郎は彼女を押し倒した。
「やだっ、止めて、宗一郎さん!」
彼女の声も耳に入らず、宗一郎は着物に手をかける。
「嫌っー!!」
華江の声は春の空に虚しく響くだけだった。
(俺は何を…!?)
どのくらいの時が経っただろうか…
宗一郎の目の前に映るのは、白い…華江の背中…。
(俺は…華江さんを…。)
「っ…」
宗一郎は華江の着物を直し、腕に抱えた。
「華江さん…。」
彼女の家の近くに来たとき、宗一郎は腕の中の彼女に声をかけた。
「っ!」
彼女は身を強張らせ、宗一郎の腕の中から降りた。
「……あの…。」
宗一郎が口を開きかけたとき…
(え…?)
華江は宗一郎に抱きついた。
「あ…あの…?」
華江は更にきつく宗一郎を抱き締めた後、静かに離れ、その場を去った。
(華江さん…何故?…あれは…同情なのですか?…それとも…。…俺は…貴女を手折ったのに…。…華江さん…。)
一人歩く宗一郎の背後から風が吹いたが、今の彼にはその風が冷たいのか暖かいのかわからなかった。
―時代は変わり、昭和。
宗一郎は父の後を継ぎ、少しずつではあるが世間に名を知られるようになっていた。
「…あ…。」
(今日はお祖父さんの命日だ。…墓参りに行こう。)
「……。」
宗一郎は墓参りを終え、墓地を去ろうとした。
(おや?)
途中、自分と同じく、誰かの墓参りに来たのであろう少女の姿が目についた。
(十二、三くらいだろうか…。…いけない、帰らなくては…。)
しかし、彼が去る前に、少女は宗一郎の存在に気付いた。
「…あの…?」
「あっ、ごめんな。何でもないんだ。」
「そうで…あっ、お待ちください!」
「え?」
「あの…もしかして、日比谷宗一郎様ですか?」
「…そうだけど…どうして、俺の名前を?」
「…三角華江をご存知ですよね?」
「!」
「私は、華江の娘、野嵜華穂と申します。」
(華江さんの…娘!?…こんなところで会うなんて…。)
「あ、あの…華江さんは…。」
「母は…一昨年の今日…亡くなりました。」
「……え…?」
(華江さんが…亡くなった?)
「…宗一郎様。実は母から貴方様にと…。」
そう言うと、華穂は懐から一通の手紙を出した。
「母は…病に倒れたあと、この手紙を書き、いつも肌身離さず持っていて宗一郎様にいつか渡すようにと…私に遺言したのです。」
宗一郎は華穂が帰ったあと、華江の墓前でその手紙を読んだ。
「…!」
その手紙に綴られていたのは、華江の宗一郎に対する想いと…。
(華江さん…。)
宗一郎は手紙を抱き締め泣いた。
(どうして俺は…あの時彼女を手折ってしまったのだろう…もし、想いを口で伝えていたら、未来は変わったのだろうか…。)
その時、暖かい風が彼を包んだ。
その風は、最後に会った日、華江に抱き締められた時の記憶を蘇らせるものだった。
「華江さん…どうか、今暫く俺を見守っていて下さい。」
彼に答えるかのように、優しい暖かい風は再び、彼を抱いた。
「野ばら」完
〜番外編:華江の手紙〜
拝啓 日比谷宗一郎様
貴方がこの手紙を読んでいる頃には、恐らく私はこの世にはいないでしょう。
宗一郎さん、私は貴方と最後に会ったあの日、本当は貴方に伝えたいと思っていました。
…私が貴方をお慕いしていたということを…。
私が貴方への想いを自覚したのは、貴方と出会った年の冬…雪が降っていた日でした。
あの日の夜、私は父から女学校の卒業とともに、今の嫁ぎ先に嫁に行くよう言われたのです。
私は…話を聞いたあと、貴方に会えなくなることを悟り、一人涙したことを昨日のことのように覚えています。
時折、最後に会ったあの日に私は貴方に拐われていたら…と思いもしましたが…娘の華穂を見るたび、その考えは薄れていきます。
何故かというと…いえ、これは書かなくても貴方なら気付くはず。
当初は、貴方のことを恨みもしましたが、あれが…不器用で一途で…愛しい貴方の愛の形だったのですね…。
私は今、死を待つ身となりました。
いつの日か貴方と共に蓮の台で再会出来ること願って、私はお先に逝きます。
どうかこれからの貴方に幸多からんことを…。
私がお慕いした方へこの手紙を捧ぐ
野嵜華江