サヤと俺
俺は待ち続けた。早苗の名刺の店の前だ。アパートに向かったが、早苗が朝帰りでもしたら俺は待ちぼうけをしてしまうと思い直し店へ来た。
深夜。
「俺、何やっているんだろ」
俺は地面に座り込み、空を見上げた。
「何やっているんだろ」
空は曇っている。ネオンが雲に反射してなんだか夜明けにも思える。
「ありがとうございました」
早苗が出てきた。俺はぼんやりと早苗を見た。
「俺、何やっているんだろ」
俺はその虚ろな瞳のまま呟いた。早苗は客を見送る間は気がついていなかったが、店に入る前に俺に気がついてくれた。早苗がまっすぐにやって来た。フレアーのスカートから見える脛が綺麗だった。
「どうしたの」
「お願いがあるんだ。君の部屋で眠らせてほしい」
拓也は策略も飾り気も無い今の自分に驚きながら言った。
「さっきは断ったわ」
「さっきから5時間も経っているよ。1人が嫌なんだ」
「そうね、もうさっきではないわね。あと1時間待っていられるかしら」
「君が一緒に寝てくれると約束してくれるなら待つよ」
早苗は俺に手を差し出した。俺は素直にその手にすがった。早苗は俺を立たせると、駅に向かう道を指した。
「あの角に24時間営業のレストランがあるわ。そこでコーヒーでも飲んでいて」
俺はコクリと頷いた。早苗はふわりとスカートを回転させ店のドアを開けた。早苗は店に入る前に振り返った。
「ねえ、君なんて名前?」
「ミツル」
「じゃあ、ミツル、また後でね」
その夜、早苗と俺はベッドで眠った。早苗が俺の身体をずっと包んでくれていた。俺は2〜3時間熟睡をして目が覚めた。カーテンから朝日が漏れた。
「帰るね」
俺は小声で言い、帰り支度を始めた。
「よかった。ちゃんと帰る場所があるのね」
早苗は眠たそうにベッドの中で欠伸をしながら言った。
「これあげる」
俺が玄関のドアを開けようとすると、早苗が何かを投げてきた。受け止めて見ると、鍵であった。
「いつでもおいで」
俺は無言で頷いた。
早苗のアパートから帰ると、シャワーを浴び、大学に行った。俺は工学部建築設計科の学生だった。建築設計の仕事に就けば彩子さんが喜んでくれるだろうと考えた結果、選んだ学部だ。俺は誰よりも優秀と言われる位置にいたかった。講義は誰よりも集中して受けるようにしていた。今日も、俺は前から1列目の席を陣取り、講義を聞いた。俺は誰よりも講義を理解し、優秀な人間でなければならなかった。……教授の言葉が耳に入るが脳の中枢に届いてこなかった。
「何、俺、どうしたんだ」
まるで音の出ていないテレビのように映像だけが流れ、全く聞き取れない状態だった。
「……ルミ子の犯人、捜すって行ってなかったっけ?」
ミツル、今は講義中なんだよ。出てくるな。
「犯人捜せよ。犯人捜せよ」
講義が終わったら、捜しに行くよ。
「早く、捜せよ。お前がやったことになっちゃうぞ」
……わかったよ。捜しにいくよ。今日は何も頭に入らないし、この講義が終わったら新宿に行こう。猿渡を調べてみるよ。
俺は新宿にやってきた。ルミ子の店の前。今日は扉が閉められ、警察はいないようだった。裏口に行ってみると女がゴミ袋を持ち出てきた。女は数度それを繰り返していた。この店で働いていたサヤだろう。俺は女が帰るのを待った。30分後、女は裏口の鍵を閉めて歩き始めた。後を追うと、すぐ近くのバーに入った。俺も後から入った。まだ、早い時間で、店内に客は少なかった。女はカウンターに座り、バーボンを飲んでいた。俺は女の椅子を1つ空けて隣に座った。俺もバーボンを頼んだ。女は俺に視線を向けたが、すぐに自分のグラスに視線を戻した。俺はバーボンをなめるように飲んだ。
「情けない飲み方ね」
女が突然、話しかけてきた。女は怒っているような顔で俺を見ていた。
「この前、バーボンで記憶がなくなったんでね」
「じゃあ飲まなきゃいいじゃない」
「いや、飲みたいんだ。ある人がバーボンが好きだったから」
「私のママもバーボンが好きだったわ。死んじゃったけど……」
「病気で?」
「ううん。殺されたのよ」
「誰に」
「多分、ママの恋人……」
俺は猿渡が疑われていると思った。ルミ子と俺の関係は誰も知らない。恋人と言えば猿渡だ。
「サヤちゃん、その辺りは喋っちゃだめって警察に言われているんだろ?」
バーテンが話しに加わってきた。やはりこの女はサヤだ。ルミ子が言っていた。サヤは気のいい子だけれどおしゃべりなのと。
「いいじゃない。ママはきっと幸せよ。恋人に殺されたのなら。あの日、ママ、あんなにうれしそうだったもの。オーナーに会う時とは明らかに違う、女の顔をしていたもの」
猿渡ではない! サヤは俺の存在を知っている?
「ママが殺された日に、ママはその恋人と会っていたのよ。絶対」
なんだ、これは! この女がそのことを警察に言っていたら俺は疑われる。
「……それは、この前、ニュースで言っていたスナックのママが殺された事件のことなの?」
「そうよ。店はすぐそこ」
「あのスナックはママとオーナーの猿渡さんが恋人だって聞いた事あるけど……」
サヤは哀しみを秘めた笑顔を作った。
「表向きはね。ママは何か猿渡さんの弱みを握っていると聞いたことがあるわ」
「それは聞いたことがある。ルミ子さんが猿渡さんの弱みを握り、店を持たせたと」
バーテンが小声で言った。俺も聞いたことがあった。弱みが何かは知らないが。やはり、猿渡が怪しいんだ。でも、俺の存在もサヤには気づかれている。俺はバーボンのグラスを掲げた。
「知らない人だが、あなたのママに」
サヤもバーテンもバーボンのグラスを掲げ、そして飲み干した。