早苗と俺 2
今夜も俺は新宿にやって来た。ルミ子のいない街に。あの日を思い出したかった。気を失ったルミ子を置いて逃げてしまった後の記憶を取り戻さなければならなかった。しかし、バーボンを飲んだことは覚えているが、どこの店で飲んだのかがわからなかった。そして、朝、目覚めたゴミの集積所さえ定かではなかった。あの時、そこまで気が動転していたことが悔やまれた。あの日、ルミ子が気を失ったことよりも、彩子さんにこの俺の行動が発覚してしまうことの方が恐ろしかったのだ。なんて男だろう。なんて情けないのだろう。
「ルミ子ごめんよ。情けない男でごめんよ」
俺は呟くと、涙が溢れてくるのを隠すために下を向いた。
「あら、この前の……」
不意に声をかけられて頭を上げると、あの朝に出会った女だった。俺は急いで涙を拭いた。
「この前はありがとうございました」
「ううん、いいの。いなくなっちゃったから、ちょっと寂しかったわ。そうだ、今度お店に来てちょうだい」
女はピンク色の名刺を差し出した。俺はそれを無造作にポケットに入れた。涙を見られたのが恥ずかしかった。
「来る気なさそうね。まあ、いいけど」
「あっ、あの、この前、俺が寝ていた場所ってどこだか覚えていますか?」
俺が聞くと女は口に手を当てて笑い出した。
「覚えていないのも無理はないか。ここよ、ここ」
女は下を指した。俺はその指を追いかけるように下を向き、女の白く長い指を見た。きれいな指だ。そして、女の顔を見直した。目も鼻も口も小さくて整っていた。可愛い女だ。名刺をポケットから出して見た。「早苗」と書いてあった。
「大丈夫?」
「あっ、はい」
「あなた、私の顔を今初めて見たって表情したわ。どうしたのよ。何か悩み事でもあるの?」
なぜか、女の声がルミ子の声に聞こえてきた。女の容姿も声もルミ子とは全く似ていないのにだ。
「顔色が悪いわよ」
女の声が俺を混乱させた。俺は頭を抱え座り込んだ。女の手が俺の前に差し出された。俺は女の手を握った。そして女の身体にすがった。ルミ子、ルミ子。
「大丈夫? また、うちに来て眠る?」
女の声はすでにルミ子の声には聞こえなかった。俺は我に返り、直立した。
「大丈夫です」
女は拍子抜けしたような表情になり、腕時計を見た。
「もう、行かなきゃあ。じゃあね」
俺は女に頭を下げた。
俺は女の後姿を見送りながら、自分の顔を軽く叩いた。しっかりしろよ。充に笑われるぞ。 そして、昨日俺が眠っていたここからルミ子の店までの行程をたどることにした。どこかあの夜の俺の記憶にあるものはないかを探しながら歩いたが、何も見つからないまま店の近くまで来た。店の前には警察官と杖をついた男がいた。
猿渡京一郎、ルミ子の愛人。そして充の父親。
俺は通行人と一緒に店の前を歩いた。その時、猿渡は警察官から目線をはずし、俺を睨んだ。俺は思わず目線を前に向け、気がつかれない程度に足を速めた。彼は俺を知らないはずだ。あの目は俺を見た。俺は動揺していた。振り返らずに歩き続けた。「ルミ子を殺したのはあの男だ」と言われて追ってくるのではないかという恐怖にかられた。俺はひたすら歩いた。結局、誰も追っては来なかった。
俺は一息つき、充に話しかけた。
充、お前の父親が俺を知っているかもしれない。俺がルミ子と付き合っているのを知っていたかもしれない。
「知られていてもかまわないだろう。ルミ子さんはもういない。取り合う訳じゃないだろう」
もし、知っていたなら、猿渡は俺がルミ子を殺したと思うんじゃないか?
「違うんだろ? なら別に心配することはないだろう?」
でも、容疑をかけられたら、彩子さんにも伝わるだろう?
「お前は優等生だもんな。彩子さんには知られたくないよな」
そうだ、だめだ。それはだめだ。
俺は知らぬ間に俺を包んでいる何かを取り外そうと身体中を引っ掻いていた。
「拓也。お前の周りには空気しかないよ。何を取り外そうとしている」
わからない。最近、俺を透明な膜が覆っていて、皮膚や口から空気を吸わせてくれない気がするんだ。なんだろう、とても薄い眼に見えない膜さ。
「お前、彩子さんにすべて本音をぶちまけてしまえ、そうすればいいんだよ」
なんだよ、それ。
「膜は彩子さんだよ。彩子さんがお前を優等生だと思っているという膜だよ。突き破らないとお前は窒息死する」
かまわない。それでも俺は彩子さんの優等生さ。
俺はふと行き交う人々が俺の様子を見ているのに気がつき、引っ掻くのをやめ、手をポケットに入れ歩き出した。そしてポケットの中の名刺に気がつき、取り出した。
「早苗か」
俺は早苗の指を思い出した。今日は誰かといないと全身を引っ掻き続けてしまうだろう。彩子さんはまた出張に出かけた。早苗のアパートは覚えている。早苗はきっと何も聞かずに一緒にいてくれるだろう。俺は早苗のアパートへ向かった。