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至極透明な膜  作者: 多加也 草子
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彩子さんと俺

 どのくらい経ったのだろう。窓から淡い黄色のカーテンを通して西日が入ってきた。俺は目に涙を溜めながら眠ってしまったらしい。女が白いスーツに身を固めて、派手なネックレスをかけていた。

「起きたの? まだ、寝ていてもいいよ。私はこれからご出勤。一応、合鍵置いて行くから、出かけるのならば鍵をかけておいてね」

 女の声は明るい。この女は俺をどうに思っているのだろう。こんなに無防備に俺を受け入れてくれるのか。

「夕ご飯に酢豚を作ったの。ご飯も炊いてあるから、おなかが空いているようならば食べてね。じゃあね」

 女は出て行った。俺は再びルミ子のことを考えた。

「ルミ子を殺した人間は誰なんだ」

 俺は自分を奮い立たせるように声を出した。立ち上がり、女が洗ってくれた服を着ると鍵を持った。酢豚を覘いたが二日酔いで食欲がなかった。俺は酢豚に手を合わせ、女に感謝した。ごめんよ、食べなくて。

 部屋を出ると鍵をかけ、新聞受けから鍵を部屋に落とした。

「さよなら、親切さん」

 アパートを出ると、どこに向かっているのもわからないままに走り出した。

 俺は帰るんだ。俺の場所へ。彩子さんの所へ。そのまま、ルミ子の事も忘れてしまおう。ルミ子の記憶は充の記憶と共に俺の頭の奥へしまっておこう。

 走っているうちに人通りが激しくなり、見たことのある風景が広がった。歌舞伎町だ。俺は走るのをやめ、速足で歩き始めた。駅へ駅へ。この混沌が今は嫌であった。とにかく、帰って眠りたかった。夕方の新宿駅東口は恐ろしい。何かのイベントでも始まるような人ごみだ。俺は何人にもぶつかりながら、駅に入った。人を避ける気力が今の俺にはなかった。階段を降りて改札へ急ぐ。改札を通ると交番が目に付いた。警察官をまともに見るのが怖くて、思わず下を向いたまま、13番線プラットホームに急いだ。プラットホームにはいつものように、停車している満員電車を諦めて次の電車を待つ人々が列を作り始めていた。俺は無理やり電車に体を押し込んだ。発車の音楽が鳴ると共に、4〜5人が俺の入った入り口に押し寄せてきた。前に立った男のギトギトの整髪料が鼻をついた。電車のドアが無理やり閉まった。もう向きを変えることさえ許されないほど、人々の体が俺の体に押し寄せていた。そして右隣の学生らしい男のヘッドホンが耳に収まりきらない音を発していた。


 俺は自宅のマンションの前で立ち止まった。俺の大学進学と共に彩子さんの本社勤務が決まり引っ越してきたばかりのマンションだ。12階建ての3階にある俺の部屋を見上げると、明かりが見えた。彩子さんが帰ってきている! 俺の心は弾んだ。部屋の前で深呼吸を一度して玄関を開けた。廊下の奥のリビングから声がした。

「拓也、お帰り」

「ああ、彩子さん、帰っていたんだ」

 俺はゆっくりと廊下を歩いてリビングに入ると、仕事机に書類や図面を広げている彩子さんに声をかけた。彩子さんが頭を上げて俺を見た。

「現場での打ち合わせがすぐに終わったのよ。明日は朝一で本社で会議があるから、これをまとめないとね」

 彩子さんは建築士で今は地方の温泉地の開発を手がけていた。3日間、出張で留守だった。

「夕飯は駅弁買ってきたからね。そこに置いてあるでしょう」

 食卓の上に釜飯が1つ置かれていた。

「彩子さんの分は?」

「食べちゃったわよ。おなかいっぱい」

 彩子さんは、もう俺に視線を向ける気がないらしい。図面に夢中だ。俺は彼女の仕事の邪魔にならないように静かに釜飯を食べ、俺の部屋に入り、ベッドに横になった。そして、彩子さんが図面や書類を動かすカサカサと言う音を聞きながら、ルミ子の事を思い出していた。ルミ子は天国で充に会えただろうか。会えてもわからないのかな? いや、親子なら会ったことがなくてもわかるだろう。絶対。

「親子ならか」

 俺はそう言ってため息をついた。

 充、充、充。

 俺の唯一の友人。小学5年生のままの少年。彼はずっと11歳のままだ。

「……拓也、……拓也」

 ああ、充。元気か?

「煙草吸おうぜ」

 俺は吸わないよ。

「なんだよ。もう、いいかげん吸えよ。法律がお前が煙草を吸うのを許してしまうじゃないか。その前に吸ってしまいなよ」

 ……充、ルミ子に会ったか?

「なんだよ。ルミ子さんは、きっと拓也お前にしか興味はないよ。ルミ子さんにとって俺なんてどうでもいいのさ」

 お前が捜し出せよ。きっとそっちに行っているはずだから。

「……捜して、捜して、どうしろって言うんだよ。母親なんていらねえ」

 ははっ、抱きしめてもらえよ。ルミ子の胸の谷間に顔を埋めろよ。いい気分だぜ。

「ふん、そう言うお前だって、お袋さんに抱きしめてもらったことなんかないだろ」

 俺はいいんだよ。一緒に暮らしているしな。

「一緒に暮らしているだけだろ。それだけにどれだけの意味があるんだ。当たり障りのない会話をして、お前の本音を隠して、お前はお袋さんが仕事をしているのを静かに見ているだけだ」

 それで俺は十分さ。

「お前は、ずっとそうにやっていい息子を演じ続けるんだろうな」

 俺はいい息子なのかな? 彩子さんがそうに思っていてくれればそれで俺はいいんだろうな。俺は演じているわけではない。演じているわけでは……。

 俺はルミ子を蹴った時の感覚を思い出した。

 俺の本性? あれが本性なのかもしれない。

 俺はなんとも言えない嫌な気分になった。

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