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至極透明な膜  作者: 多加也 草子
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早苗と俺

「痛い!」

 突然、頭をつつかれた。目を開けると目の前に真っ黒な物体が動いていた。カラスだ! 振り払おうと手を動かしたが、思うように動かない。悪臭が鼻をついた。自分の口の中から嘔吐物が流れていることに気がついた。それは、半透明の白いビニルにへばり付いていた。俺はゴミの集積所で眠ってしまったらしい。カラスは俺を残飯と間違えているのだ。虚ろな視界で周りを眺めた。冷たく澄んだ空気が俺を包んでいる。朝なんだ。そうだ、ルミ子から逃げ出し、バーボンを飲んだところから記憶が飛んでいた。ルミ子は大丈夫だろうか。俺はなぜルミ子にあんなことをしたのだろう。また、吐き気がした。しかし、もう胃には何も残っていないらしく何も吐き出せない。虚ろなまま俺はゴミのベッドに埋もれていた。通行人が無言で見向きもせずに俺の前を通り過ぎて行く。

「キャハハ、やあねえ、今日も仕事なんでしょ。帰ってシャワー浴びてご出勤。頑張ってね」

「早苗ちゃんにつき合わされたら、朝までだもんな。そのうち肝臓悪くしちゃうよ、きっと」

「いいじゃん。大きなお世話よ」

 俺の視界に派手なピンク色のワンピースを着た若い女とスーツ姿の男が現れた。女がちらっと俺を見た。その視線が一瞬止まった。俺の虚ろな視線も女を見続けた。男女は通り過ぎた。女は前を向きながら、男の肩に手を置いた。

「じゃあ、またね。また、店に飲みに来てよ。また、朝まで付き合うからさ」

「おう、またな」

 男は手を挙げて、歩いて行った。女は男の姿が角に消えると、くるりと身体の向きを変え、俺を見た。邪を知らない幼児のような視線だった。ふと、女の無垢な表情に重なってルミ子の寝顔が思い出され、無性にルミ子から逃げて来た自分を悔やんだ。俺は最低の人間だ。そもそも、俺は地を這う邪悪な生き物で、美しいルミ子を愛す資格なんてないのだ。そうだ、これでよかったのだ。あの後、ルミ子はすぐに気が付き、俺の醜態を恨むであろう。そして、すぐに俺のことなど忘れるであろう。そう、願おう。俺は酷い人間なんだ。俺の虚ろな視界の中で女はじっと立ち尽くし、俺を見ていた。俺は僅かに起き上がり、女の方へ手を伸ばした。人の温かさが欲しかった。自分の冷酷さを思い知らされた分、人の温かさが恋しくなった。女は笑顔を俺に向け手を伸ばしてきた。俺の手と女の手が触れた。指先に温もりが伝わってきた。俺の目の縁には涙が溜まっていた。

「うちに来る? お風呂に入った方がいいわ」

 女は俺の手をしっかり握り、俺を起き上がらせた。


 女のアパートまで20分以上歩いていたと思う。その間、ぐだぐだとした歩みの俺をしっかりと支え、女は何も話さずに歩いた。アパートに着き玄関に入ると、俺は倒れこんだ。まだ、相当のアルコールが残っていたらしい。女は玄関先で俺の上着を脱がせた。

「まだ酔っているみたいだから、お風呂より寝たほうがいいわね」

 女は俺の目を見ながら笑顔をくれた。熱い濡れタオルで俺の顔を拭い、身体を拭くとベッドに誘った。俺はベッドにもぐりこむと、すぐに深い眠りについた。


 小学5年生の充が立っていた。俺の見たことのない満面の笑顔だ。充はいつだって笑顔の時の目は寂しそうだった。それなのに目まで笑っている。充が手を差し出した。その手を握った人がいた。その人の顔は最初、ぼやけていてよく見えなかったが、次第にはっきりしてきた。ルミ子だ!

 はっとして目が覚めた。充とルミ子は夢だったのだ。ここはどこだろうと辺りを見回し、女の部屋だと理解した。女はいなかった。出かけたのだろうか。俺は起き上がる気力がなく、近くにあったテレビのリモコンの電源を押した。

「先程入ってきたニュースです。新宿のスナックで女性が果物ナイフで胸や腹など数箇所刺され、死亡しているのが発見されました。遺体はスナックを経営している桜ルミ子さんで、出勤してきた従業員が発見したとの事です」

 そんな言葉がスピーカーから流れた。俺の脳みそがその言葉を理解するまでにかなりの時間がかかった。なんて信じ難いことを言っているのだろう。テレビの画面を恐る恐る覗くと、そこには昨夜飛び出したルミ子の店が映っていた。

 

 ルミ子が死んだ! ルミ子が死んだ! ルミ子が死んだ! 

 

 なぜ? なぜだ! 果物ナイフで刺された? 俺か? 否、俺ではない。俺はルミ子を蹴っただけだ。そして、飛び出してきた。俺があそこで逃げ出さなければルミ子は死んでいなかったかもしれない。それとも俺が殺したのか? 俺の記憶は飛んでいる。酔って覚えていないんだ。あの後、店に戻ってルミ子を刺したのか?

 突然、俺の身体がピクッと動いた。そして、ガクガクと震えだした。

「ただいま。あんたの服、洗って乾かしてきたよ」

 女がビニルの袋を抱えて帰ってきた。俺はただテレビの画面を見入って震えていた。どうにも止まらない。ルミ子が死んだんだ。誰かが殺した。女が無言でベッドに入ってきた。俺の横に座り、身体を摺り寄せてきたかと思うと俺を抱き締めた。女の身体が温かい。俺の震えはそれでも止まらないので、女の身体も一緒に小刻みに動く。俺は目を瞑り、上を向いた。ルミ子が死んだ。誰が殺した? 俺か? 女は無言で俺を抱き締めたままだ。俺たちはテレビの画面を眺めたまま、ずうっと、ただぼうっと眺め続けた。

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