ルミ子と俺
新宿……
この街に来ると、まず雑多なネオンが目に入る。そして、人の多さに驚かされる。決して美しいとは言えない街だ。歩道の隅には毎夜繰り返される酔い潰れた者たちの嘔吐物の匂いが染み付いている。この街、否、都会の人間はこの悪臭になんの違和感もないかもしれないが、片田舎から出てきた俺はいつも顔をゆがめてしまう。けれど、俺は何度となくここに足を運んでいた。客引きの男が大勢立ち、ホステスたちが道を急ぐ。その中を大学生の団体は居酒屋にカラオケにと移動し、サラリーマンやOLは顔を赤らめ、千鳥足で楽しそうに歩いている。ワンピース姿の中年の女が寝転がりハイヒールを投げ、わあわあと騒いでいても大抵の人はその横を何事もなかったように通り過ぎる。静かに徘徊する浮浪者はこの街に自然の風景のように溶け込んでいる。
俺がこの街が好きなのはなぜだろう。雑多な景色が好きなのかもしれない。ここには金持ちも貧乏人も、博識者も低能者も、最先端の服を着た人間も、そんなものには疎い人間も歌舞伎町の真ん中を闊歩している。流行しか追いかけられない若者のいる渋谷みたいな街よりも、高級感のある銀座や有楽町の街よりも好きなのだ。
そして、俺がここに来る理由がもう1つあった。俺の唯一の親友だった充の実母で、俺の恋人のルミ子がこの街にはいるのだ。駅を降りて歓楽街を歩いていると自然に俺の歩き方は変わって来る。この街に馴染みきった男を装いたかった。
最終電車の時間で皆が駅に向かっているのとは逆方向に俺は歩いていった。酒の力で高揚した雑踏の中に身を置いていると俺の心も高揚してくる。途中でルミ子に携帯電話で連絡をした。「もうすぐ来られるのね。うん、もう皆は帰ったわよ」俺はルミ子の明るく響く声を聞くだけで笑顔になってしまう。17も上の女の身体に溺れるとは自分でも不思議であった。彼女の白く豊満な胸が脳裏に浮かび、俺は足を速めた。ルミ子がやっているスナックは、通りから少し横道にそれた歓楽街の中では静かな場所にあった。ステンドガラスが入ったドアをノックすると、いつものようにルミ子の笑顔が出迎えた。俺は中に入ると彼女を押し倒した。
「いやよ。来たばかりじゃない」
彼女は軽く抵抗するような素振りを見せるが笑顔が俺を受け入れていた。赤いカーペットの上に倒した色白の肌のルミ子は美しかった。俺は優しく彼女の首から右肩にかけて口唇を這わせた後、彼女の顔に視線を移した。彼女の潤んだ瞳が俺を求め、彼女の口元からはチラチラと真っ赤な舌が見え隠れした。俺は堪らず彼女にしゃぶりついた。激しい愛撫で近くにあったテーブルや椅子の脚に身体がぶつかる。彼女の肢体はそんな事はおかまいなしに俺の身体に絡まってきた。俺は彼女の柔らかい身体に埋もれて行く感覚が好きだった。彼女の中にいると無重力の感覚に陥り、頭の中が真っ白になった。
「私のかわいい坊や」
俺は一気に吐き出してしまうと、どさっとルミ子の胸に顔を埋めた。そして、ルミ子が優しく頭を撫でるのに身を任せた。充分に彼女の指先を頭皮に感じてから、俺はカーペットの上に転がり、天井を眺めた。彼女は俺の胸に手のひらを当てた。俺は彼女の息づかいを聞きながら充の事を考えた。お前のお袋さんはいい女だぞ。まあ、俺んちの彩子さんと同じで母親の才能はないかもしれないがな。
「ミツル」
ルミ子が俺を呼んだ。俺は本名をルミ子に告げず、彼女の息子の名前を敢えて呼ばせていた。天国の充も喜ぶだろう。
「何を考えているの、ミツル?」
「ルミ子に出会った時の事さ」
俺はそんな事を言いながら、大きな欠伸をした。
俺とルミ子は昼下がりの公園で出会った。否、正確には俺の存在をルミ子に示したのが初めてであった。俺は彼女を散々調べつくした後、偶然の出会いを装ったのだ。ルミ子は独り、ベンチに座って公園で遊んでいる母子を眺めていた。俺は、すぐ横で立ち止まり、母子を眺め、ボソッと「母親とあんなふうに遊んだ記憶がない」と言った。それを聞いたルミ子は「息子とあんなふうに遊びたかった」と言った。俺は、すっとルミ子の方に手を差し出し「大きな代役でごめん」と言った。ルミ子が俺の手を握ると俺は走り出した。池で水遊びをしている子供たちに交じって池の中を走り回り、ルミ子に水を掛けた。彼女も負けじと俺に水を掛けながら、少女のように笑った。無垢な笑顔だ。俺は池から飛び出ると、ずぶ濡れのまま芝生の上でゴロゴロと寝転がった。芝が無数にまとわり付く。彼女は立ったまま笑顔でそれを眺めていたが、そのうちに俺の横に寝転がり、俺に身を摺り寄せてきた。その姿が子猫のようだった。俺はその場で彼女に絡まり、彼女も絡まりついた。すると、周りにいた子供たちがワーワーを叫びながら寝転がり、俺たちに身を摺り寄せてきた。上から被さって来る子もいた。10人くらいの塊が俺たちを覆い、くねくねと身をうねらせながら絡まっていた。俺とルミ子は顔を合わせて笑った。皆も笑った。
「あの時のルミ子はいい笑顔だったな」
「あら、今だっていい笑顔くらい出来るわ。あんたと一緒ならいつでも笑顔にね」
ルミ子は、今度は俺の上に乗ってきた。柔らかな重みが俺を笑顔にさせる。
「お前は俺のものだ」
俺はぎゅうっとルミ子を抱きしめた。ルミ子は俺の胸に顔を当てる。そして、俺を悲しい目で見た。
「ねえ、もし私が、猿渡と、そして今あるものすべてと手を切る為に店を捨ててどこかへ逃げるとしたら、ミツルは一緒に来てくれる?」
猿渡とはこのスナックのオーナーでルミ子の愛人であった。
「ルミ子は俺がいなければだめだろう?」
俺は愛しさのあまりルミ子のおでこに軽くキスをした。なんてかわいい女だろう。ルミ子は瞳を潤ませ俺の胸を人差し指でなぞった。
「私が、もしも、もしも、一緒に逃げてくれたあんたを捨てたらどうする? 私が息子を捨てたように」
ルミ子は自分の店を出す為に仲の良い先輩ホステスから猿渡を奪っていた。それなのに猿渡から逃れようとしている自分自身に嫌気が差していると言っていた事があった。俺からもいつか逃れようとするかもしれない。俺はルミ子の潤んだ瞳を覗き込んだ。ルミ子も俺の瞳をのぞいた。彼女の瞳の奥には漆黒の世界が続いていた。俺は彼女の瞳に魅入ってしまい吐息を漏らした。すると、ルミ子は俺の視線から瞳を避けていくように俺の胸の上に顔を滑らした。躍動する俺の鼓動を聞きながら、ルミ子は俺の答えをじっと待っていた。
「あんたは息子を愛しているだろう? 俺はあんたに捨てられても愛していてさえくれればいいさ」
俺の答えにルミ子は、はっとして俺の胸から離れた。
「愛している? 捨てた息子を愛している? ははっ」
ルミ子は空虚な笑いを漏らした。
「産んだまま捨てた息子を私が愛していると思う? ただ、人間的に罪なことをしてしまった悔いが残っているだけよ。育っていればこのぐらいだろうなんて時々思うだけよ。愛なんてないわよ。私が今、愛情を注げるのはあんただけ。過去の男にも愛情なんてありはしないわ」
俺は瞬間的に悪魔の言葉を吐露する女に激怒した。
「あんたはクズだ」
俺の上にいたルミ子の腹を思いきり蹴り上げた。
「自分の汚い過去を背負って苦しんで生きろよ。お前は悔やんで悔やんで、愛する自分の産んだ子をこの胸に抱けないことを悔やんで、悲しみ暮らすべきなんだ。そうにしなければ、自分を産んだきり捨てられた事を恨んでいるお前の息子がかわいそうじゃないか! かわいそうじゃないか!」
ルミ子は腹を擦りながら床でもがいた。俺は立ち上がりルミ子を蔑んだ目で睨んだ。
「なっ、何?」
ルミ子は何が起こったか理解できないようだった。
「息子は毎日毎日考えるんだ。俺はこの世に生まれるべきではなかったのかって! その苦しみがわかるのか? おい、わかるのか?」
さらに俺は蹴り上げた。何度も何度も。俺はルミ子を冷酷な視線で刺した。ルミ子が口をパクパクとさせていた。
「えっ、何言っているんだ? えっ?」
俺は彼女の口に耳を近づけた。彼女の掠れたわずかな声が聞こえた。
「わかっているわ。そんなことはわかっているわ。でも、私はこんなふうに生きてきた。毎日毎日、息子を思いながらも、お金と男を求めてきた。だって、息子を手放したのは私の両親よ。私ではないの。私に責任はないのよ。私、じゃない」
声絶え絶えに、涙が頬を伝いながらルミ子が発した言葉であった。そして、ルミ子はぐったりとしてしまった。俺は慌ててルミ子を抱きかかえながら揺さぶった。しかし彼女は動かなかった。
「充! どうすればいいんだ。どうすれば!」
俺は上を向き、天の充にすがった。充からは何の答えも貰えなかった。腕の中のルミ子を見つめる。豊かな胸が静かに上下を繰り返していた。俺はルミ子を病院に連れて行かなければいけないと、救急車を呼ぶために電話に手をかけた。そして、すぐにその手を止めた。何をやっているんだ、俺は。こんなことをしたら、彩子さんに知られてしまう。彩子さんがきっと俺に失望する。それだけは嫌だ。 嫌だ! 絶対に! 俺は腕の中のルミ子を静かに床に寝かせて立ち上がった。もう、ルミ子とは終わりにするんだ。そう、ルミ子もこんな俺を許してくれるまい。ごめんよ!
俺は、全裸のルミ子に俺の白いシャツを掛けた。ルミ子が僅かに眉を動かし、喉を鳴らした。俺は慌てて店を出た。
店を出ると早く表通りに出ようと俺は走り出した。途中で呼び込みの男と店の女2人が行く手を塞いだ。俺が速度を緩めずそのまま過ぎようとすると諦めたのか3人は道をすぐに開けた。通り過ぎる時、強すぎる香水の香りが鼻をついた。
「おにいさん、急いでいるようだけど、今度ゆっくり飲みに来てね」
軽い男の声が俺の背後から聞こえた。
「待っているからね」
女2人の甘い声も聞こえた。表通りに出ると終電の終わった時間なのに、酔っ払いがごった返していた。俺はこの賑わいに安堵し、歩みを緩めた。歩きながら空を仰いだ。
「充、ルミ子さん大丈夫かなあ。俺、酷いことしたなあ。こんなに好きなのに」
充はやはり答えを出してはくれなかった。俺は今まで人を殴った事も殴られた事もなかった。ルミ子を蹴った時、俺の中のいつもの意識が何処かへ行っていた。そして、何年も心の奥底に閉じ込めていた何かが俺の意識を支配していた。
突然、酒が飲みたくなった。近くのショットバーに駆け込みバーボンを頼んだ。一口飲むと吐き気を感じ、ルミ子の倒れた姿が目に浮かんだ。無理やり喉にグラスの残りを流し込むと、再びバーテンにバーボンをオーダーした。