充と俺
俺は早苗の病室を出ると、彩子さんに電話をした。夜の9時を過ぎた時間だ。彩子さんは自宅に戻っていた。彼女は涙声だった。
「出かける時は私に伝えてちょうだい。でないと私、私……」
母と言う者は本当はこんなものなのか。彩子さんと俺の間でこの19年間は無かったことだ。今まで彩子さんは俺の行動すべてを許していた。いや違う。許していたのではなく気にしていなかったのだ。
「ごめん。ちょっと出掛けて、母さんが帰ってくる前に帰ろうとしていたんだ」
「そうなの……、気をつけてちょうだい。私、今まであなたを信用しきっていたのよ。だから、心配もしなかった。でも、今はあなたを守らなければいけないの。あなたが正しい判断をくだせるか確認をしながら、一緒に生きていく段階なのよ。こう言う時には言ってくれなきゃ」
「……うん、わかった。気をつけるよ。母さん、俺、大切な人が怪我をして入院をしているんだ。今晩は付き添ってやりたい」
「……」
「あとね、悪いんだけど、明日、東京まで出てきてくれるかな? 彼女に母さんを会わせたいんだ。そして、彼女と母さんに話したいことがある。……俺の親友の話、聞いてくれる?」
「……。わかったわ。明日、病院に行けばいいのね」
「お願いします」
俺は電話を切るとワクワクしてきた。そしてテレビドラマで観たことのあるシーンが浮かんできた。学校から帰ってきた子供が、台所に駆けてきて、「お母さん、あのね、今日学校でね」と言いながら友達と遊んだ話を母親にうれしそうに話すシーンだ。子供は母親にその日の出来事を報告をする。それはこんな楽しいことがあったんだと、楽しいことを共感してもらいたいからだろう。
「俺にはなかったな」
俺は独り呟いた。彩子さんは仕事が忙しいとはいえ、俺がまとわりついて話せば聞いてくれただろう。俺はそれをせずに忙しそうにしている彩子さんを邪魔にならないようにしながら黙って見ていたんだ。
「馬鹿だな、俺は」
俺はまた呟き、涙が出てくるのを堪えた。
翌朝、彩子さんは淡い薄紅色のコスモスの花束を抱えて、病室に入ってきた。彩子さんと早苗は挨拶を交わした。彩子さんに早苗に怪我をさせてしまったことも伝えると、彩子さんは唖然とし、その後脱力して、床に座り込んだ。そして早苗に謝罪した。俺も一緒に土下座をし、謝罪した。早苗は明るく気にしないように伝えると椅子に座るように進めた。彩子さんは椅子には座ったが、今にも壊れそうになってしまった。
「私が悪いんです。私が育て方を間違えてしまった。すべて私の責任なんです」
まるで唱えるように彩子さんは言葉を発した。
「お母さん、大丈夫ですよ。私は拓也さんと出会えたことに感謝しています。今日は拓也さんが、私たちに話したいことがあるそうなんです。それを聞きましょう。私のことは気にする必要は無いんですから」
早苗はそうに言うと彩子さんの手を握った。そして、俺を見て頷いた。俺はいつの間にこんなすばらしい女性に出会っていたんだろう。俺も早苗と彩子さんの手を握り、話し始めた。
「今日、話そうと思ったのは、親友の充の話なんだ。小学校5年生の時、転校をしてきたクラスメートで、すぐに仲良くなった。そして6年生になる前に死んでしまった」
死を言葉にした時、彩子さんの手はピクリと動いた。俺は母親の弱さを感じた。俺はこれから彼女を守って生きて行こうと。そして、話し続けた。
「充は事業に失敗し、夜逃げしてきた両親と共に越してきた。充は万引きをし、暴力を振るい、煙草を吸うような少年だった。5年生になると同級生は皆、塾に通っていて、放課後に遊んでくれる友達が充しかいなかった。いつの間にかいつも一緒にいるようになっていた。近くの空家に隠れ家を作り、よくそこで遊んだ。充は養子だった。高校生で子供を産んだ母親が、育てられないために遠い親戚の工場経営をしていた養父母に預けたそうだ。充を預かった時は経営も安定をしていたそうだが、充を預かって間もなく、不況がやってきた。工場の経営も立ち行かなくなってしまい、ついに夜逃げをすることになった。養父は酒を飲み、充を貧乏神だと言って殴っていた。充は体育や健康診断はすべて休んでいた。着替えの時に背中や腹を見られてしまえば、虐待に気が付かれてしまうからだ。不良を通していたので体育に出なくても、誰も身体が見られたくないからだとは気が付かなかった。充は家に帰れば殴られることがわかっていたので、暗くなるまで俺と毎日、遊んでいた。ある日、充は産みの親のことを養父から聞いて来た。貧乏神を返そうにも、産みの母親の両親は事故で死に、その後、母親がどこに行ったのかわからなかったのだ。充の母親は桜ルミ子と言う名前であることがわかった」
「あなたがお付き合いをしていた桜さんだったの?」
彩子さんが聞いた。俺は黙って頷いた。
「充は両親探しをしていたみたいだ。そこでわかったのは父親は、ルミ子さんの父親、充のおじいちゃんの不動産会社の共同経営者、猿渡京一郎だったことだ」
「えっ!」
彩子さんと早苗の声が重なった。
「そこまで……、そこまで調べた充は」
俺はあの時の光景が浮かび、声を詰まらせた。思えば俺は、あの頃、小学5年生から成長していないように思える。充と一緒に心の成長が止まってしまったのだ。俺は深呼吸をした。そして、充以来、初めて俺が心を通わせた早苗を見た。きれいな目をしている。そして、彩子さんを見た。可哀想なほど怯えた目をしている。そう、彩子さんをこの目にしたのは俺なんだ。大切な事は何一つ話してこなかった俺が悪い。俺は彩子さんの手を握った。
「充は、死んだ。……養父に殴られ」
彩子さんの手を握った手に力が入った。
「あの日、充と遊ぼうと思い、充の家に行ったんだ。おばさんが慌しく荷造りをしていた。充は頬が腫れ、口から血を流して立っていた。おばさんが『ごめんね、拓也君。充、ここから出て行くことにしたの』と言った。おばさんは優しい人だったんだ。そこへおじさんが帰ってきた。おばさんは充へのおじさんの暴力に堪り兼ねて、おじさんがいない間に出て行こうとしていた。おじさんはそれを知り怒って、充を蹴り始めた。充は、あんなに普段は喧嘩が強いのに、おじさんには抵抗しなかった。充はいつも俺に、『自分がおやじに不幸を与えている、いるべき人間ではないんだ。産まれてくるべき人間ではなかったんだ』と言っていたから、おじさんの暴力を黙って受け入れていたんだ。おばさんは泣きながら止めようとしていた。俺は呆然とその場に立ちすくんでいた」
俺は天井に目を向けた。充が俺の話を一緒に聞いてくれている気がした。俺を見守っている気が。
「……動かなくなった。蹴られ続けて、充は動かなくなった。それでもおじさんは蹴っていた。おばさんが狂ったようにおじさんを充から離した。そして、おばさんは充を抱いた……」
俺は歯を食いしばりながら、声を絞り出していた。
「おばさんが『もう、終わりにしましょう。ねえ、あなた』と言うと、おじさんは座り込んで泣いた。俺はおばさんに『ごめんね、拓也君。今日は帰ってね。ごめんね』と言われ、家に帰ってきた。家に帰って、1人、西日が当たっている窓の近くでうずくまって俺は泣いていた。よくわからないけど悲しかった。その内、消防車のサイレンの音が聞こえてきた。窓から外を見ると、充の家の辺りから黒煙が空にあがっていた。俺は走った。全速力で走った。そして、充の家が燃えているのを見た」
その時、彩子さんが俺を引き寄せ抱きしめた。俺は目を見開いたまま涙を流していた。そして、話し続けた。
「その時、やっと頭の中で理解できた。充が動かなくなった時、あの時、充が死んでいたことを。俺はなぜ、おじさんが蹴るのを止めなかったのか? 俺はなぜ、あの時、充が死んだと思わなかったのか? 俺はなぜ……」
彩子さんが泣いているのがわかった。抱き寄せられた俺の首筋に一筋の涙が落ちた。
「そんなの知らなかった。知らなかった。なぜ、その時、私に言ってくれなかったの。そんな辛い事を1人で抱えるなんて」
俺は彩子さんから離れ、座りなおした。
「だから、今、話してる。あの頃話せなかったから話してる」
「そうね、ありがとう。話してくれて」
俺は早苗を見た。赤い目をしている。
「早苗のおかげだ。君に出会って、素直になりたいと思った」
早苗は微笑みながら頷いた。早苗のおかげで俺は落ち着ける。俺も頷き、にやりと口を左右に大きく開けた。
「俺、馬鹿だよな。あの時、なぜか母さんに心配かけてはいけない。仕事の邪魔しちゃいけないとずっと思っていた。だから、話さなかったんだ。それで、俺、天国にいる充に話しかけていた。ずっと。この春、東京に出てきて、まずやりたかった事が、充の両親捜しだったんだ。猿渡は会社経営をしていたからちょっと調べたら、すぐにわかった。そしたら、ルミ子さんまで一緒に見つかったんだ。ルミ子さん高校生で充を産んでいるから、母さんよりも9つも年下なんだよ。俺、すっかりルミ子さんを好きになったしまって付き合ったんだ。その時、ルミ子さんに充の名前を呼ばせたくて、俺はルミ子さんにミツルと名乗ったんだ。そして、母さんの前では優等生っぽくしていたのをガラリと変えて、ルミ子さんの前では背伸びをした男を演じてた」
母親に付き合った女性の話をするのは照れくさかった。俺はわざと明るく言った。
「でも、あの日、ルミ子さんさ、『息子なんか愛していない』って言ったんだよ。俺、その時、充の言葉を思い出したんだ。『いるべき人間ではないんだ。産まれてくるべき人間ではなかったんだ』その言葉が悔しくて、悔しくて、ルミ子さんを蹴っていた。そして、気がついたら逃げていた」
彩子さんに知られるのが怖くてとは言えなかった。彩子さんが自分のせいだと思ってしまうから。
「俺、自分自身が怖かった。思わずルミ子さんに暴力を振るったこと。俺は、愛情が無い人間だと思った。でも、昨日、早苗と話してわかったんだ。俺は愛情と言う物を閉じ込めて今まで、生きてきたんだ。それに気がついたのは早苗のおかげだ」
彩子さんは早苗に頭を下げた。
「ありがとうございます。本当は私が気がつかせなければいけなかったことです。ありがとうございます」
そんな彩子さんを見て、俺は次の言葉をためらった。
「もう1つ、聞いてもらいたいことがある。母さん、早苗のお腹の中に俺の子がいる。昨日、俺、その事が怖くなって、早苗に包丁を向けた。その包丁が早苗に刺さったんだ」
「ヒィ!」
彩子さんが両手を耳に当て、悲鳴を上げた。
「お腹に子供がいたのに怪我をさせたのね! 子供は、子供は?」
「大丈夫です」
早苗は穏やかに答えた。
「私が入院した怪我は、拓也さんが刺したのではなくて間違って落ちたんです。決して、拓也さんのせいではないんです」
早苗が必死に弁明した。彩子さんが震えている。
「彩子さん、ごめん。聞いて。俺、1度、警察に行く。そして罪を償うよ」
「その必要はないわよ。間違って私が落とした事にしてあるんだから!」
早苗がむきになった。
「早苗、だめなんだ。俺はルミ子さんにも暴力を振るった。君にも危害を与えようとした」
「違う、あれは脅しただけでしょ? 危害を与えようとはしていない」
「聞くんだ、早苗。このままだと俺はいつかまた、我を忘れて誰かに危害を与えるだろう。警察に行く。そして、罪を償ったら、精神科にも見てもらう。ちゃんとしたいんだ。自分自身に自信が持てるようにしたい。彩子さん、俺は行くからね。その間、早苗をお願いしたいんだ」
彩子さんは俺の胸で頷いた。震えは止まっていた。俺は彩子さんの顔を見た。怯えたような目が、強い光に変わっていた。
「……母さんでしょ。あなたは昨日からそうに呼んでくれていたわ。たぶん、あなたは少年院に行くでしょう。もともと、あなたはルミ子さんの暴行で今は、保護観察になっているんだから。でも行きなさい。そして、戻って来なさい」
彩子さんは、早苗を見た。
「早苗さん、あなた産んでくれるのね? よければ私も一緒に育てたいわ。だめかしら?」
「もちろん、お願いします。私には両親がいなく頼る親戚もいないんです。私に頼らせてください。よろしくお願いします」
「じゃあ、決まり。早苗さんとあなたを待つわ」
俺は母親の愛情を感じた。
充、俺はやっと母親に甘えられるよ。じゃあな!
俺はもう、充に話しかけないだろう。
いいよな? お前が先にバイバイしたもんな?