早苗と拓也
新しい土地での生活が始まった。俺は何もやる気が起こらなかった。彩子さんは、朝、食事を作り、俺を起こした。一緒に食卓に付き、食事をした。そして片付けを済ませてから、「昼は冷蔵庫にある」と言い笑顔で仕事に向かった。夕方の18時半を過ぎると帰ってきて、夕食の用意をした。3度の食事が彩子さんの手作りだった。
似合わない生活だった。
彩子さんと俺にはそぐわない生活スタイルだ。
この生活が俺を憂鬱にさせた。俺は彩子さんのいない間は充と話した。
「優等生はどうした? なんで彩子さんと話さない?」
俺にはもう、優等生を演じる資格なんてないよ。
「……やせ我慢するなよ。お前、本当はちゃんとした男だよ。今からちゃんと生きればいい。朝、母親に作ってもらった食事を食べ、大学に行き、友人を作って一緒に遊ぶんだ。夜は母子で揃って、食事をする。そんな生活をしていけばいい」
無理さ。無理だよ。
そんな会話の繰り返しだった。
引っ越してきて、3ヶ月が経った。その日、引越しをして初めて、彩子さんが会社の人との付合いで遅くなると言い、仕事に出かけた。
チャンスだった。
俺は新宿に向かった。早苗に会うためだ。早苗に少し会って、帰ってきても彩子さんが帰宅するまでに帰って来られるだろう。俺は新宿駅に着くと足早に早苗のマンションに向かった。
昼少し前に着いた。早苗の部屋のインターホンを押した。
「はい」
早苗の声が聞こえ、ドアが開いた。
「久しぶり!」
俺は満面の笑顔で早苗に抱きついた。そして、早苗を見つめ彼女の口唇にキスをした。早苗は瞼を閉じたまま、静かに涙を流していた。何も言わず、俺のキスが、口唇、頬、瞼、そして首筋へと移っていくことに身を任せていた。彼女の涙が、俺をどんなに待ち続けてくれたかを証明していた。
「ごめんよ。今まで来れなくて」
俺が早苗の顔を見つめると、涙でくしゃくしゃになった顔は左右に動いた。そして、今度は早苗の方から俺の口唇にキスをしてきた。長いキスだった。3ヶ月分のキスだった。
「座って。お茶を出すわ」
早苗は落ち着いたのか、俺の手を引き部屋の奥へ誘導した。早苗がお茶の用意をする間、俺は早苗の後姿を見つめていた。何か変わった気がした。腰の辺りが少し太ったようだ。お茶を俺の前に差出した手も少しむくんでいるように見えた。
「ミツルが、3ヶ月前、帰ってきたら話すと言った事、聞きたいわ」
早苗の満面笑顔に俺は不信感を抱いた。彼女に何かが起こっていた。彼女は何かの病に侵されているのかもしれない。
「早苗、俺のことよりも君の事を聞きたい。何かあったか? 体の具合が悪いのか?」
早苗は俯いた。そして笑顔で首を横に振った。
「妊娠したの。あなたの子よ」
俺は震撼した。俺の子。愛されずに育った俺の子。
「嘘だ。俺に子供ができて良いはずが無い。早苗、お前もそうだ。親の愛情のない生き方をしてきた俺たちに、子供なんて……」
笑顔の早苗が、一瞬で無表情になった。
「堕ろすつもりだろ?」
早苗の表情が動かない。俺は畳掛けた。
「俺には子供の頃に、彩子さんに抱きしめられた記憶が無い。わかるか? これがどんな意味を持つか。子供を育てられないって事だ。家族が作れないって事だ。早苗だってそうだ。父親にも捨てられ、母親にも捨てられた。愛情なんて知らないだろう? どうやって育てる? また、早苗や俺のような人間が増えてしまうだけだ。堕ろさなきゃあだめだ」
早苗は怒りも悲しさも、悔しさも表さないで静かに言った。
「私はあなたに育てて欲しいと、一言も言っていないわ。あなたの子だと言っただけ」
俺は彼女の冷静さとは反対に、感情が高まって止められなかった。ルミ子さんを蹴り上げた時と同じだ。こんな俺と同じ人間がこの世に増えてはいけない。俺は上を向いて叫んだ。
「俺の子なんて無理だ。こんな俺の子なんて。なあ、充そうだろ? 充!」
充は答えてくれない。俺は立ち上がり、キッチンに向かった。そして、包丁を取り出し早苗に向けた。
「何をしているの?」
早苗は立ち上がり、俺を見つめた。
「ここで、堕ろすと言ってくれ」
「断るわ。絶対に堕胎はしない。私は産むの、私が愛したあなたの子を。そして誰にも負けない愛情を注ぐの。誰にも負けないくらい抱きしめてやるの」
俺は早苗の強さに怯んだ。もうだめだ! わけがわからない。充、助けてくれ!
「充!」
俺は上を向いて充の助けを呼んだ。その直後、俺は目に見えない膜で口を覆われた。息ができなくなった。俺は喘いだ。早苗はゆっくりと俺に近づいた。俺は包丁を早苗に向け、抵抗した。
「拓也、あなたは愛情のない人間なんかじゃないわ。私はあなたの愛情に包まれた。私はその愛を生まれてくる子に伝えるつもり。大丈夫! 子供の頃に愛情が無かったら今から取り戻せばいいのよ」
早苗は大きく息を吸い込み、俺の口にそれを注ぎ込んだ。俺の意識の中の膜がその注ぎ込まれた空気によって破られた。そして、遠くの方で笑ってバイバイと手を振る充が見えた。俺は脱力し、早苗と共に座り込んだ。そして、手に持った包丁を手放した。
「拓也って言った? 今、拓也って?」
「ええ、3ヶ月前にミツルがいなくなっちゃったから、捜しちゃった。そしたら、拓也って名前の男を見つけちゃった」
早苗は笑顔で答えた。そして、その笑顔をしかめ、お腹を押さえた。
「どうした?」
俺は早苗のお腹を見た。血が出ていた。包丁が、俺が落とした包丁が早苗のお腹に傷をつけながら落下したのだろう。
「早苗!」
「病院に行けば大丈夫よ。救急車を呼んで」
俺は急いで電話をした。電話を切ると俺は早苗の傷に手を当て、止血しようとした。
「拓也、あなたはここにいない方がいいわ。私が間違って包丁を落としたことにするから、出て行って!」
「それはできないよ」
早苗は、力の無い手で俺を玄関に押しやろうとしていた。
「いいから行って。愛してる。だから行って、お願い」
早苗の気持ちを酌んで、俺は立ち上がった。そして、玄関のドアを開けた。その時、ルミ子の店から逃げ出した時の事を思い出した。その結果、ルミ子は死んだ。充もそうだ。俺が帰った後に5年生の充は死んだんだ。
「だめだ! もう、俺は誰も死なせない」
俺は振り返り、早苗を抱きお腹を押さえた。
「俺、もう早苗から離れないよ」
早苗は俺を押す力も無く、俺に身を任せた。
「ありがとう。拓也」