彩子さんと俺3
俺は、逮捕されて8日目に釈放された。容疑者が逮捕されたと言うのだ。それ以外は何も聞かされること無く、俺は警察から彩子さんへ身柄を移された。彩子さんは俺たちのマンションに帰らなかった。都内のホテル、それも30階の部屋に泊まった。ルームサービスを頼み、夜景の見える窓際に食事が運ばれた。俺は彩子さんに話しかけられず、警察を出た時から数時間、2人は無言だった。食事をボソボソと食べ始めた時、初めて彩子さんが俺に話しかけた。
「もう、マンションには戻らないわ。引っ越しましょう。大学もしばらく休学したらいいわ」
俺は今回のことが彩子さんにひどい影響を与えていることを悟った。
「どこに?」
「私が仕事をしていた温泉に行こうと思って」
「仕事は?」
「いい機会だからやめたの」
「俺のせいだね……」
「違う、私のせい」
彩子さんは頬杖をついて、俺の顔を見ずに夜景を見ていた。
「私、あんたに申し訳ないと思っている」
彩子さんは俺を見ない。
「あなたを1人で生きさせていたのね。ずっと私たち一緒に暮らしていた。なのに私はあなたのことよく知らないのよ」
俺は頭の中でいろいろなことが駆け巡った。俺は彩子さんの事をよく知っている。彩子さんの字を書くときのくせも知っている。食べ物の好き嫌いも知っている。眠ると必ずできる寝癖も知っている。仕事仲間とうまくいっていない時には、必ず肉を大食いすることも知っている。俺はずっと見てきていた。俺は彩子さんをずっと見てきていた。
「家に帰ろう。せっかく本社で仕事するようになったばかりなのに、俺は無実だったと言うし、仕事に復帰できるんだろ?」
彩子さんは夜景から目をテーブルに向けた。
「マスコミが来ているの。あなたは未成年だから名前こそ報道されていないけれど、マンションの住人は気がついているの。迷惑もかけられない。本当にいい機会だと思っているの。もう、朝早くから仕事に行って、家に帰ってからも、仕事をし続ける生活からは離れようと思ったの。温泉の近くの建築設計事務所はどうかって話があるのよ。温泉地の方が設計コンセプトがいろいろあって楽しそうだし……」
彩子さんは話し続けた。俺は、目を合わせてくれない彩子さんから目をそらし、夜景を眺めた。なんなんだろう? こんな高級なホテルに泊まって、そして明日には、見知らぬ土地に行く。俺は明日からでも大学に通って、普通にすごしたい。俺、今まで充の親を捜す為に生きていたんだ。なんでだろ? そうだこの人からは感じられない母親と言うものを捜していたんだ。でも、ルミ子さんと会ってからは、よくわからない生き方をしていた。それこそミツルと名を名乗ってからの生き方が、悪かったんだ。俺がミツルだと知っている人、早苗……元気かな? 俺は一人で思いを巡らし、彩子さんは一人でしゃべっていた。彩子さん、一人で生きてきた俺に今更、彩子さんと一緒に生きようなんて無理だよ。そんなに一生懸命話さなくっていいよ。今夜、夜景のきれいなホテルで良かった。外を眺めていて飽きない。
「……愛人だったみたいよ」
上の空だった彩子さんの話がふと耳に残った。
「何が?」
「桜ルミ子を殺害した人」
猿渡京一郎だったんだ。
「行きつけクラブのホステスが通報したのですって。その人、自分で話したそうよ。その女性に感謝しなくてはね」
「そうだね。感謝しなくてはだね」
「警察では、その人の事、教えてくれなかったのだけれど、おそらく裁判で、あなたもその人も表現してもらう事になると言っていたわ」
彩子さんは顔を少し伏せて、そうに言った。もう、事件に関わりたくないのだろう。裁判なんて先の話ですぐには終わらない。
「彩子さん……、ごめんなさい」
俺が言うと、彩子さんは俺を見た。そして、すぐに目線を外し首を横に振り、再び話し始めた。
「あなたは、来年、向こうの大学を受験しなさい」
「彩子さん、俺、まだ大学に籍があるのだろ? 退学届を出したわけではなんだろ?」
俺は大学に戻りたいがために強い口調で言った。今の大学は彩子さんを喜ばせるために厳選した。できれば退学をせずに通いたい。
「今は休学扱いよ。でも、大学側はあなたを受け入れる気はないわ。あなたは桜ルミ子さんに怪我を負わせたことには変わりないのよ。そこのところわかっているの? あなたは人を傷つけたのよ」
俺は彩子さんの強い口調に驚いた。そして、ルミ子を蹴り上げたあの感触が甦った。俺は頭を抱えた。彩子さんが、俺に怒っている! 俺に怒っている! 俺は椅子から立ち上がり、部屋の中を歩き回った。そして、彩子さんを見た。彩子さんは悔しそうな顔をしながら俺を見ている。俺は彩子さんを睨み、彩子さんも睨み返した。俺はその彩子さんの目に脱力し座り込んだ。
彩子さんは怒っている。
彩子さんは座り込んだ俺を、抱きしめた。初めての体験だった。俺の母親が俺を抱きしめている。
「あなたは弱いわ。こんなに弱い。1人で生きさせてごめんなさい。私、知らなかったの。あなたがこんなに弱いとは知らなかったの」
俺は脱力した身体を抱かれながら、彩子さんの言葉を聞いていた。
彩子さんが俺に謝った。
この俺に。
1人で生きさせたと謝った。
その夜は彩子さんの隣で眠った。夜中に抜け出して早苗に会いに行きたかったが、彩子さんはその日、眠っていなかった。俺も一睡も出来なかった。そして、翌日、温泉地に向かった。