序章
「じゃあな」
「おう、じゃあな」
卓が帰ってしまうと、公園は静まり返った。
「くそっ!」
ただ1人、取り残された拓也は卓が言った言葉を思い出した。
「母ちゃんが、今日もおばさんの帰りが遅いのなら、うちで夕飯食べろって」
拓也は断っていた。以前に1度、卓の家の夕食に招かれた。味はおいしかったし、卓のおじさん、おばさん、お兄さんに妹の大勢で食べる夕食は楽しかった。けれど、おばさんは拓也の家族の事をいろいろ聞いてきた。
「あら、お母さん、いつも帰りは8時過ぎなの」
「じゃあ、1人で留守番は寂しいでしょ」
「いくら、りっぱなお仕事していてもねえ、子供をほったらかしにするのはねえ」
そんな事を言われた。拓也はもう2度と卓の家には行かないと決心していた。
「まだ、腹は減っていない」
拓也は公園を出て、自宅とは反対の方向に進んでいた。5年生になってから、放課後に遊ぶ友達が減ってしまった。みんな塾やら習い事をやっていて忙しいのだ。拓也は何をしようか考えているうちに、同じクラスの数人が通う学習塾の前にやってきた。そこの窓からは煌々と明かりが漏れていた。拓也はそっと窓から中をのぞいた。
同じクラスの智や美加がいるはずだ。皆が一様に俯いて机に向かっていた。なぜか皆が同じに見え、拓也にはその中からクラスメイトを見つけることがどうしても出来なかった。
「変なの」
拓也はぶらぶらと歩き始めた。
ドンッ!
突然、後ろから誰かがぶつかって来た。
「何を!」
拓也は振り返ろうとしたが、既に相手は前方へ走っていた。拓也よりも少し背が高い少年だ。6年生くらいだろうか。
「こら待て」
後ろからの声に振り返ると、コンビニエンスストアの店員らしき男が走ってきた。少年を追いかけているようだ。
「万引きか」
拓也は逃げて行く少年を軽蔑した目で見た。そして、また歩き始め公園まで戻った。拓也はズボンのポケットに入れておいたカラーボールを出そうとポケットに手を入れた。
「なんだこりゃ」
いつの間にか、ポケットの中にボール以外のものも入っていた。出してみるとライターとガムであった。少年にぶつかった時、入れられたのであろうか。コンビニエンスストアに返しに行けば、自分が怪しまれてしまうだろう。
「ちっ!」
拓也は舌打ちをし、地面を蹴った。どうしたものかと考えながら、手にしたボールを塀に向かって投げた。塀にぶつかったボールは、地面で1度バウンドし、拓也の元へちゃんと返ってきた。拓也は投げ続けた。
何度も何度も。
投げているうちに、卓のおばさんの言ったことや塾の窓の中の光景、さっきの万引きをした少年の後姿、ライターとガムが次々に思い出され、自然にボールを投げる手に力が入っていった。加えて視界の端の方では、煌々と明るい外灯に小さな虫や蛾が無数に飛んでまとわりついていて、いくつかが電球に激突し落ちていくのが見え、嫌な気分になって行った。
「火、点けてくれないかなあ」
突然、拓也の背後で声がした。振り返ると、さっきの少年が煙草を加え、シーソーの端に体育座りをしていた。拓也はボールを投げるのをやめ、少年にライターとガムを渡すと、さっさと帰ろうと歩き出した。
「お前、帰る所ないんだろ?」
少年が後ろから声をかけた。拓也は無視して歩いた。
「俺もなんだ。帰れば親父が大暴れさ」
少年の言葉に拓也は足を止め、少年を見た。少年は寂しそうに俯き、自分で煙草に火を点けた。拓也はしばらくの間、煙草の煙がゆらゆらと外灯の虫たちの方へ昇っていくのを見つけていたが、ふと少年に近づき手を差し出した。
「瀬田拓也、5年だ」
そんな拓也に少年は少し驚き、そして手を差し出し握手した。
「高杉充、5年だ。昨日越してきた」