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「じゃあ、また明日」
「うん」
いつものように校門の前で手を振って別れる俺と麻実子ちゃん。
麻実子ちゃんの姿が見えなくなると、すぐにプリンが駆け寄ってきて俺に腕を絡めてきた。
「今日もお疲れ様。さて、それじゃあ行くよ!」
プリンは明るい笑顔を振りまいて宣言する。
確かに……こんな状況では、いろいろ噂にもなるか。
そう思って頭をぽりぽりと掻いている俺を、「どうした?」って目で首をかしげながら見つめるプリンの顔は、その吐息がかかるくらいの距離しか離れていなかった。
「今日はこの上にある屋敷に行くよ」
プリンが言って指差したのは、町の中にある小高い丘だった。
この丘は、とあるお金持ちの私有地になっている。
丘に作られた石段を上った先に豪邸があって、そのお金持ちはそこに住んでいる、というのを聞いたことがあった。
お金ってあるところにはあるんだな。
見上げるとめまいがしそうな石段を、俺たちは黙って上り始める。
石段の両脇には桜の木が植えられているようだった。
五月も半ばのこの時期だと、もうすっかり花は散って、青々と茂る葉っぱしか見えかったけど。
石段を上りきると、そこには大きな門が待ち構えていた。
太い二本の柱のあいだに作られた大きな両開きの門。柱の横からは長い塀が左右に伸び、ずっと遠くまで続いていた。
右の柱には大きな表札がかかっている。
藤を象った紋の下に続く「厳島」の文字、それが主の家名だった。
仲のよい夫妻が、この大きな屋敷に住んでいるらしい。
こんな大きな屋敷だと、お手伝いさんを雇っていたりするイメージがあるけど、他人が入り込むのを嫌うのか、今はふたりだけで生活しているのだとか。
今は、と言ったのは、数年前までは夫妻のひとり娘も一緒に住んでいたからだ。
ただ、もともと病弱だった娘さんは数年前に亡くなってしまった。
そのせいで夫妻は塞ぎ込んでしまい、それまで以上に周りとの接触を極端に避けて生活していると聞いたことがある。
「でっかいねぇ……」
さすがのプリンですらも、口を大きく開けて呆然とするほどの大きな屋敷だった。
俺のような小市民が、プリンの言葉に対して反応もできない状態なのは、仕方のないことだろう。
と、突然門が開いた。
「今日伺うという連絡はすでに入っているはずだ」
プリンは石段を上るあいだにそう言っていた。「はずだ」と言うからには、連絡したのはプリンじゃないということになる。
おそらくは女王様とやらが手を回したのだろう。
「ようこそ、いらっしゃいました」
門の中にいたのは、深々と頭を下げる品のよさそうな夫妻だった。
直々に出迎えてくれたところを見ると、噂に聞いていたとおり、お手伝いさんなどはいないのだろう。
「あ……」
頭を上げたふたりは、急に驚きの表情を浮かべ声を漏らす。
その視線の先には、俺とプリンがいるだけだ。
「ほむ? どうした?」
プリンが問いかけると、はっとしたように女性は微笑んだ。
「いえ……なんでもありません。私は厳島美千代と申します。こちらは夫の秀嗣。本日はわざわざありがとうございます。とにかく、中にお入りください。母屋までは少々歩きますが」
そう言って歩き出す美千代夫人。
歳は四十代前半くらいだろうか、落ち着いた雰囲気を漂わせている。
旦那さんのほうも同じくらいの年齢だろう。
さっきは夫人と同じように少し驚いていたみたいだったけど、今では笑顔に戻っていた。
夫妻は母屋へと向かう石畳をゆったりと歩き出し、俺たちについて来るように促す。俺とプリンは素直にそれに続いた。
石畳から見える庭のあまりの広さに、声も出せなかった。
ゆっくりとした足取りだったとはいえ、母屋までは数分ほど歩くことになった。
優に数百メートルはあったのではないだろうか。さすがに広すぎという印象を受ける。
門から出たとしても、長い石段を上り下りする必要があるわけだから、かなり不便な場所なのは確かだった。
それでもこの夫妻には、娘さんとの思い出が溢れるこの屋敷を出るなんてことは考えられないのだろう。
「どうぞ」
豪華絢爛な部屋に通された俺とプリンに、美千代夫人は紅茶と苺のケーキを出してくれた。
カップやお皿にも、きらびやかな装飾が施されている。
屋敷自体の外観は完全に純和風な印象だったけど、中は意外と洋風な造りも取り入れてあるようだ。
お客様用だからという理由なのか、この部屋も完全に洋風の部屋となっていて、贅沢な刺繍をあしらったソファーや、大理石を使ったテーブルなんかが置かれていた。
「すみません。いただきます」
かしこまった感じでお礼を述べる俺とは対照的に、プリンはいつもどおりの軽い口調のままだった。
それどころか、
「お~、ありがとね、おばさん。うわ~、すっごく美味しそうだよ!」
なんて言って、舌なめずりまでしている。
こいつには行儀作法を教え込む必要がありそうだ。
ごめんなさい、失礼な奴で……。
頭を下げる俺に、いえいえ、元気があっていいわよ、と微笑み返してくれる美千代夫人。
その横では旦那さんも同じように優しげな笑顔を見せていた。
お金持ちということで、気難しい人だったりしたら嫌だなぁ、なんて思いながらここまで来たのだけど。
ふたりとも、すごくほんわかした雰囲気で、とても感じのいい夫妻のようだった。
でもなんとなく、笑顔を浮かべながらも、瞳の奥に寂しさのようなものは感じられる気がした。
「それじゃあ、もごっ、詳しい話を、もごごっ、聞かせてくれるかな? ごくっ」
口の周りにクリームをいっぱいくっつけながら、プリンが言う。
こら、いくらなんでもそれは行儀悪すぎだろ。せめて手づかみで食べるのだけはやめろよ!
美千代夫人はそんな様子にも動じることなく、現状を語り始めた。
夫妻には病気で亡くなった娘さんがいた。それは噂で聞いていたとおりだった。
十歳という若さでこの世を去ったその娘さんは、深鈴という名前に合った、凛とした響きの綺麗な澄んだ声をしていたそうだ。
夫妻にとってはたったひとりの娘の死……。
もう世界が終わってしまったかのように悲しみに暮れた日々を過ごしていた。
そんなことをあの子が望むはずはない。わかってはいても、どうしても気持ちは切り替わらなかった。
娘さんを忘れることなんて、到底できないのだから。
娘さんの部屋は、生前のままの状態にしてあるらしい。
いつあの子が帰ってきてもいいように、そうつぶやく夫人の目は悲しげな光に満ちていた。
ところが、いつしか娘さんの部屋から物音が聞こえるようになったという。
もしかして、深鈴が帰ってきたの?
そう思って部屋の中に入ってみても、もちろん誰もいるはずはない。だけど、夜ごとに音は聞こえてくる。
気のせいなのかもしれない。
清潔にしているはずだけど、ねずみなんかが住み着いているのかもしれない。
そんなふうに考えて納得しようとするものの、毎晩聞こえてくる物音に、どうしても娘さんの記憶を重ねてしまう。
娘さんへの思いが強すぎることから生じる幻聴、頼んで来てもらった精神科の先生はそう言っていた。
この屋敷は手放して、どこか別の場所に移ったほうがいいと勧められた。
やっぱり、私たちがおかしいだけなのよね。
そう思いながらも、この屋敷を出ていく気にはなれない。
実際に音が聞こえることで、娘さんがこの屋敷に戻ってきているように思え、複雑な気持ちを抱きながら、夫妻は生活を続けていた。
そんなある日、物音だけでなく、とうとう声まで聞こえてくるようになった。
はっきりと聞こえるわけではないため、本当に娘さんの声なのかまではわからなかったけど、いくらなんでもこれはおかしい。
とはいえ、このままではなにもわからない。ちゃんとした調査を依頼すべきなのではないだろうか。
「そう考えていたところだったんです。絶妙なタイミングで調査に来てくださるとご連絡をいただいて、とてもありがたく思っているんですよ。……かなりお若いかたがいらして、びっくりしましたけれど」
プリンに視線を向けながら、美千代夫人は苦笑を浮かべている。
若いからだけでなく、別な意味でも不安だろう、プリンのこんな状態を目の当たりにしていたら。
そんな俺の心配をよそに、当のプリンは、ケーキを食べ終えたお皿を名残惜しそうにペロペロと舐めていた。
だから、行儀悪すぎだってば!