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そいつは俺たちに気づいて、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
ゆら~り。
そんな効果音がつきそうな印象を受けた。
「お前ら、なんだよ~! おやつの邪魔をするなよぉ~!」
こもった声を響かせるそれは、ブヨブヨに脂肪のついた体を震わせ、俺たちのほうを見据える。
「もごっ。優歩、そいつが悪霊だよ! オイラの短刀で、奴の羽根をぶった切るんだ! もごごっ」
プリンが叫ぶ。
口の周りに巻きついていたクレープ生地をもぐもぐと食べながら。
緊張感台無しだ。口の横に生地がちょっとくっついたままだし。
「あっ、結構いけるね、これ」
そんなつぶやきまで聞こえてきたけど。
今はそんなことを気にしている場合じゃない。
ぐおおおおおおおおおおん!
雄叫びを上げる悪霊。
両手のナイフとフォークを振り回すと、教室のいたるところからなにかが伸びてきて、俺たちに襲いくる。
クレープ生地だ!
もはや教室の壁全体がクレープ生地になっていた。
「お前らも、おやつにしてやるぅ~~~!」
奴が激しく腕を動かすと、その動きに合わせるかのように舞い踊るクレープ生地が、俺たちを包み込もうと迫る。
俺はプリンの短刀を素早く振るい、それに応戦する。
短刀とはいっても家庭用の包丁と同じくらいの長さはあった。それなのに驚くほどの軽さ。
体の一部になったかのように思いどおりに刃を操ることができた。
麻実子ちゃんは、神林とともに俺のすぐそばにいた。
なんとか教室内にまでは入ってきたものの、再びしゃがみ込んでしまった麻実子ちゃんとは対照的に、神林は身を乗り出して状況をしっかりと目に焼きつけようとしている。
俺はそんな神林を手で制した。
「ふたりは下がってて。ドアのところだけはクレープ生地になってないみたいだから、そっちへ行って!」
そのあいだも、クレープ生地は襲いかかってきていた。
それを短刀で切り刻みながら、ふたりを安全な場所まで導く。
短刀を振るたびに、神林の歓声が上がる。
「お~お~、さすが男の子だねぇ、カッコいい! 頼りになるなぁ! 麻実子もそう思うっしょ?」
「え? う、うん」
なんて会話まで聞こえてきた。
カッコいいなんて言われると、悪い気はしないな。
おっと、会話に耳を澄ませている場合じゃなかった。
集中し直し、飛びかかってくるクレープ生地を切り刻む。
でも、このまま防戦していても埒が明かない。
プリンを救出に向かうか、それとも奴の羽根を切り落としにかかるか……。
とはいえ、奴はナイフとフォークを大げさな動きで振り回しているわけだし、奴のそばまで近づくのは危険だ。
とすると、まずはプリンをあのクレープから引っ張り出して、妖精の力でどうにかしてもらうほうがいいだろうか。
そう思ってプリンに目を向けると、一心不乱にクレープ生地を頬張っていた。
すでにストロベリーソースのかかっている部分まで達しているため、口の周りは赤いソースでべちゃべちゃだった。
行儀悪っ。思わずそんな感想が浮かぶ。
プリンはものすごい勢いで生地を食べてはいるけど、それでもまだ手も足も自由に動かせない状態だ。
そのまま脱出できるところまで食べ進められるわけでもないだろう。
俺はプリンを助け出そうと駆け出した。
と、それに気づいたプリンがこちらを睨んで叫ぶ。
「優歩、オイラのことはいいから、早く奴の羽根をやるんだよ!」
う……。そう言われても、どうやってあいつに近づけばいいものか……。
苦悩しながらも観察を続けていると、俺はあることに気づいた。
奴は腕を素早く動かし、目が追いつかないほどの勢いでクレープ生地を繰り出してきている。
だけど、あいつ自身はその場から一歩も動いていない。
動いていないというより、動けないんじゃないだろうか?
悪霊という存在だから頭から離れていたけど、見るからに太ったあんな体型をしているのだから、そのほうが自然にすら思える。
見たところ、この空間にある食べられそうな物は、あのクレープ生地とストロベリーソースだけ。
悪霊なら食べ物がなくても生きていけるのかもしれないけど、プリンも言っていたじゃないか。美味しいものを食べれば嬉しいって。
奴は自由に動かせる生地とソースを自分の口まで運ぶだけでいい。自分はゴロゴロして腕だけ動かせばそれでいいのだ。
そうやって食の欲求を満たしながらここに存在していた悪霊は、その結果ここまで太った。
俺の考えが正しいかどうかはわからないけど、そう考えれば、おのずと勝利の糸口は見えてくる。
ここは、賭けてみるしかない!
俺は縦横無尽に襲いかかってくるクレープ生地を、ひたすら短刀で切り続けた。
そのあいだ、教室の中を激しく動き回る。
それに合わせてあいつも俺のほうに向き直り、両手を大げさに動かしクレープ生地を繰り出す。
そんな攻防が十分間以上もの長きにわたって続いた。
緊張した面持ちで成り行きを見守る麻実子ちゃん。
そしてその横で、飽きてきたのか大きなあくびをしている神林。
こいつはもしかしたら、ものすごい大物なのではないだろうか……。
「ちょこまかと鬱陶しい奴だなぁ~! 早くおやつになっちゃえよぉ~!」
悪霊が焦り出しているのが伝わってくる。
奴は焦ってもその場から動こうとはせず、ただひたすら両手を動かすのみ。
その額に、腕に、体中に、汗のようなものが浮かび上がり、周囲に飛び散らせていた。
「うわ、ばっちぃ!」
飛んできた汗っぽいものが引っかかったのか、プリンが不快な声を上げている。
顔の周りの生地はほとんど食べ終えたみたいだけど、やはり身動きは取れないようだ。
腕が動かせないから拭うこともできず、プリンは泣きそうな目をしていた。
ともあれ、今はそれどころではない。
とりあえず、しばらく我慢してくれ、プリン。
動き回る俺。
狙いはあいつを疲れさせること。
あれだけ大きな身振りで両手を動かし続けているのだ、そのうち限界が来る。そう踏んでの作戦だ。
悪霊だから疲れ知らず、なんてことになれば作戦は大失敗、いくら若い健康な中学生とはいえ運動部でもないのにこんなに動き回っていれば、俺のほうが先にダウンしてしまうだろう。
それでもあの体型で、しかもあれだけ異常に汗を飛ばし続けている状況……。
これならいけるはずだ。俺はそう確信していた。
プリンも、降りかかってくる汗にまみれながらも、よし、その調子だよ! といった表情を向けてくれている。
「あっ! 優歩くん、後ろ!」
…………っ!?
突然、背中に衝撃が走った。
くっ……! 闇雲に繰り出してきているだけかと思ったら、ちょっとは考えてやがったか!
奴はおとりのクレープ生地を俺の目の前に複数突撃させながらも、背後から別の生地を向かわせてきたようだ。
麻実子ちゃんの声でとっさに反応できた俺は、直撃だけは避けることができたけど……。
背中がズキズキする。どうやら制服を突き破られ、背中が少し切れているみたいだ。
クレープ生地のくせに、硬さを変えて勢いをつけることで、こんな芸当までやってのけるとは。
ただ、向こうにも焦りが出てきているのは明白だった。
さっきまでは執拗にクレープ生地で巻き込んで、「おやつ」にすることを考えていたはずなのに、怒りの念を持ち始めているのか、今は直接的な攻撃に変わっている。
危険度は増したと言えるけど、これは逆にチャンスでもある。
「ぐるるるるるるるるる~~~~っ!」
獣のような唸り声を上げる悪霊。
もう、おやつにしようなんて気はなくなったのか、それとも痛めつけて動けなくしてからでいいとでも思ったのか。
先ほどの一撃と同じようにクレープ生地を硬め、次々と鞭のごとく振り回してようになった。
されど、焦っているからだろう、攻撃はワンパターンになっていた。
俺はそれらを軽々とかわし、奴を挑発するかのように教室内を飛び跳る。
「ぐおおおおおお、ムカツクぅ~~~~~!」
悪霊は完全に怒りをあらわにする。
よし、もうそろそろいいだろう。
俺は動き回りながらもプリンに視線を向ける。彼女もなにも言わずに頷いた。
繰り出されたクレープ生地を大きく避けて跳ぶ俺。
その瞬間、別の方向から声が響いた。
「こら、デブ! そろそろオイラを解放しなよ! だいたい、飛んでくる汗で汚いしさ! キミ、モテないでしょ!?」
プリンの澄んだ可愛らしい声で繰り出される罵詈雑言攻撃に、思わず視線をそちらに向ける悪霊。
悪霊に、モテるモテないなんてあるのだろうか。ふとそんなふうに思ってしまったけど。
奴の顔がみるみるうちに怒りで赤く染まっていくのを見る限り、そういうのもあるってことなのだろう。
「うるさいうるさいうるさい! お前は黙ってろ! 動けないくせに生意気な奴め!」
野獣のように叫んでプリンに襲いかかろうとする。
その背後に、奴の視界から逃れた俺が立った。
「ぬあ……っ!?」
奴も気づいたようだけど、もう遅い!
俺は高々と掲げた短刀を、奴の似合わない羽根の根もとに向けて一気に振り下ろした!
短刀が鮮やかな光を放つ。
その光は切り裂いた奴の羽根の根もとを中心に、辺りの景色すべてを飲み込むかのように広がった。
「ぐあああああああああああっ!!」
断末魔の悲鳴とともに、嫌な匂いと音をまき散らしながら、奴はその場に崩れ落ちた。
太った人間型をしていた奴の体は、どろどろとした液体状になって床に広がり、そのまま床に染み込んでいくと、跡形もなく消え去った。
静かになった教室には、呆然とする俺たちの他には、壁や天井、床にくっついたままのクレープ生地やストロベリーソースと、食べかけになった「プリン巻きやわらかクレープ・ストロベリーソース仕立て」だけが残っていた。
それにしても、これは掃除が大変そうだ。
空き教室は掃除場所になっていないし、美化委員である俺たちが処理することになるのだろうか。
「おいこら、優歩! 動けないじゃないか! 早くどうにかしてよ! この、のろま!」
プリンが叫んでいた。
まだ動けないみたいだし、このままにしておいたほうがいいかも。なんて意地悪なことを考える俺だった。