隣の席の女子が、夢の中の俺にされたことを毎朝報告してくる
「ねえ、昨日私のプリン食べた?」
隣の席の女子に、突然そんなことを聞かれた。
「……食べてないけど」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶん?」
「いや、食べてない。絶対に」
何しろ、俺は彼女の家に行ったことすらない。
そもそも、こうしてまともに会話するのも初めてに近い。隣の席になって二週間ほど経つが、これまでの交流といえば、落とした消しゴムを拾ってやったくらいだ。
そんな相手にいきなりプリン泥棒の疑いをかけられている。
人間関係というのは難しい。
「そっかあ。じゃあ、やっぱり夢だったのかな」
「……夢?」
「うん。昨日の夢で、あんたが私のプリン食べちゃったの」
なるほど。夢か。
よかった。事件は実在しなかったらしい。
「それでね、私すっごく怒ったんだけど、あんた全然謝ってくれなかったんだよ」
「そうか」
「しかも目の前で美味しそうに食べるの。ひどくない?」
「ひどいな」
「でしょ!」
「ちなみに、そいつは今どこに?」
「そいつ?」
「プリン食べた奴」
「だから、あんただって」
「いや、俺は食べてないだろ」
「夢の中では食べたんだよ」
「じゃあ夢の中で文句を言ってくれ」
「言ったよ。でも謝ってくれなかった」
「だったらもう諦めろ」
「えー、冷たい」
冷たいのはどっちだ。
突然話しかけてきたと思ったら、身に覚えのない罪をなすりつけてくる。しかも反省の色がない。
いや、反省するのは俺なのか? ややこしいな。
「とにかく、夢の中の俺が何をしたとしても、現実の俺には関係ないからな」
「でも顔はあんただったよ?」
「顔が似てるだけの別人だろ」
「声も同じだった」
「よくできた偽物だな」
「そんなに認めたくない?」
「認めた瞬間、俺が謝ることになるだろ」
「謝ってくれたら許すよ?」
「だから何をだよ」
彼女は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「あははっ! あんた、面白いね!」
「どこが?」
「だって、夢の話なのにそんな真剣に否定するんだもん」
「真剣に責められたから真剣に否定したんだろ」
「いや、冗談だってば」
「だったらもう少し冗談らしく言ってくれ」
「ごめんごめん。なんか楽しくなっちゃって」
そう言って、彼女はまた笑った。
どうやら俺は、初めてまともに話した女子を笑わせることに成功したらしい。
喜ばしいことだ。
できればもう少し平和な方法で達成したかった。
「じゃあ、夢のあんたに会ったら謝るように言っといてね」
「どうやって?」
「本人なんだから何とかしてよ」
「本人じゃないって話を今してたんだろ」
「ふふっ。そうだったね」
彼女は満足したのか、ようやく前を向いた。
俺も鞄から教科書を取り出す。
朝から妙なことに巻き込まれたが、まあ、これで終わりだろう。
夢の中でたまたま俺が出てきただけの話だ。
そんなことが何度もあるはずがない。
そう思っていた。
*
それから三日後。
「おはよ!」
「……おう」
「昨日、またあんたの夢見た!」
どうやら、あったらしい。
俺が席に着くのを待っていたのか、彼女は嬉しそうにこちらを向いている。
困ったことに、前回よりずっと楽しそうだ。
「今度は何だ」
「ケーキ食べられた」
「また食い物か」
「そう! しかも全部!」
夢の俺は随分と食い意地が張っているらしい。
せめてもう少しまともな形で登場してほしい。
「それで、また俺が謝ればいいのか?」
「うん!」
「断る」
「即答!?」
「前回と同じ結論だからな。何度聞かれても答えは変わらない」
「えー。でも目の前で全部食べられたんだよ?」
「だったら止めればよかっただろ」
「止めたよ! でもあんた、全然聞いてくれなくて」
「夢の俺、性格悪いな」
「ほんとそれ!」
そこでふと、疑問が浮かんだ。
「ちなみに、そのケーキは誰が用意したんだ?」
「あんた」
「……俺?」
「うん。箱に入れて持ってきたの」
「なるほど」
少し事情が変わってきた。
「それをお前に渡したのか?」
「ううん」
「じゃあ、誰のケーキなんだ?」
「……」
彼女は首を傾げた。
しばらく考えたあと、恐る恐る口を開く。
「……あんたの?」
「そうなるな」
「……」
「……」
「ごめん。私が悪かった」
謝罪が早い。
どうやらこの女子、負けず嫌いではあるが、間違いを認めることはできるらしい。
「わかってくれたならいい」
「でもさあ」
「まだ何かあるのか」
「普通、目の前にケーキ持ってきたら、一緒に食べると思わない?」
「まあ、少しくらい分けてもいいとは思う」
「でしょ!」
「ただ、自分で持ってきたケーキを自分で食べることに、何の問題もないだろ」
「そうだけどさあ」
彼女は不満そうに頬を膨らませた。
なぜ自分の夢の内容にここまで納得がいかないのか。
作ったのは自分の脳だろうに。
「ちなみに何ケーキだったんだ?」
「ショートケーキ」
「美味そうだな」
「すっごく美味しそうだったよ!」
「なら、なおさら夢の俺が食べたくなる気持ちもわかる」
「一口くらいくれてもよくない?」
「……確かにな」
「ほら!」
「夢の俺、ちょっとケチだな」
「自分で言うんだ」
結局、夢の俺への評価は下がった。
無実だったはずなのに。
「じゃあさ、現実のあんたはケーキ分けてくれる?」
「物による」
「ショートケーキだったら?」
「苺はやらんぞ」
「そこは譲ってよ!」
「一番美味いところを譲るわけないだろ」
「夢のあんたと同じじゃん!」
心外である。
俺なら少なくとも、スポンジくらいは分けてやるつもりだ。
「ふふっ。やっぱり面白いね、あんた」
「ケチだと言いたいのか?」
「違う違う。話してて楽しいってこと」
「……そうか」
「うん。また夢に出てきたら報告するね!」
「やめてくれ」
「あははっ!」
彼女は笑いながら前を向いた。
どうやら今後も報告を続けるつもりらしい。
迷惑な話である。
俺は毎朝、平穏に登校して授業を受けたいだけなのだ。
他人の夢に出演した挙げ句、その責任まで取らされるなんて、あまりに割に合わない。
せめて出演料くらいは欲しいところだ。
*
それからも、夢の俺は精力的に活動を続けていた。
ある日は犬になって彼女に飼われ、別の日には校長先生になって学校を潰したらしい。
犬だったときの名前はポチ。校長だったときの退職理由は経営不振だという。
なかなか波乱万丈な人生を送っている。
ちなみに、現実の俺はその間、普通に学校へ通っていた。
同じ顔をした人間同士で、ここまで人生経験に差がつくものなのか。
「ねえ、昨日の夢なんだけど」
「今度は何だ」
「またあんたが出てきた」
「最近よく働くな、そいつ」
「昨日はね、私にすっごい謝ってくれたんだよ」
「何をしたんだ?」
「プリン食べた」
「またかよ」
どうやら夢の俺は、以前の事件から何も学んでいないらしい。
「でもね、今回はちゃんとごめんなさいって言ってくれたの」
「そうか」
「ちゃんと謝れるなんて偉いよね。昨日のあんた、ちょっと見直しちゃった」
「……そうか」
「だから許してあげた」
「寛大だな」
「でしょ?」
「ところで、一つ確認していいか?」
「なに?」
「現実の俺は一度もプリンを食べていないんだが」
「うん」
「夢の俺は二度も食べたんだよな?」
「そうだね」
「なのに、今のところお前から褒められているのは夢の俺だけなんだが」
「ちゃんと謝ってくれたからね」
「犯罪を犯さなかった人間より、犯罪後に謝罪した人間の方が評価されるのか?」
「反省するのは大切だよ?」
「犯罪を未然に防ぐのも大切だろ」
彼女は少し考えたあと、納得したように頷いた。
「確かに。じゃあ、あんたも偉いね」
「……どうも」
「ふふ。よかったじゃん」
よくない。
夢の俺がプリンを二個食べた結果、なぜか現実の俺が褒められた。
褒められた理由もよくわからない。
しかも、それで少し嬉しくなってしまった自分が一番よくわからない。
*
そんなやり取りを続けているうちに、気づけば一か月ほど経っていた。
最近では、俺が教室に入ると彼女がこちらを見るようになった。
最初の頃は、夢に俺が出てきたときだけ話しかけてきたのだが、今では夢を見なかった日も普通に挨拶してくる。
「おはよ!」
「おう」
「今日の夢、聞きたい?」
「聞きたくない」
「えー」
「どうせまた俺が何かしたんだろ」
「今日は違うよ」
「ほう」
「私が宇宙人に連れ去られる夢」
「それは大変だったな」
「うん。でね、その宇宙人が——」
「待て」
「なに?」
「俺は出てくるのか?」
「出てこないけど」
「じゃあ俺に報告する必要なくないか?」
「えー、いいじゃん。聞いてよ」
「俺を夢の相談窓口か何かだと思ってないか?」
「あははっ! 相談窓口って!」
彼女は楽しそうに笑った。
どうやら俺の担当業務は、いつの間にか夢の苦情処理から夢全般の相談へと拡大していたらしい。
給料は出ない。
労働環境としては最悪である。
「それでね、宇宙人がすっごい優しかったの」
「そうか」
「地球に帰りたいって言ったら、ちゃんと送ってくれたんだよ」
「ならよかったな」
「お土産もくれた」
「何を?」
「カニ」
「なんで?」
「知らない」
「宇宙人が?」
「うん」
「地球に帰る人間への土産が、地球産のカニなのか?」
「そこ気になる?」
気になるだろ。
宇宙人と遭遇して持ち帰るものが近所のスーパーでも売っている食材なのは、あまりにも夢がない。
「ちなみに何ガニだったんだ?」
「えーっと、タラバガニ?」
「豪華だな」
「でしょ?」
「宇宙人、いい奴じゃないか」
「うん!」
結局、俺は最後まで話を聞いてしまった。
まあ、宇宙人の話はなかなか興味深かったし、悪くない時間だったと思う。
それに、彼女もずいぶん楽しそうだった。
夢の話を聞くだけであれだけ喜ぶのだから、安上がりな奴である。
*
ところが、最近になって少々困ったことが起き始めた。
夢の俺の評判が、妙にいいのだ。
「昨日のあんた、すっごく優しかったよ」
「また俺が出てきたのか」
「うん。私にプレゼントくれたんだ」
「何を?」
「可愛いポーチ!」
「そうか」
「しかもね、私の好きな色だったの」
「ほう」
「あと、好きなお菓子も買ってきてくれたし、誕生日も覚えててくれた」
「……随分と詳しいな」
「でしょ? ちょっと感動しちゃった」
彼女は嬉しそうに笑った。
なるほど。
夢の俺は、いつの間にか女子への贈り物までできる男に成長したらしい。
以前はプリンを盗んでいたというのに、大した出世である。
「ちなみに、お前の誕生日っていつなんだ?」
「え?」
「誕生日」
「なんで?」
「いや、夢の俺は知ってるのに、現実の俺が知らないのはおかしいだろ」
「別におかしくないと思うけど」
「おかしい。情報量に差がありすぎる」
「情報量?」
考えてみれば、これは非常に不公平な話だ。
夢の俺は彼女の頭の中で活動している。つまり、本人が知っている情報を最初から利用できる立場にある。
一方、現実の俺は何も知らされていない。
試験問題と模範解答を持っている奴と、初見で試験に挑む奴を比較するようなものである。
「とにかく、誕生日を教えてくれ」
「えー、どうしよっかな」
「何を迷うことがあるんだ」
「だって、急に私のこと知りたがるんだもん」
「競争条件を揃えたいだけだ」
「競争?」
「そうだ」
「誰と?」
「夢の俺」
彼女は一瞬ぽかんとして、それから笑い始めた。
「あははっ! 何それ! 自分と張り合ってるの?」
「別に張り合ってない」
「今、競争って言ったじゃん!」
「公平性の話をしてるんだ」
「同じことでしょ!」
どうやら理解してもらえないらしい。
仕方ないので、俺は質問を変えることにした。
「じゃあ、好きな色は?」
「青」
「好きな食べ物」
「オムライス!」
「飲み物は?」
「ミルクティーかな」
「甘いやつ?」
「うん。甘い方が好き」
「なるほど」
「……」
「……」
「ねえ」
「なんだ」
「これ何の時間?」
「情報収集だ」
「ふふっ。私のことそんなに知りたいんだ?」
「夢の俺が知ってることくらいは把握しておきたい」
「そんな理由で?」
「十分な理由だろ」
「変なの」
彼女は笑いながら頬杖をついた。
「でも、なんか嬉しいかも」
「何が?」
「私のこと、いろいろ聞いてくれるの」
「……そうか」
「うん。あんた、あんまり自分から質問してこないじゃん」
確かに、言われてみればそうかもしれない。
これまでは彼女が勝手に話しかけてきて、俺がそれに答えることがほとんどだった。
だからといって、別に興味がなかったわけではない。
単に、聞く機会がなかっただけだ。
「じゃあさ、今度は私から質問していい?」
「何を?」
「あんたの好きなもの」
「……俺の?」
「うん。ずるくない? 私ばっかり答えてるし」
「別にいいけど」
「やった。じゃあ好きな食べ物は?」
「カレー」
「へえ。甘口? 辛口?」
「辛口」
「好きな飲み物は?」
「コーヒー」
「ブラック?」
「砂糖は入れる」
「なんだ。意外と甘党なんだね」
「苦いものを我慢して飲む理由がわからん」
「あははっ! 確かに!」
彼女は笑いながら、次々と質問してきた。
好きな教科、嫌いな食べ物、休みの日に何をしているか。
どうでもいいような話ばかりだったが、不思議と退屈はしなかった。
「じゃあ、最後の質問!」
「まだあるのか」
「私の第一印象は?」
「……は?」
「最初に話したとき、どう思った?」
「プリン泥棒の濡れ衣を着せてくる危険人物」
「ひどっ!」
「事実だろ」
「もっと他になかったの?」
「初対面の女子から窃盗容疑をかけられた経験がないからな。印象の大部分を占めてる」
「もう! あれは夢だったって!」
「俺も最初からそう主張してる」
彼女は笑いながら俺の肩を軽く叩いた。
なかなか乱暴な奴である。
「じゃあ今は?」
「今?」
「うん。今の私の印象」
少し考える。
明るくて、よく笑う。
負けず嫌いなくせに、自分が間違えたときには案外素直に謝る。
それから、どうでもいい話をするのが好きだ。
「……まあ、話してて退屈はしないな」
「……そっか」
彼女は一瞬だけ目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「ふふ。ありがと」
「別に褒めたつもりはないんだが」
「えー、褒めてるじゃん」
「退屈しないと言っただけだ」
「じゃあ、これからも退屈させないように頑張るね!」
「これ以上頑張らなくていい」
「あははっ!」
まったく、人の話を聞かない奴である。
しかしまあ、悪い気分ではなかった。
*
その日の帰り道、ふと思った。
夢の俺は、彼女の好きなものを全部知っていたらしい。
しかし、現実の俺も今日でかなり詳しくなった。
好きな色は青。好きな食べ物はオムライス。飲み物は甘いミルクティー。
それから、誕生日も聞き出すことに成功した。
これで情報格差はある程度解消されたと言える。
問題は、夢の俺がプレゼントまで用意していたことだ。
現実の俺が同じことをする必要はない。
ないのだが。
……。
いや、待て。
そもそも、俺は何を目指しているんだ?
夢の中の自分と競争している時点で、何かがおかしい気がする。
しかも相手は、彼女が寝ている間にしか存在しない男である。
勝ったところで何の得もない。
冷静になって考えれば、実に馬鹿馬鹿しい話だった。
よし。
もう夢の俺のことは気にしないことにしよう。
そんな決意をした翌朝。
「昨日のあんた、私の荷物持ってくれたんだよ!」
「……ほう」
「すっごく優しかった!」
俺は決意を撤回した。
早すぎるとは思う。
だが、事情が変わったのだから仕方ない。
どうやら夢の俺は、まだ俺と競争するつもりらしい。
「それでね、すっごく重い荷物だったのに、嫌な顔ひとつせず持ってくれたんだよ」
「ほう」
「しかも、私がありがとうって言ったら、笑ってくれたの」
「随分と愛想がいいな」
「現実のあんたとは大違いだね」
聞き捨てならない。
「待て。俺だって荷物くらい持てるぞ」
「知ってるよ?」
「じゃあ、なぜ俺の評価が下がるんだ」
「だって、持ってくれたことないじゃん」
「頼まれたこともないだろ」
「あ、そっか」
そっか、ではない。
夢の俺は、彼女が困っている場面に都合よく登場できるらしい。
一方、現実の俺にはそんな機会すら与えられていない。
これでは公平な比較ができないではないか。
「……鞄、持つか?」
「え?」
「重くないのか」
「全然。今日、教科書あんまり入ってないし」
「そうか」
「……」
「……」
「もしかして、持ちたいの?」
「そういうわけじゃない」
「じゃあ何?」
「俺にも荷物を運ぶ能力があると証明しておきたかっただけだ」
彼女は一瞬黙った。
そして、机に突っ伏した。
「あはははっ! 何それ! 誰に証明するの!」
「お前だよ」
「私!?」
「お前が夢の俺ばかり評価するからだろ」
「だって、あんた何もしてないじゃん!」
「だから今しようとしたんだ」
「ふふっ、もう! お腹痛い!」
何がそんなに面白いのか。
俺はただ、正当な評価を要求しているだけなのに。
「じゃあさ、今度重い荷物あったらお願いしていい?」
「もちろんだ」
「ほんと?」
「ああ。ただし、持てる範囲に限る」
「夢のあんたは何でも持ってくれたよ?」
「そいつに重量制限はないのか?」
「ふふっ。じゃあ現実のあんたは無理しなくていいよ」
「……そうか」
「うん。ありがとね」
彼女は笑いながらそう言った。
まだ何もしていないのに礼を言われた。
どうやら現実の俺にも、少しは勝ち目があるらしい。
*
翌日、夢の俺は数学教師になっていた。
正確には、教師でもないのに彼女に数学を教えていたらしい。
無資格で教えること自体は問題ないと思うが、こいつは何かと職業を転々とする男である。
「昨日のあんた、めっちゃ頭よかったよ」
「それはよかったな」
「数学教えてもらったんだけど、説明がすっごくわかりやすかった」
「ほう」
「おかげでテスト満点だった!」
「夢の中で?」
「うん!」
それは何よりだ。
夢の中で勉強し、夢の中で試験を受け、夢の中で満点を取る。
現実の成績には一切反映されない、実に効率の悪い学習方法である。
「ちなみに、何を教わったんだ?」
「二次関数」
「今やってるところか」
「そうそう。現実でもあれくらいわかりやすかったらいいのに」
「俺の説明を聞いたこともないくせに」
「じゃあ教えてよ」
「いいぞ」
「えっ、いいの?」
「数学くらい教えられる」
「じゃあ今日の放課後、ちょっと付き合ってくれる?」
「構わない」
「やった! ありがと!」
彼女は嬉しそうに笑った。
どうやら俺は、夢の自分に対抗するために放課後の予定を埋めてしまったらしい。
まあ、数学は嫌いではない。
それに彼女は、夢の俺の説明を随分と気に入っていたようだ。
現実の俺の実力も、一度見せておく必要があるだろう。
*
「……おかしいな」
「どうしたの?」
「答えが合わない」
放課後の教室。
俺は目の前の問題集を睨んでいた。
彼女に勉強を教え始めて三十分。
ここまでは順調だった。
ところが、最後に解いた問題だけ、どうしても答えが合わない。
「計算ミスじゃない?」
「その可能性はある」
「見直してみたら?」
「今してる」
「ふふ。先生、大丈夫?」
「先生と呼ぶな。まだ正式に就任していない」
「就任する予定あるの?」
「ない」
彼女は笑いながら、俺のノートを覗き込んだ。
「あ、ここじゃない?」
「どこだ?」
「マイナスつけ忘れてない?」
「……」
確認する。
確かに、マイナスが抜けていた。
「……正解だ」
「やった!」
「よく見つけたな」
「へへ。先生のおかげです」
「先生のミスだけどな」
「あははっ!」
彼女は楽しそうに笑った。
まったく、情けない。
夢の俺は完璧な説明で彼女を満点に導いたというのに、現実の俺は初歩的な計算ミスを指摘されている。
教える立場が逆転してしまった。
「でも、わかった気がする!」
「本当か?」
「うん。さっきまで全然わかんなかったところも、なんとなく」
「なんとなくか……」
「最初よりは進歩したでしょ?」
「まあな」
彼女は満足そうにノートを閉じた。
「ありがとね。結局こんな時間まで付き合ってもらっちゃった」
「別に。俺も復習になったし」
「ふふ。夢のあんたより、ちょっと頼りなかったけど」
「それは言わなくていい」
「でも、現実のあんたに教えてもらえてよかったよ」
「……そうか?」
「うん。一緒に考えるの、楽しかったし」
彼女はそう言って笑った。
夢の俺は、彼女に満点を取らせたらしい。
現実の俺は、一問間違えた。
だが、本人が楽しかったと言っているのだから、これはこれで悪くない結果だろう。
少なくとも、完全敗北ではない。
「ちょっと飲み物買ってくる」
問題集を閉じて席を立つ。
「ミルクティーでいいか?」
「え?」
「お前の分。甘いやつが好きなんだろ」
「……覚えててくれたんだ」
「前に聞いたからな」
「ふふ。なんか嬉しい」
「そうか。じゃあ、ついでに買ってくる」
「ありがと!」
彼女は嬉しそうに笑った。
*
それからも、夢の俺の活動は続いていた。
ある日は彼女を助けるために空を飛び、別の日には料理人になって豪華なフルコースを振る舞ったらしい。
ついに物理法則まで無視し始めた。
現実の俺がどれだけ努力しても、飛行能力を身につけるのは難しい。
この競争には、根本的な問題がある。
もっとも、最近は彼女も夢の俺を褒めるばかりではなくなった。
「昨日のあんた、すっごく優しかったんだけどさ」
「ほう」
「なんか、ちょっとつまんなかった」
「贅沢な奴だな」
「だって、何言っても肯定してくるんだよ?」
「素晴らしい人格者じゃないか」
「うん。でも、なんか違うんだよね」
「理想が高すぎるだろ」
「現実のあんたなら、絶対変なこと言い返してくるじゃん」
「俺は別に変なことなど言ってないが」
「ほら、そういうところ!」
「どこだよ」
「ふふっ。そういうところが好き」
「……」
「……あ」
彼女が一瞬、口を閉じた。
「好きっていうか、面白いって意味ね」
「わかってる」
「うん」
なぜわざわざ訂正したのだろう。
好きという言葉にも色々な意味がある。
例えば、俺はカレーが好きだが、カレーと結婚したいわけではない。
それと同じだろう。
「でもさ」
「なんだ?」
「夢のあんたって、最近ちょっと完璧すぎるんだよね」
「そうなのか」
「うん。何でもできるし、すごく優しいし」
「理想的じゃないか」
「でも、現実のあんたの方が話してて楽しいかな」
「……ほう」
「ふふ。何その顔」
「いや、ようやく公平な評価が下されたと思ってな」
「また張り合ってる」
「張り合ってない。事実を確認しただけだ」
「あははっ!」
彼女はいつものように笑った。
俺も、それ以上は何も言わなかった。
ただ、少しだけ気分がよかった。
夢の俺がどれだけ優秀だろうと、現実の俺にも勝っている部分があるらしい。
なかなか悪くない。
*
「昨日、あんたと一緒に帰る夢見た」
朝、教室に入るなり、隣の席からそう報告された。
「今度は何をしたんだ」
「何もしてないよ」
「珍しいな」
「普通に一緒に帰っただけ」
「帰宅くらいなら俺にもできるぞ」
「知ってるよ」
どうやら夢の俺は、最近になってようやく普通の高校生らしい生活を送るようになったらしい。
以前は犬になったり、学校を潰したりしていたことを考えれば、大きな進歩である。
「それでね、帰りながらずっと話してたの」
「何を?」
「んー、覚えてない」
「何だそれ」
「でも、すっごく楽しかったよ」
「そうか」
「うん。気づいたら家に着いちゃってて、そこで目が覚めた」
「ちゃんと送り届けたのか。夢の俺も随分とまともになったな」
「ふふっ。そうだね」
彼女は楽しそうに笑った。
最近は夢の俺が何か悪事を働くことも減っている。
おかげで、現実の俺が朝から謝罪を要求される機会も少なくなった。
実に平和なことである。
「でもさ、最近は夢にあんたが出てこなくてもいいかなって思うんだよね」
「ついに飽きられたか」
「そうじゃなくて」
「じゃあ何だ」
「だって、朝になったら会えるし」
「……」
「私、毎朝あんたと話すの結構楽しみにしてるんだよ?」
彼女はそう言って笑った。
……なるほど。
どうやら現実の俺は、彼女にとってそこそこ重要な存在になっていたらしい。
毎朝の苦情処理が評価されたのだろうか。
だとすれば、随分と長い試用期間だった。
「……そうか」
「うん!」
「まあ、俺も別に嫌ではないけどな」
「えっ、ほんと?」
「毎朝、身に覚えのない罪を責められるのは勘弁してほしいが」
「あははっ! もう最近はそんなことしてないじゃん!」
「これまでの実績があるからな。簡単には信用できない」
「ひどいなあ」
彼女は笑いながら、机に頬杖をついた。
「そういえばさ、私たちって一緒に帰ったことないよね」
「そうだな」
「毎朝こんなに話してるのに」
「確かに」
「じゃあ今日、一緒に帰らない?」
「……今日?」
「うん。何か予定ある?」
「いや、特には」
「じゃあ決まり!」
「随分と早いな」
「嫌なの?」
「別に嫌とは言ってないだろ」
「ふふっ。じゃあ放課後ね!」
彼女は満足そうに笑い、前を向いた。
どうやら今日の放課後は、彼女と一緒に帰ることになったらしい。
夢の俺が先に経験しているのは少々気に入らないが、まあいい。
帰宅に関してなら、現実の俺にも十分勝算がある。
*
「お待たせ!」
放課後。
鞄を持って教室を出ようとしていた俺のところへ、彼女が駆け寄ってきた。
「別に待ってないぞ」
「えー、待っててくれたんじゃないの?」
「ちょうど帰るところだった」
「ふふっ。そっか」
嬉しそうに笑うと、彼女は俺の隣に並んだ。
「じゃあ行こ!」
「おう」
こうして俺たちは、初めて二人で学校を出た。
とはいえ、特別なことが起きるわけではない。
いつも通りの通学路を、いつもと違う相手と歩くだけだ。
「今日の英語の小テスト、どうだった?」
「まあまあ」
「最後の問題、何書いた?」
「覚えてない」
「えー、教えてよ」
「覚えてないものは教えられないだろ」
「絶対覚えてるでしょ」
「……過去形にした」
「あっ、やっぱり?」
「お前は何にしたんだ?」
「現在形」
「そうか」
「……間違えたかな?」
「残念ながら」
「うわー、最悪!」
彼女は大げさに肩を落とした。
「次も勉強教えてよ」
「英語は専門外だ」
「数学は教えてくれたじゃん」
「数学の教師免許も持ってないけどな」
「あははっ! じゃあ何なら教えられるの?」
「夢の俺の危険性についてなら、いくらでも講義できるぞ」
「それ一番いらない!」
彼女は声を上げて笑った。
相変わらず、よく笑う奴だ。
こんなに簡単に笑ってくれるなら、世の中のお笑い芸人も苦労しないだろう。
もっとも、俺は別に笑わせようとしているわけではないのだが。
「でも、なんか不思議だね」
「何が?」
「こうして二人で帰ってるの」
「そうか?」
「うん。最初は全然話したことなかったのに」
「まあな」
「今じゃ毎朝話してるし、一緒に勉強もしたし」
「全部お前の夢が原因だけどな」
「ふふっ。そうだね」
「感謝すべきか迷うところだ」
「感謝してよ。おかげで仲良くなれたんだから」
「……それはそうかもしれないな」
彼女は少し驚いたようにこちらを見た。
「えっ、素直」
「何が?」
「いつもなら絶対何か言い返すのに」
「俺だって事実は認める」
「ふふっ。そっか」
そう言って、彼女はまた笑った。
確かに、こいつが夢の話をしてこなければ、俺たちは今でもほとんど話さないクラスメイトだったのだろう。
そう考えると、夢の俺にも多少は感謝すべきなのかもしれない。
……いや、待て。
あいつはプリンを盗んだだけだ。
感謝する相手としては不適切だろう。
*
それからも、俺たちは他愛ない話を続けた。
気づけば、ずいぶん長いこと歩いていた。
普段ならとっくに家に着いている時間だ。
別に遠回りをしたわけではない。
ただ、歩くのがいつもより少し遅かっただけだ。
「ねえ、あんたって休みの日もそんな感じなの?」
「どんな感じだよ」
「なんか、ずっと変なこと考えてそう」
「失礼な奴だな」
「あははっ! 違うの?」
「休みの日くらい普通に過ごしてる」
「例えば?」
「寝たり、ゲームしたり」
「普通だね」
「普通の人間だからな」
「そこはちょっと疑ってる」
「なぜだ」
「だって、夢の自分と本気で張り合う人、初めて見たもん」
「……」
それを言われると弱い。
確かに、夢の自分に対抗するために、わざわざ彼女の好みを調べたり、勉強を教えたりした。
冷静に考えれば、かなり馬鹿げた行動だったと思う。
そもそも夢の俺に勝ったところで、何か賞品がもらえるわけでもない。
だが、不思議と後悔はしていなかった。
そのおかげで、こいつのことを色々知れたのだから。
「でも、私あれ嬉しかったよ」
「何が?」
「好きなもの聞いてくれたこととか、勉強教えてくれたこととか」
「……そうか」
「あと、ミルクティー覚えててくれたのも」
「そんなこともあったな」
「ふふっ。あんた、意外と優しいよね」
「意外とは余計だ」
「だって、最初はもっと冷たい人だと思ってたんだもん」
「プリン泥棒扱いしてきた奴に、優しくする理由があるか?」
「あははっ! まだ根に持ってる!」
彼女は楽しそうに笑った。
その顔を見て、ふと思う。
夢の俺は、随分と彼女に優しかったらしい。
何でもできて、何を言っても肯定してくれて、いつだって格好よく助けてくれる。
そんな男に対抗しようとしていた俺は、結局大したことなどしていない。
勉強を教えれば計算を間違え、飲み物を買った程度で得意げになっていた。
それでも、こいつは嬉しそうに笑ってくれる。
……ああ、なるほど。
どうやら俺は、最初から勘違いしていたらしい。
夢の俺に勝ちたかったわけじゃない。
ただ、こいつに喜んでほしかっただけなのだ。
「……あ、私こっちだ」
気づけば、道の分かれ目に来ていた。
彼女が指差したのは、俺の帰る方向とは反対の道だった。
「そっか。じゃあ、また明日ね」
「ああ」
「今日はありがと。楽しかった!」
「……おう」
彼女は笑って、小さく手を振った。
俺も手を上げて応える。
そして彼女が背を向けたところで、ふと思った。
このまま帰れば、次に会うのは明日の朝だ。
明日になれば、また隣の席で話せる。
その次の日も、おそらく同じだろう。
だが。
できれば、こうして一緒に帰る時間も増やしたい。
学校以外でも会いたいし、夢の話とは関係なく、こいつともっと話していたい。
……。
なるほど。
どうやら、そういうことらしい。
「……なあ!」
「ん?」
彼女が振り返った。
「どうしたの?」
「ちょっと話がある」
「なになに?」
彼女がこちらへ戻ってくる。
俺は少し考えてから口を開いた。
「俺は今まで、夢の俺と現実の俺は別人だって言ってきただろ」
「うん。何回も聞いたね」
「今もその考えは変わらない。ただ、一つ見落としてた」
「何を?」
「夢の俺は、お前が寝てる間しか会えない。でも現実の俺は、こうして一緒に帰れる。休日だって会おうと思えば会える」
「……うん」
「つまり、最初から俺の方が圧倒的に有利だったんだよ」
「……まだ張り合ってたんだ?」
「いや。もうやめた。そもそも勝ち負けの問題じゃなかった」
「どういうこと?」
「俺は、お前と話すのが楽しい。今日みたいに一緒に帰るのも、またしたいと思ってる」
彼女は黙って俺を見ていた。
いつもなら、このあたりで笑いながら何か言い返してくるところだ。
だが、今日は違った。
どうやら俺が何を言おうとしているのか、薄々察しているらしい。
……参ったな。
今さらになって、夢の俺が少し羨ましくなってきた。
あいつはどれだけ馬鹿なことをしても、朝になればいなくなる。
だが、現実の俺は違う。
ここで失敗したところで、明日もこいつの隣に座らなければならないのだ。
随分と分の悪い勝負である。
それでも。
明日の朝も、その次の朝も、こいつと話していたい。
できれば、今日みたいに一緒に帰りたい。
だったら、言うべきことは一つだろう。
「……だから、これは夢の俺には関係ない。現実の俺が、自分で決めたことだ」
「……うん」
「お前が好きだ。俺と付き合ってほしい」
彼女はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと笑った。
「……うん」
「……うん?」
「私も好きだよ」
今度は俺が黙る番だった。
彼女は少し照れたように笑いながら、続けた。
「夢のあんたじゃなくて、現実のあんたが好き」
「……そうか」
「うん。だから、よろしくね」
「……おう。こちらこそ」
どうやら、うまくいったらしい。
夢の俺に対抗していたはずが、いつの間にか現実の俺に彼女ができてしまった。
人生というのは、何が起こるかわからないものである。
「ふふっ。でも、びっくりした」
「何が?」
「あんたから告白してくれると思わなかった」
「俺もだ」
「あははっ! 自分でも?」
「まさか夢の俺との競争について考えていたら、告白することになるとは思わなかったからな」
「ほんと変なの」
彼女は笑った。
そして、少しだけ俺の方へ近づいてくる。
「ねえ、じゃあさ」
「なんだ?」
「明日からも、夢の報告していい?」
「……」
なるほど。
交際が始まったからといって、これまでの習慣がなくなるわけではないらしい。
むしろ、今後は彼氏として夢の苦情処理まで担当させられる可能性がある。
なかなか厳しい労働環境だ。
「一つ条件がある」
「条件?」
「夢の俺が何か悪いことをしても、現実の俺に責任はないからな」
「えー、彼氏なのに?」
「彼氏でもだ」
「じゃあ、夢のあんたがまたプリン食べたら?」
「謝らん」
「ケチ!」
「ただし」
「ん?」
「現実のお前がプリンを食べたいなら、買ってやる」
彼女は一瞬ぽかんとして、それから嬉しそうに笑った。
「ふふっ。じゃあ、明日一緒に買いに行こ!」
「……まあ、いいけど」
「やった!」
どうやら俺は、夢の自分が食べたプリンの代金を、結局支払うことになったらしい。
実に理不尽な話である。
もっとも。
今回は、別に悪い気はしなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




