君は浪漫の騎士
君は浪漫の騎士 (The Romantic Warrior)
ペティナイフで冬野菜を小口に切ってゆく。ステンレスの深めの四角いバットをみるみると埋めてゆく蕪や京人参、れんこん、ポロねぎは、どれも皆同じ大きさで、元からそのカタチであったように見えるから不思議だ。セクラの手の動きは滑らかで、しかしちょっともあせることはない。ゆったりと構えて仕込みをするセクラは、随分と大人に見える。
(かっこいいなあ…)
タイプを打つ手を忘れてしまうぐらい、セクラの仕込みに見とれている。そんなミリを見て、セクラは手を止めないまま苦笑いをする。
「ミリ、それで話の続きは」
はっとして顔を赤くしたミリは、モニタを覗き込むふりをして取り繕う。
「いや、これまでだって私のまわりに、カッコいい男の人ならいたと思うよ」
わざわざ厨房のそばのレジカウンターまで持ってきた経理のノートパソコン。だのに、キーをタイプする音はもう随分と聞こえていない。
「でもね、ただカッコいいだけ。私の心には何も響いてこないんだよ」
みんなが言うみたいに、胸がドキドキしたり、その人のことばかり考えてしまう。そんなことって、ほんとにあるのかなあ。
一つのことに夢中になる《《たち》》のミリは、中学の時にパリで見た給仕の優雅で洗練された仕事に魅了されてから、それになるための準備に一筋で、この小さなフレンチレストラン、『Plage secrète』のフロアマネージャーに抜擢された今の今まで、恋らしい恋をしたことがない。なのにそんな話になったのには理由があって、今朝方ミリが打ち合わせをしていたある一組のカップルのせいなのだ。それはミリの前任者、元『Plage』のフロアマネージャーであるマキタとそのパートナーで、二人は明日の夜、ここで結婚披露パーティーを行うことになっている。
「マキタさんもメグミさんも、よくお似合いで……、ああ、大人だなあ」
セクラは黙って笑顔を見せながら、今度は丸椅子に腰掛け、ジャガイモの皮を剝き始める。ミリといえば、ポンヤリ表情を緩ませ、夢見るような瞳をそこらへんの上空に向けている。ミリはここの仕事を引き継いだ時に見たマキタの給仕に一目でとりこになって、それからマキタのファンなのだ。
マキタはテーブルの雰囲気を読むのに長けている。ワインを勧めたり、料理を並べたり。そんなありきたりの給仕であっても、マキタにかかれば、客同士の楽しい会話を邪魔するどころか、むしろ盛り上げるような絶妙のタイミングで行われる。そしてマキタが訪れたテーブルは、訪れる前よりも華やぐのだ。シェフとフロアマネージャー、たった二人の小さなレストラン『Plage secrète』。常設のテーブルは5台と、多くはない。しかしそれぞれのテーブルで、客の過ごすひとときはそれぞれのテンポで進む。マキタはその全ての流れを把握しながら、しかし客はすこしも束縛を感じず、日常を忘れて、美味しい料理とワインの陶酔にゆったりと身をゆだねるのだ。そんなマキタのかもし出す大人のゆとりと色気に、ミリは参っている。
(ああ、いつか私もマキタさんみたいになるんだ)
そんなミリだったから、今回の話はすごく気を入れている。
マキタは都内でも有名なフレンチレストランである『Metropolis』でサブチーフとして先月から働いている。『Plage』の頭脳であるフロアマネージャーのヘッドハント。フツーなら大慌ての大怒りになりそうなものだが、気の合う相棒の栄転を、セクラも、それから『Plage』のオーナーも喜び、笑顔で送り出した。そしてその後継に、ニューヨークを拠点に活動している新鋭芸術家であるオーナー、その奥さんの姪っ子であるミリが抜擢されたのだった。
・・・
マキタのパートナーのメグミはしっとりと落ち着いた美人で、会計士をしているそうだ。控えめに大人の色気をかもし出すマキタとはお似合いで、打ち合わせの最中、ミリはずっとはしゃぎっぱなしだった。マキタさん、見ててくださいね、私、絶対ぜったいいいパーティーにして見せますから!
「ミリちゃん、頑張りすぎて当日にぶっ倒れて、僕の出番がないようにしてくれよ」
マキタが愉快そうに冗談を言って、そんな、主賓に給仕させるなんて!とミリが慌てて、メグミが可笑しさに肩を揺らしながら口を押さえる。そんなメグミを、マキタは横目で愛おしそうに眺める。マキタの温かなまなざしに気付いて、メグミがちょっと微笑む。交わされる視線。テーブルの上でそっと重ねられる手。ああもう、いいなあいいなあ大人の恋! 恋を知らないミリは、恋に恋して胸をキュンキュンさせる。
打ち合わせも終わり、二人が引き上げる頃になってようやく、厨房からセクラが顔を出した。
「やあ、悪い、お構いしないで」
マキタは、いやこっちこそ、準備で忙しい時間を割いてもらって恐縮だよ、と感謝する。セクラはメグミと面識があるようだ。やあひさしぶり、とセクラは言って、メグミは会釈する。セクラはそれからマキタの肩にぐわりと腕を回して、「羨ましいぞ、幸せ野郎!」と笑った。
「長年の相棒をほっぽりだして、幸せになりやがって!」
マキタに一人置いていかれて、俺はさびしいよう、アオーン! そう言って犬みたいにマキタにじゃれつく振りをする。セクラにしては珍しいはしゃぎっぷりに、ミリはびっくりする。
親しいもの同士にだけ許される乱暴で熱い祝福。マキタは素直にそれを受け止めて、心からの笑顔を見せる。
「まあ俺がいなくてもさ、セクラにはかわいくて頼りになる相棒が来たじゃない」
マキタにいきなり水を向けられて、ミリは顔を真っ赤にする。それから、「どこだ、俺のかわいくて頼りになる相棒は、どこにいるんだあ」とあらぬほうを向いて必死に探すふりをしているセクラに「こらあ!ここにいるだろ!」と声を荒らげて、開店前の小さなレストランに笑い声が満ちる。
・・・
「私だっていつか、大人の恋をするんだ」
レジカウンターにうっとりもたれて、ミリは夢想心たっぷりのため息をつく。
「じゃあまずは、相手を探さなけりゃな」
あんなにたくさんあったバスケットのジャガイモ。なのに、ミリが憧れの海にとっぷりプカプカしている間に、セクラはだいたい剝き終ってしまっている。皮で一杯になった足元のバケツを脇に寄せると、バットに積まれた薄オレンジ色のジャガイモをいくつかの山に分ける。ヴィシソワーズ、温野菜サラダ、シチューの付けあわせと、ジャガイモには今夜もたくさん活躍してもらわねばならない。
「んん、それなら全然心配してないんだ」
いつか私のことを好きになってくれる人が、きっとやってくるよ。あっけらかんとしたミリの態度はむしろ潔くて、実にミリらしい。
心の準備は万全。そんな感じのミリは、まだ見ぬ恋愛相手とのやり取りを考えるのに忙しい。
私と彼との恋は『大人の恋』だからね、お互いのことを思いやって、ゆっくりじっくり、二人で過ごすの。
昼間、それぞれでいるときにあったちょっとしたこと。落ち葉の色がきれいだったとか、流行のコートの形とか、ランチ食べていて思いついたソテーの味付けとか、そんなちょっとしたこと。夜、二人きりになったら、昼の間にポケットにためていたそんな沢山の『ちょっとしたこと』をテーブルに並べて、表にしたり、裏にしたりして、お互いがどう思ったか話すんだよ。
彼の考え方は私とはちょっと違ってて、そんな彼の話を、私はいつも新鮮なキモチで楽しく聞くの。でも、彼は私が好きなものを好きで、私の好きなことが好きだから、ソファーに二人で座って、私の好きなYouTubeの動画を見て一緒に笑うんだよ。
彼にだったら、私は一生懸命をしてあげる。疲れたよ、って彼が言ったら、お疲れ様、そう言って肩をもんであげる。お腹すいた、って言われたら、ちょっと待っててね、そう言ってじゃがいもの皮をむくの。
「ジャガイモ? 何でまた」
うん、だって男の人って、肉じゃがとか、ポテトとか、カレーとか、コロッケとか、じゃがいも好きでしょ。
「ミリ、お前また、どこでそんなつまらない情報を(笑)」
じゃ、じゃあさ、セクラさんは、じゃがいも、好きじゃないの?
「…いや、好きだ」
なるほどなあ、とセクラは裸にされたばかりのつるつるとした楕円体をひとつ手にとって、しげしげと眺める。
ほらね。言ったとおりでしょ。納得したセクラの顔を見て、ミリは満足げに笑う。
そうやって、彼も私のことを大切にしてくれて、そうやってお互い尊敬しあって、ゆったり寄り添って、二人で成長してゆくの。マキタさんとメグミさんみたいに、優しくお互いを求め合ってね。
セクラは空想の彼の話に夢中になっているミリを微笑みで眺めながら、黙っている。
だけどね、そんな彼はただ大人しいんじゃないんだよ、胸の中にはわたしへの思いが一杯で、熱くあつく燃えていて、私がピンチになって泣いている時には、私のことだけを考えて、まっすぐに私のところに走ってきて、私を守ってくれるんだ。だってまだ私は駆け出しの新米だし、マキタさんみたいな素敵なフロアマネージャーになるまでには、もう少し時間がかかるからね。
「ミリ、お前今まで、そんなピンチになったことあんの?」
「…ない」
ミリはロマンチストだなあ。笑ってセクラは今度はルッコラのより分けを始める。
いいじゃんロマンチストだってさ。ミリはふくれる。だって、今までドキドキしたことない私の恋なんだよ、私のところに駈けてきてくれる彼なら、それぐらい素敵なはずだよ。
いまどきそんなロマンティックな白馬の騎士みたいなやつに憧れてるのか、とセクラはあきれて、「じゃあ、いつかミリの所に、そんなロマンのキシさんが来てくれるといいな」とからかった。
「こら! 私の夢の彼に変な名前つけるな!」
キシさんなんて! 私の彼は町内会のおじさんかよ!
セクラは愉快そうに肩を揺らして、今度はスイーツ用の果物のより分けにかかる。季節のいちご、柿、南の島から届いたマンゴー。見た目のよいものは飾りつけに。そうでないものはコンポートに使うか、新鮮なフルーツソースにする。
ミリの話は尽きそうにない。そう思ってセクラは自分から話を変える。
「ところでミリ、***食販からの納品の件だが」
「あっ!」
聞いてミリは、大慌てにスマホとでかいスケジュール帳をテーブルに並べる。
「ご、ごめんセクラさん」
ええと、ええとね。
またうっかりしていた。またやってしまった。夢の世界からリアルの厳しさに引き戻されて、ミリはしょげかえる。ああ、まだ自分は、マキタさんのような立派なフロアマネージャーからは程遠い。ぜんぜん一人前じゃなくて、大人のヨユウもユトリもない。
自分で言うのもなんだが、ミリは会計業務なら得意だ。それにフロア業務も、いやと言うほど練習している。だけど問題は、スケジュール管理。
こんな小規模なレストランの『Plage』でも、契約先は驚くほど多くて、お客さんからの予約や問合せもひっきりなしにある。それぞれの都合をすり合わせて、空き時間にどんどん手を打つ。しかし予定変更はしょっちゅうあるし、それぞれの期限はせまる。『Plage』ひと月目のミリは、まだ業務の全体を掴んでいるとは言いがたい。
しかしセクラはとりなすように言う。
「いやミリ、俺のほうで先方と都合をつけておいた」
「すみません…」
小柄なミリは縮こまって、余計に小さくなる。その形のいい頭を、セクラはポン、とする。
「まあ気にするな。お前はまだここに来たばかりなんだし、この店は俺たち二人で回しているんだからな」
お前はよくやっている。外回りのことなら、だんだん慣れればいい。
(ああ、セクラさんは大人だなあ…)
セクラに上手にフォローされてばかりのミリは、自分の至らなさを噛みしめる。いつか、お客だけでなく、店で働く人にも楽しい時間をあげたい。そんな夢を持っているミリの目には、セクラの頼もしさは、実に眩しく遠いのだ。その一方で、どこかセクラに甘えたくなる気持ちもあって、ミリは自分の気持ちを不思議に眺める。
***
パーティー当日の夜はよく晴れたけど冷え込んで、こじんまりとした『Plage』の店内の暖かさが、招待客には先ず何よりのご馳走になった。広くはない店だから、大勢を受け入れるのは難しい。その代わり、招待された客は、美味しい料理と心からのもてなしを受ける。新郎新婦のごく親しい友人や、開店当初から店を応援していた常連客、深い交流のあった取引先など、結婚披露パーティーの招待客は50人に満たない。しかし、だれもが互いを見知っており、店の中はすぐに気の置けない親しい雰囲気で満ちる。
店にゆかりのある人たちが集まったことで、パーティーは図らずも『二代目フロアマネージャーお披露目』の機会となった。大切なパーティーの提供という重圧もあって、ミリの給仕は序盤には硬さがあった。しかし招待客からの温かな声がけに緊張をほどかれて、それはすぐにのびのびとしたものになった。中学の時にこの道を志したぐらいだから、ミリの給仕は堂に入っており、これなら『Plage』の今後は安心だなという招待客たちの声援をもらって、単純なミリはニコニコと喜ぶ。
「みなさん、なんともキュートでしっかり者のフロアマネージャーが、今の『Plage』を盛り上げてくれています。今は商売敵となってしまった私ですが、これで心置きなくお客の取り合いができそうです」
どうぞ『Metropolis』の方にも足をお運びください。新郎マキタのそんな軽口に場は盛り上がって、ミリはパーティーの成功をようやく信じることができた。
小規模とはいえ、店の許容上限に達しようかと言うぐらいの招待客だったから、セクラはもう厨房にこもりっきりで、鉄火場の暴れん坊のように一人奮闘している。しかしその顔は終始明るく、長年の相棒の門出と幸せを心から喜んでいるのが、ミリにもよく分かるのだ。
ビュッフェ形式の料理はどんどん空になる。皿を下げるミリは、招待客が陰の功労者であるセクラの腕を賞賛しているのがよく分かって嬉しくなる。
「白身魚のフリッター終わりです!」
ミリのそんな声は厨房に嬉しく響き、忙しいセクラをますます奮い立たせる。普段はさせてもらえない料理のテイスティング。だけど今夜は特別。肩を寄せて確かめあったその美味しさに二人は頷き合って、
(これこそフロアマネージャーの醍醐味だよね!)
ミリの心はセクラとチームを組めた幸せにあふれる。
「だろ、いい味だろ? いやあ、ここぞって時に腕前を披露できる俺って、さすがだよなあ」
「そうそう、さすがのセクラさん! すごいすごい」
「ミリお前、全然心こもってねーぞ!」
わははと笑い合ってから、新しい料理の皿を受け取る。今夜はセクラさん、すごくはしゃいでるなあ。フロアに戻りながらミリは嬉しく思う。
・・・
パーティも半ばにさしかかろうとするころ、嬉しいサプライズがあった。スケジュールが合わずにいた来日中のオーナー夫妻が、無理をして顔を出してくれたのだ。
「ミリ!」
「陽子おばさん!」
久しぶりの再開に二人は手を握り合う。マキタといえば、ぽっと出の若造にチャンスをくれた恩人の思いがけない登場に、ただ目を赤くして頭を下げた。
ミリが驚いたことに、オーナーと叔母の陽子は、新婦のメグミともごく親しく言葉を交わすのだ。
「めぐちゃんはお店が軌道に乗り始めた頃に、ここでアルバイトしてたのよ」
陽子が懐かしそうに昔を振り返って、まだ学生の頃です、もうだいぶ昔になりましたね、とメグミが恥ずかしそうに言う。そうか、二人の馴れ初めはそんな風だったのか。まだ大学生で何も分からないメグミに、給仕の仕事を優しく教えるマキタ。憧れる二人の恋の始まりを想像して、ミリは一人キュンキュンする。そしてふと思い至る。
(あれ? ってことは、メグミさんはセクラさんとも一緒に働いていたってことじゃん。じゃあなんで、二人はあんなそっけない話し方なんだろ?)
陽子とメグミは、アルバイト時代のメグミの武勇伝の話に夢中だ。めぐちゃん、メインディッシュのすずきをお客のひざの上に盛り付けちゃったのよね、いやそんな、あんもう、陽子さんとっくに忘れているかと思ったのに、忘れるわけないわよ、私もそのテーブルにいたんだから、ああもう昔みたいに私をいじらないでください、だめよ、今日を逃したら、次いつめぐちゃんをいじれるか分からないもの、あなた昔から恥ずかしいと本当に可愛くなるんだから、それが見たくて急いで来たんだもん、ああんもう陽子さん!
そんなパートナーの恥じらいを微笑みで見ながら、マキタはミリのきょとんとした表情を見逃さない。マキタは少し困った顔をして、しかしその目は、すぐにきっぱりとした意志を映す。
・・・
パーティーも後半に入り、新婦は一旦席を外して、お色直しとなる。ドレスを着たままの歓談は、新婦には実はかなりタフだ。だから衣装を変えるタイミングで裏手に逃げて、一息入れる。
「ミリちゃん、ちょっとメグミを手伝ってあげてよ」
代わりに僕がフロアをやるからさ。そうマキタに言われて、とんでもない主賓にそんなことをさせるなんて、とミリは慌てたが、マキタのフロアマネージャー姿を懐かしむ招待客は歓声を上げる。その声を無下にすることもできず、突然の役割交換となった。マキタのいきなりの登場に嬉しく驚くセクラの声がフロアにもよく聞こえてきて、耳を澄ましていた招待客は喜んだ。タキシード姿のままで華やかに給仕を始めたマキタをチラリと見ながら、ミリはメグミに付き添い、今日のためにきれいに片付けた、普段は休憩室にしている小部屋に入る。
『Plage』は開店当初から披露宴パーティー会場としての需要も見越していたので、小部屋には小さいながら三面鏡とランプが備えてあった。事前の打ち合わせ通り、メグミは肩を出したドレスから、パーティーがお開きとなった後にホテルまで移動できるようなセミドレスに着替えた。それはミリが手伝うほどのことでもなかったから、ドレスを脱いでリラックスしたメグミのスタイルのいい体を、ミリはドアのそばで所在なげに見つめている。
陽子とあんなにはしゃいでいたメグミは今は静かで、そろそろお疲れになったのかな、とミリは思っていたのだが、マキタに耳打ちされて何か考えていたようなメグミは顔を上げると、ミリちゃんには教えておくねと、ミリの目をしっかり見て話し始める。
・・・
ミリちゃん、私が『Plage』でバイトを始めたきっかけ、なんだと思う? 私がここで働き始めたのは、ケンゴの職場だったからなんだよ。
ケンゴ、ケンゴ、と考えて、ミリはそれがセクラの名前であることに思い至る。
ミリが気がついたのを確かめてから、メグミは言葉を続ける。うん、ミリちゃん、いま少し考えたかもしれないけど、私むかし、ケンゴと付き合ってたの。
ケンゴは同じ中学の先輩。調理師学校を出て働き始めたケンゴを追いかけて、大学入学にかこつけてこっちに出てきて、私たちはしばらく一緒に暮らしてた。私はすこしでもケンゴとの時間を増やしたくて、無理やり頼み込んで、ケンゴの職場でアルバイトとして働かせてもらったの。そうして彼、マキタに出会った。
突然始まったメグミの告白に、ミリの心臓は激しく鼓動する。お似合いの二人、大人の恋人、マキタとメグミ。思いやり、優しさ。いたわって、互いへの愛しさを隠さないでいる二人。まるで初めからそうだったみたいな二人。そんな憧れが突然、激しく揺さぶられる。昔セクラさんと一緒に暮らしていたと言ったメグミさん。セクラさんを追いかけて上京したと言ったメグミさん。少しでも一緒にいたいと、ここでアルバイトを始めたメグミさん。そして、マキタさんと出合って、今は新郎新婦の席でマキタさんの隣に座っているメグミさん。セクラさんの彼女だと紹介されて、丁寧に給仕の仕事を教えたマキタさん。その姿の中に何かを見つけたメグミさん。それを手に取ろうとしたメグミさん。それを許したマキタさん。あるいはマキタさんがメグミさんの中に何かを見つけたのかもしれない。とにかく、二人は互いの中にあるものに手を伸ばしあって。
そうして、厨房で一人奮闘するセクラさんからは、フロアの様子は少しも見えなくて。
セクラさんは一人で。
そうして今、セクラさんの元恋人と相棒は、手を取り合って、ここを離れてゆくのだ。
ドキドキで声も出ないミリを見て、メグミはそれ以上何も言わない。ため息を一つついて、新しいドレスに袖を通した。
・・・
青白い顔をして厨房に来たミリを見て、セクラはやれやれ分かっちまったか、と少し困った顔をする。そして、セクラさん、と泣きそうに見上げてくる顔に、ニッと大きな笑顔を見せる。
「まあ、なんだ、色々あったが、あいつらはどっちも、俺には大切な奴なんだよ」
なんだよ、そんな顔すんな、もう過ぎたことだ。
ばか、当事者の俺達がとっくに吹っ切ってるのに、ただ話聞いただけのお前がうるうるしてどうする。
そう言って、ミリの頭をぽん、とした。
セクラの手の大きさを感じて、ミリはびくりとする。
セクラがミリの頭をぽん、とするのはいつもの癖で、
子ども扱いだこんなの!とミリが憤慨してセクラが大笑いするのが常だったが、
(手。セクラさんの手)
頼ってばかりいた存在。寄りかかってばかりいた存在。甘えたかった背中。セクラはミリにとって、随分と大人だった。けれど、その大らかで落ち着いた姿の後ろ側にあった、メグミとの関係。それを聞いてしまってから、なんだか今はセクラを直視できない。
セクラさんは昔メグミさんと暮らしていて、だけどメグミさんは、今はマキタさんのそばにいて。
メグミさんのしっとりとした優しい笑顔。愛しいものを見る目。それは昔は、セクラさんのためだけに向けられていて、
そしてセクラさんはきっと。
ミリは、自分の心がズウンとするのを抑えられずにいる。
セクラさんは、私の知らない顔で、私の知らない優しい目をして、
―――メグミさんに微笑んでいたはずだ。
固まってしまったミリを見て、セクラは困ったように笑う。
ほら、ミリ、パーティーを最後まで回せ。
『Plage secrète』のフロアマネージャー!
陽気に発破をかけられて、ともかく気を引き締め、ミリはフロアに戻る。
・・・
それでもパーティーはにぎやかに進み、
セクラ渾身のスイーツは招待客を嬉しく驚かせ、
皆はこの小さなレストランから巣立つ二人の幸せを、
心の底から祝福したのだった。
・・・
マキタとメグミ。二人並んで店の入り口に立ち、招待客は二人に見送られながら帰ってゆく。オーナー夫妻に肩を叩かれて、再びマキタは目を赤くして、オーナーは可笑しそうに笑う。今度お前の店にお邪魔するよ、ぜひいらしてくださいオーナー、おいおいもうオーナーじゃないぞ、いえ僕にとってはいつまでもオーナーです。じゃあまたねめぐちゃん、陽子さん新居にも是非いらしてください、めぐちゃんもニューヨークにきたときはウチに寄ってね、そんなチャンスなかなかありませんよ、あらチャンスは自分から作るものよ、じゃあマキタ君と幸せにね。それから夫妻はミリを見て、セクラを頼んだよ、そう言って帰っていった。
セクラといえば、もう今日は俺は力を使い果たした、そのうち新居に寄らしてもらうよ、オーナー、陽子さん、またいらしてください、それだけ言って、ヘトヘトな困った笑顔を新郎新婦に見せると、オーナー夫妻の帰りも見送らず、早々に厨房に引っ込んでしまった。もう、セクラさんたら勝手なんだから! ミリは仕方なく一人で二人を見送る。
「ミリちゃん、今日は本当にありがとう。暖かくて素敵なパーティーだった」
マキタはミリの手を力強く握る。
「僕は本当に、どうしてもここで祝福されて、新しい出発をしたいと思っていたんだ」
まったく僕のわがままだったんだけどね。そう言ってメグミと視線を交わす。それは琥珀のように複雑な色をたたえていて、それでもその底に愛が流れていることは、ミリの目にもはっきりとわかった。
「ミリちゃん、セクラを頼んだよ」
マキタはオーナーとまるで同じことを言った。
メグミはもう黙ったまま、ミリの方を見ようとしない。ミリもメグミにどう声をかけていいか分からなくて、じゃあまた、ありがとう、と言って店を出た二人に、またいらしてくださいと頭を下げて、
そうしてお似合いの二人は、寄り添い合うようにして帰っていった。
・・・
ミリは何かが心にカタマリのように残っているのを感じながら、それでも閉店業務に取り掛かろうとして、
そして入り口、新婦のメグミが立っていたすぐそばの椅子に、銀のハンドバッグが置き忘れてあるのに気付く。ミリはそれがメグミの物だとすぐに分かって、
(まだ、走れば間に合う)
急いでレジカウンターの下にしまっておいたマフラーを首に引っ掛ける。それから厨房に声をかける。
「セクラさん、ちょっとメグミさんの忘れ物、渡してくるね!」
厨房からは、おお、とも、ああ、ともつかないくぐもった声が聞こえて、セクラは相当へばっているなとミリは心配する。
「すぐ戻ってくるから、セクラさん、そこで寝ちゃわないでよ!」
そんなことを叫び返して、店のドアを開けると、12月の夜に向かって勢いよく走り出す。
・・・
新郎新婦、二人の宿泊先は大通りのホテルと聞いていたから、そちらに向かい一心に走る。夜9時をだいぶ回り、人通りはまばら、寒さはミリをゆっくりと包囲する。それを振り切るように、勢いをつけて大通りへと角を曲がり、
そして、そこに一人立つメグミを見る。
メグミはコートの前をしっかり閉じて、走ってきたミリを驚きもせずに見つめている。
ミリは少し弾んだ息を隠さずに、メグミの前に立つと、「お忘れ物です」と言って銀のバッグを渡す。その時には、メグミがわざとバッグを忘れたことに気付いている。
メグミは黙って受け取る。その手が少し震えていて、ドレスの生地の薄さをミリは心配する。しかしその震えは寒さからくるものではなくて、それは搾り出すように話し出したメグミの声が同じように震えていることから分かった。
ミリちゃん。
街灯の光を背負ったメグミの表情は、影になってよく見えない。
私は後悔していないんだよ。
ケンゴを捨てて、マキタを選んだこと。
初めからケンゴは、とても優しかった。
相手の何もかもを許容して、
頑張ったね、そう言って許してくれる。
私はケンゴのそんな温かさに惹かれて、押しかけるようにして一緒に暮らし始めた。
でも、マキタに会って、私は自分が本当に求めているものが分かった。
厳しさ。
もっと成長したかった私は心のどこかでそれを欲していて、
自分からケンゴの所に飛び込んだくせに、
ぬるいお風呂に浸かっているような暮らしに、どこかあせってた。
勝手だって、ミリちゃんは思うかもしれないけどね。
そう言って、影になったメグミの顔は笑うそぶりをする。
でもあの時、私は確信したんだ。
二人でいたら、二人ともだめになるって。
ケンゴ。彼の優しさは、私をだめにするって。
そして私をだめにした原因が自分であること。
ケンゴはいつかそれに気づいて傷つくだろう。
「セクラさんはしっかりした人だよ!」
そんな腑抜けじゃない!
あの人の目は、物事をしっかりと見つめて、
大事なことを守り伸ばそうとする。
あの人はチャンスをくれる。
あの人は自分を見つめなおすこと、そんな冷静さを教えてくれる。
ミリは思わず叫んで、メグミはまた笑うようなそぶりをする。
そうかもしれないし、違うかもしれない。
肝心なのは、私が結局ケンゴでなく、マキタを選んだってこと。
でもミリちゃん、あなたにはケンゴは、私とは違うように見えているのかもしれない。
「ケンゴに伝えて。私はあなたのことが嫌いになったから、マキタの所に行ったんじゃないって」
「嫌だ! メグミさんは勝手だ! セクラさんが可哀想だよ」
信頼する相手からそんな酷いことをされて。でも、俺には大事な二人だから、そう言って笑って、今日は一生懸命だったんだよ!
ミリが叫ぶと、メグミは泣きそうな顔になり、それでも笑顔を見せる。
今日、『Plage secrète』でパーティーをしてもらったのは、私たち3人のため。未来を見つめて、新しく歩き出すため。
「分からないよ! 大人の勝手な理屈なんて分からない!」
そうかもね。私たちは勝手で、大切な人の想いを踏みにじって、それでも彼と一緒になることを私は選んで、そして私たちはケンゴに祝福されたいと願っている。
ケンゴは大切な人。でも二人を選ぶことはできなかった。それが私の恋。それだけを伝えたかった。
「ミリちゃん、ケンゴのところにもどってあげて」
泣き笑いのような顔のメグミは、マキタから伝言があるの、と言う。
あいつがあんな風に困ったように笑うとき、それは、苦しみや哀しみ、全てを一人で抱えて飲み込もうとしているとき。
父親が死んで、高校進学をあきらめて、働いて家族を養いながら調理師学校に通うことを決めた時。その時も、あいつはあんな顔をしていた。
俺たちはあいつにあんな顔をさせてしまった。けれどそれでも我儘な俺たちは、優しいあいつに祝福されたかった。そしてあいつには、踏ん切りをつけて、新しい生活へと歩き出して欲しかった。
「どうか私たちの大切なケンゴを、よろしくお願いします」
・・・
薄暗い厨房で、丸椅子に腰掛けている。その姿にいつものゆとりはなく、ただ震えている。押し殺した声。必死にこらえている。大声にならないように。打ち放しの冷たい床に、ぽた、ぽたた、としずくが落ちて、慌てて手のひらで目の周りをぬぐうけれど、しずくはとめどなく溢れ、何度もなんどもぬぐう。
声を出してはいけない、二人に聞こえてしまう。
しかし必死に食いしばる歯の隙間から、引き結んだ口から、悲しみはもれ出ようとして、とても押さえきれそうにない。
声を出してはだめだ、あいつらはきっと振り返ってしまう。
あいつらが幸せになる邪魔を、俺がする訳にはいかない。
俺は最後まで笑い、
そしてあいつらは心置きなく、未来へと歩くのだ。
だからまだ、泣いてはいけない。
あいつらが見えなくなるまで。
あいつらの幸せが見えてくるまで。
だけど、ああ、
メグミ。
マキタ。
俺の前で笑いあう二人。
メグミ、俺に足らなかったものは何だ?
マキタ、笑ってお前を許せるほど、俺は大人じゃない。
溢れる涙の奔流はもうどうしようもなくて、
両手に顔をうずめたセクラは、厨房の暗がりでひとり、声を殺して激しく肩を震わせる。
・・・
セクラさん。
セクラさん。
まってて。
今、私がいくよ。
セクラの哀しみが聞こえて、
夜の町を駈けるミリの足は、ますます勢いよく冷たいアスファルトを蹴る。
セクラさん。
セクラさん。
あなたを一人にはしない。
あなたを暗がりの中に一人いさせない。
あなたは何も悪くなくて、
あなたはしっかりとした人で、
いつも私を支えてくれて、
あなたの微笑みは、なんども私を救ってくれた。
伝えたい。
あなたは優しい人。
あなたは強い人。
あなたはとても勇敢で、
みんなの幸せを守るため、辛さを一手に引き受けて、ひとりで耐えてゆこうとしている。
いるよ。
私がいるよ。
私が守ってあげる。
温かく包みこんであげる。
抱き締めて、もう大丈夫だよって、言ってあげる。
だからいいよ、思い切り泣いても。
泣いて泣いて、
そうして、
いつかあなたが悲しくなくなって、
そのうちお腹がぐーっと鳴って、
ミリ、お前の肉じゃが食いたくなった、
あなたがそう言って笑顔になるまで、
セクラさん、セクラさん、
私は大切なあなたのそばから、
決して決して離れはしない。
・・・
その足音はきっぱりと迷いなく夜の町に響き、
星々は小さな騎士の駆ける勇姿を静かに見守る。
そして、すべての悲しみをひとり引き受けて泣く男の肩を、
小さな手が今、大丈夫だよと言って、
力強く抱きしめる。
(おわり)




