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終わらなかった歌

作者: ピヨちゃん
掲載日:2026/05/17

終わらなかった歌


第一章 雨の葬列と白い花の匂い


雨が、斎場の黒い屋根を細かく叩いていた。春の終わりだというのに空気は冷たく、濡れた喪服の肩がじわりと重い。

祭壇の中央、白菊と百合に囲まれた遺影の中で、彼女は微笑んでいた。

——昔と同じだ。そう思った瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。

笑うと少しだけ右の口角が先に上がる。写真の中のその癖まで、きちんと残っている。

「……久しぶりだな」

もちろん返事はない。けれど、そんな独り言を飲み込めるほど、俺は器用じゃなかった。

名前は。三十二歳。職業欄には、いまだに音楽家と書いている。正確には、ライブハウスを渡り歩く、さほど売れていないシンガーソングライターだ。アルバムは一枚。再生数は伸びず、生活は深夜のバーのアルバイトでつないでいる。

そして、今、目の前に眠っている彼女——川西紗季は、かつて俺が世界でいちばん愛した人だった。

「ご焼香をどうぞ」

スタッフの静かな声に促され、列が少しずつ進む。俺の前には、見知らぬ男がいた。喪主の腕章をつけ、憔悴した顔で会葬者に頭を下げている。紗季の夫だ。

彼は何度も、同じ角度で「本日はありがとうございます」と言った。丁寧で、真面目そうで、少しだけ疲れ切っている。それでも俺は、その姿を見たとき、胸のどこかにひどく醜い感情が湧くのを止められなかった。

——あんたは、あの人を幸せにできたのか。

答えのない問いだった。いや、答えはもう、彼女の最期の形としてここにあるのかもしれない。

焼香台の手前で、ふと背後から囁くような声がした。

「……湊?」

振り返ると、そこにいたのは高校時代の同級生、相沢亮介だった。少しふっくらして、髪の生え際が後退して、けれど笑う目元は昔のままだ。

「やっぱり。来てたんだな」 「亮介……」 「紗季、きっと喜んでるよ。お前が来たら」

喜ぶ、なんて言葉が、今日はひどく残酷に聞こえた。

亮介は俺の顔を見て、一瞬だけ表情を曇らせた。

「お前、この知らせ……っていうか、連絡、誰から?」 「紗季のお母さんから。番号、まだ消されてなかったみたいで」 「そっか」

亮介はそれ以上何も言わなかった。言葉を選んでいるのがわかった。

「……最後、結構つらかったらしい」 「病気、長かったのか?」 「いや、見つかった時にはもう進んでて。半年もなかったって」

半年。

その短さに、息が詰まった。誰かの人生が、たった半年で終わりに向かって傾いていく。その事実を、俺はいま初めて自分の肺で吸い込んだ気がした。

「旦那さんとは……」 と、俺が聞きかけると、亮介は一度、遺影のほうを見た。

「うまくいってなかったって噂は、前からあった」 「……そうか」 「でも紗季、あんまり人に言わないだろ。平気な顔するから」

平気な顔。

その言葉だけで、高校の夕暮れが胸に蘇る。泣きそうなのに笑う彼女の顔。強がるとき、いつも制服の袖を小さく握る癖。

焼香の煙が上がる。白い煙の向こうで、時間が崩れていく。

俺は香をつまみ、額に押しいただいた。そして、遺影の彼女を見つめたまま、心の中で呟いた。

——遅くなって、ごめん。

その瞬間、遠い昔の蝉の声が、耳の奥で鳴った。



第二章 夏の校舎、放課後の音


高校二年の夏、俺は旧校舎の音楽準備室で、誰もいない放課後にギターを弾いていた。

古い扇風機が首を振るたび、譜面台の端がぱたぱたと鳴る。窓の外では、野球部の金属バットが乾いた音を響かせていた。

その日作っていたのは、ひどく青臭い曲だった。夢とか未来とか、そういう言葉を、恥ずかしげもなく並べた歌。

「またそれ、弾いてる」

不意に声がして振り向くと、扉のところに紗季が立っていた。

白いシャツの襟元に汗がにじみ、肩までの髪が少しだけ湿っている。部活帰りらしく、手には体育館シューズの袋。

「ノックくらいしろよ」 「したよ。湊が気づかなかっただけ」 「嘘つけ」 「ほんと」

彼女は笑って、俺の向かいの机に腰かけた。足をぶらぶらさせながら、じっとこちらを見る。

「ねえ、その曲、最後までできた?」 「まだサビが弱い」 「じゃあもう一回聞かせて」

俺は咳払いをして、少し照れながら弦を鳴らした。

拙いコード進行。まだ細く、頼りない声。けれど、歌っている間じゅう、紗季は一度も目を逸らさなかった。

歌い終わると、扇風機の風だけが部屋を渡った。

「……どう?」 「好き」 「曲の感想になってない」 「曲も好き。歌ってる湊も好き」

一瞬、世界が止まった気がした。

「お、お前、そういうの、軽く言うなよ」 「軽く言ってないよ」

紗季は机から降りて、俺のすぐ前まで来た。夕日が窓から差し込み、彼女の横顔にオレンジ色の輪郭をつくる。

「私、ずっと好きだった」 「……いつから」 「たぶん、一年の文化祭くらいから」 「そんな前?」 「湊は鈍いから」

彼女は少し唇を尖らせた。その顔が可愛くて、どうしようもなく胸が熱くなった。

「俺も」 「え?」 「俺も、お前のこと、好きだ」

言った瞬間、心臓が喉までせり上がってきた。紗季は目をまるくしたあと、ふっと笑って、涙ぐんだ。

「よかった……」 「なんで泣くんだよ」 「だって、緊張してたもん」 「俺だってしてる」

その言葉に彼女は笑って、次の瞬間、俺の制服の袖をそっとつかんだ。

「ねえ、湊」 「ん?」 「いつか、ほんとに音楽で食べていけるようになったら、いちばん最初に教えて」 「なんだそれ」 「約束」

俺は照れ隠しにギターのヘッドを撫でた。

「……わかった。約束」

彼女はうなずいて、静かに言った。

「私、その時、たぶん自分のことみたいに嬉しい」

あの夏の日。まだ何も失っていなかった俺たちは、本気で未来を信じていた。


第三章 文化祭前夜の約束

文化祭の前夜、教室には準備の名残の絵の具の匂いが漂っていた。外はすでに暗く、校庭の隅で誰かが笑う声だけが遠くに聞こえる。

俺は体育館ステージでの演奏を明日に控え、ひとりでコード進行を確認していた。紗季は机に頬杖をついて、飽きもせずそれを眺めていた。

「そんなに見てて面白い?」 「面白いよ。好きな人が夢中になってる顔って」 「……お前、たまに恥ずかしいこと平気で言うな」 「だってほんとだもん」

彼女は鞄から缶コーヒーを一本取り出して、俺の机に置いた。

「差し入れ」 「お、珍しく気が利く」 「珍しくは余計」 「ありがと」 「どういたしまして、未来のスターさん」

その呼び方に吹き出しそうになった。

「スターかどうかは知らねえけど、東京には行くよ」 「うん」 「絶対、やってみたい。中途半端に諦めたくない」 「知ってる」

紗季は少しだけ真面目な顔になった。

「私は地元に残るかもしれないし、進学先どうなるかわからないけど……」 「うん」 「でも、離れても、ちゃんと応援する」 「紗季」 「ただし」

彼女は人差し指を立てた。

「有名になっても、変な女の人にふらふらしないこと」 「するかよ」 「ほんと?」 「ほんと」

すると彼女は俺をじっと見て、少し小さな声で言った。

「じゃあ、私も約束する」 「何を?」 「離れても、湊のこと、好きでいる」

胸が苦しくなった。まだ別れの気配なんてどこにもないはずなのに、その言葉は不思議と、未来の寂しさまで含んでいた。

俺は彼女の手を握った。教室の窓に夜が映り、二人の姿が黒く重なる。

「一緒に頑張ろう」 「うん」 「俺、絶対、後悔しないようにやる」 「私も」

そのときの俺は知らなかった。夢を追うことと、大切な人を守ることが、いつか同じ方向を向かなくなる日が来るなんて。



第四章 遠すぎる灯り、上京の朝


卒業式の日、校門の桜はまだ蕾だった。空は薄く曇り、風だけが少し暖かい。

式のあと、俺たちは駅までの坂道を並んで歩いた。学生服の最後の日。紗季は卒業証書の筒を抱えながら、何度も俺を見上げては、何か言いかけてやめていた。

「東京、いつだっけ」 「四月の頭」 「そっか」

彼女はうなずいた。その横顔を見ながら、俺はできるだけ明るい声をつくった。

「大丈夫だよ。今どき、電話もあるし、会いにだって来れる」 「うん」 「すぐ売れるかはわからないけど、ちゃんとやる」 「うん」 「だから、そんな顔すんなよ」

紗季は立ち止まった。春先の風が、彼女の髪を揺らした。

「どんな顔?」 「泣きそうな顔」 「……泣いてない」 「今にもだろ」 「湊がそういうこと言うから」

言い終わる前に、彼女の目から涙がこぼれた。俺は慌てて鞄を肩からずらし、ハンカチを探したが、見つからない。

「ご、ごめん、なんでこんな時に」 「いいよ、別に……」

彼女は泣き笑いみたいな顔で、袖で目元を拭った。

「ねえ、湊」 「ん?」 「私、待ってるから」 「うん」 「ちゃんと、迎えに来てね」

その言葉に、喉の奥が熱くなった。まるでプロポーズみたいだと、一瞬思った。

俺はできるだけ真剣に答えた。

「迎えに行く。絶対」

その約束が、どれだけ重いものだったのか。あのときの俺は、まだ知らない。



第五章 六畳一間の敗北


東京は、夢を叶える場所というより、夢を試される場所だった。

最初に住んだ部屋は、駅から二十分歩く古いアパートの二階。六畳一間、共同の洗濯機、壁は薄く、隣の住人の咳まで聞こえた。

昼はスタジオの受付、夜は居酒屋の皿洗い。空いた時間に曲を書き、オーディションを受け、ライブハウスに出て、何度も落ちた。

「朝倉くん、悪くないんだけどね」 審査員はいつも、似たような顔でそう言った。 「今はもう少しキャッチーなものがね」 「個性はある。でも売れる絵が見えない」 「惜しいよね、惜しい」

惜しい、の墓場に、何人の夢が埋まっているのだろう。

深夜二時に帰宅して、コンビニのおにぎりをかじりながら、紗季と電話をした。

『ちゃんと食べてる?』 「まあな」 『絶対ちゃんとしてない声だもん』 「してるって」 『嘘。今、何食べたの』 「……ツナマヨ」 『ほら!』

受話器の向こうで、紗季がため息まじりに笑う。その声を聞くだけで、東京の狭い部屋に少しだけ灯りが差した。

『今日、面接だったんでしょ?』 「うん。落ちたっぽい」 『そっか』 「でも別に、慣れてるし」 『慣れちゃだめだよ』 「え?」 『悔しいことに慣れたら、夢まで鈍くなる気がする』

俺は黙った。そういうことを、紗季は時々、驚くほどまっすぐ言う。

『湊の歌、私は好きだよ』 「ありがとう」 『だから、自分で先に見捨てないで』 「……うん」

電話の向こうに、少しだけ沈黙が落ちる。

『会いたいな』 その一言は、小さかったのに、俺の胸をひどく締めつけた。

「俺も」 『今度、そっち行こうか?』 「交通費もったいないだろ」 『もったいなくないよ』 「いや、でも……今、俺、ほんと余裕なくて」 『うん、わかってる』 「ごめん」 『謝らないで』

紗季の声は優しかった。優しすぎて、余計につらかった。

『私、湊の邪魔にはなりたくないから』 「邪魔じゃない」 『うん。でも、そう思わせたくないの』

通話が切れたあと、部屋はやけに静かだった。俺はギターを抱えたまま、朝まで一音も鳴らせなかった。



第六章 すれ違いのホーム


遠距離恋愛は、会えないことより、会えない理由が増えていくことのほうが苦しい。

バイトのシフト。終電。家賃。オーディション。

ライブの集客。体調。疲労。「今度にしよう」が積み重なり、約束は少しずつ薄くなっていった。

夏の終わり、ようやく帰省して会えた日のことを、今でも覚えている。

地方駅のホーム。夕方の赤い光。電車のドアが閉まる間際、紗季が言った。

「ねえ、私、就職で東京行くかもしれない」 「ほんとか?」 「まだ内定じゃないけど、第一志望」 「そしたら、会えるな」 「……うん」

彼女は笑った。けれどその笑顔の奥に、何か迷う色があった。

「どうした?」 「ううん。なんでもない」 「東京、嫌か?」 「嫌じゃないよ」

少し間を置いて、彼女は続けた。

「ただ、会えるようになったからって、昔みたいに戻れるのかなって」 「戻れるだろ」 「そんな簡単かな」 「紗季」

彼女は線路の向こうを見たまま、ぽつりと言った。

「湊、最近、私に弱いところ見せなくなった」 「そんなこと」 「あるよ」

電車がホームに滑り込んでくる音が、会話を削った。

「大丈夫、しか言わない」 「心配かけたくないから」 「それが、寂しいの」

その言葉は、到着ベルよりも鋭く耳に刺さった。

「私、支えたいのに」 「支えてもらってるよ」 「じゃあ、どうして肝心なところで遠くなるの」

言い返せなかった。図星だったからだ。

プライドだった。情けない自分を、いちばん好きな人には見せたくなかった。でも、その見せないことが、彼女を締め出していた。

電車のドアが開く。風が強く吹いた。

「行くね」 「紗季、待てよ」 「また連絡する」 「おい」

彼女は乗り込む直前、振り向いた。

「湊の歌、私はまだ好き」 「……うん」 「でも、湊が何考えてるのか、最近わからない」

ドアが閉まり、電車が動き出す。窓越しの彼女は、こちらを見ていた。けれど、追いかける足は動かなかった。

その日のことを、俺は長いあいだ夢に見た。ホームに立ち尽くす自分の足元へ、何度も何度も、夕陽が沈んでいく夢を。



第七章 彼女が東京へ来た日


Scene 7 再会と沈黙

翌年の春、紗季は本当に東京へ来た。

最初に会ったのは、新宿駅の南口だった。人の波、ネオン、排気ガス、行き交う無数の靴音。その喧騒の中で、彼女だけがなぜか静かに見えた。

ベージュのトレンチコート。小さなキャリーケース。少し大人びた化粧。けれど俺を見つけた瞬間の笑い方は、昔のままだった。

「久しぶり」 「……久しぶり」

俺たちはぎこちなく笑った。たったそれだけで、会えなかった時間の長さがわかった。

「疲れた?」 「ちょっと。でも平気」 「荷物持つ」 「ありがと」

並んで歩きながら、俺は何を話せばいいのかわからなかった。会いたかったはずなのに、いざ隣に来ると、言葉が錆びついていた。

居酒屋で安い定食を食べた。紗季は俺の生活の話を聞きたがったが、俺は適当に笑ってごまかした。

「ライブ、今度見に行っていい?」 「別にいいけど、そんな大したもんじゃない」 「見たいんだよ」 「ガッカリするかも」 「しないよ」

彼女の言い方が少し強くて、俺は箸を止めた。

「なんでそんな言い方するんだよ」 「だって湊、自分で自分を下げすぎ」 「現実見てるだけだ」 「現実って言葉で、諦めを飾らないでよ」

店内のざわめきが、一瞬遠のいた気がした。

「……飾ってねえよ」 「じゃあ何」 「お前にはわかんないだろ。こっちでやってくのがどれだけ」 「わかろうとしてるよ!」

紗季の声が少しだけ大きくなり、周りの客がちらりとこちらを見た。彼女ははっとして、唇を噛んだ。

「……ごめん」 「いや」 「喧嘩したかったわけじゃないの」 「わかってる」

そのあと、会話は妙に丁寧になった。丁寧になるほど、距離は遠くなった。

店を出ると、夜風がビルの隙間を吹き抜けた。紗季は立ち止まり、バッグの持ち手を握りしめた。

「ねえ、湊」 「ん?」 「私、東京に来たら、ちゃんとやり直せると思ってた」 「……」 「でも、近くにいるほうが、遠いこともあるんだね」

その言葉に、俺は何も返せなかった。



第八章 雨の別れ話


別れは、あまりにもあっけなく来た。

六月の終わり。激しい雨の夜。俺のアパートの前で、紗季は傘もささずに立っていた。

「どうした、びしょ濡れじゃないか」 「話したいことがあるの」 「上がれよ」 「ここでいい」

街灯の下で、彼女の頬に張りついた髪から水滴が落ちていく。俺は嫌な予感を、はっきりと感じていた。

「……会社の人に、食事に誘われてる」 「は?」 「何度か」 「それ、だから何」 「ちゃんと断ってた」 「ならいいだろ」 「でも、このままじゃだめだと思った」

雨音が激しく、彼女の声が時々かき消えそうになる。

「湊といても、私はずっと待ってるだけだった」 「待ってろなんて頼んでない」 「そういうことじゃない!」

彼女が初めて怒鳴った。

俺は息を呑んだ。紗季は肩で呼吸をしながら、涙とも雨ともつかない雫を頬に流していた。

「頼んでないから、余計つらいの」 「……」 「私が勝手に期待して、勝手に支えようとして、勝手に寂しくなってるみたいで」 「紗季」 「でも好きだから、やめられなかった」

喉が詰まった。

「俺だって……」 「ほんとに?」 彼女は震える声で言った。 「ほんとに、私のこと、ちゃんと必要だった?」

その問いは、刃物みたいだった。必要だった。愛していた。失いたくなかった。なのに、そう言えば言うほど、自分が何もしてこなかったことまで露わになる気がした。

沈黙した俺を見て、紗季は静かに目を閉じた。

「やっぱりね」 「違う、そうじゃなくて」 「もう疲れたよ、湊」

彼女はかすかに笑った。壊れる寸前のものだけが浮かべる、薄い笑みだった。

「あなたの夢、好きだった」 「……」 「歌ってるあなたも、大好きだった」 「紗季、待て」 「でも、私は歌じゃないから」 「そんな言い方するな」 「だって、ほんとのことでしょ」

雨がアスファルトを叩き続ける。遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。

「私ね、幸せになりたい」 紗季は言った。 「誰かの夢を信じるだけじゃなくて、自分の明日も信じたい」

その言葉の前で、俺は何も差し出せなかった。約束も、未来も、指輪も、暮らしも。あるのは、濡れたTシャツと、売れない歌と、守れなかった沈黙だけ。

「……ごめん」 やっと絞り出したその言葉に、彼女は泣きながら首を振った。

「謝ってほしいんじゃない」 「じゃあ、どうすれば」 「もっと早く、抱きしめてほしかった」

彼女はそう言って、背を向けた。

「紗季!」

叫んだ。けれど、彼女は振り返らなかった。

その後ろ姿が闇に消えるまで、俺は一歩も動けなかった。

あの夜からしばらく、俺は歌が書けなくなった。



第九章 別々の人生、途切れない旋律


それから二年後、亮介から電話があった。

『紗季、結婚するって』

深夜のバイト帰りだった。自販機の前で缶コーヒーを買おうとしていた手が止まった。

「……そうか」 『相手、会社の人らしい』 「そうか」 『お前、大丈夫か』 「大丈夫なわけあるかよ」

思わず笑ってしまった。乾いた、どうしようもない笑いだった。

電話を切ったあと、しばらく自販機の前に立ち尽くした。ボタンの明かりが、やけに眩しかった。

その夜、俺は久しぶりに一曲書いた。誰にも聴かせるつもりのない曲。題名もつけなかった。

サビの最後に、どうしても一行だけ書けなかった。「幸せになってほしい」と書けば綺麗すぎた。「戻ってきてほしい」と書けば醜すぎた。

結局、その部分は空白のままにした。



第十章 再会、冬の歩道橋


再会は偶然だった。

五年後の冬。渋谷の歩道橋で、ライブのフライヤーを抱えた俺は、向こうから来る彼女を見つけた。

最初、似ている人だと思った。けれど、彼女も立ち止まり、目を見開いた。

「……湊?」 「紗季」

彼女は白いコートを着ていた。髪は少し長くなり、指には結婚指輪が光っていた。

「久しぶり」 「うん……久しぶり」

風が冷たかった。下のスクランブル交差点が、信号に合わせて人を吐き出しては飲み込んでいく。

「元気?」 彼女が聞いた。 「まあまあ。そっちは」 「まあまあ、かな」

その答え方で、何かを察した。昔から紗季は、幸せな時ほど「元気」と言い、無理をしている時ほど「まあまあ」と言う人だった。

「今も音楽やってるの?」 「やってる」 「すごいね」 「すごくはない。まだ売れてないし」 「でも、やめてないんだ」 「……うん」

彼女は少しだけ笑った。

「よかった」 「そっちは?」 「普通に会社員」 「旦那さんは?」 「仕事。今日も遅いみたい」

言い方がひどく平坦だった。

「幸せ?」 気づけば、そんなことを聞いていた。最低だと思った。けれど、もう口からこぼれた後だった。

紗季は驚いたように目を伏せ、それから苦く笑った。

「そういうこと、昔からまっすぐ聞くよね」 「悪い」 「……でも、正直に言うと」

彼女は手すりの向こうの街明かりを見つめた。

「たぶん、上手にやれてない」 「……」 「結婚したら落ち着くと思ったの。ちゃんとした暮らしとか、安心とか、そういうものが自分を守ってくれると思ってた」 「守ってくれなかった?」 「形だけじゃね」

彼女が、昔より少し低い声でそう言った。その一言に、積み重なった諦めが滲んでいた。

「でも、私が選んだんだよ」 「紗季」 「人のせいにはできない」

俺は何も言えなかった。もしあのとき、俺がもう少し違っていたら。もしあの夜、彼女を引き止められていたら。そんな仮定は、今さら何の意味も持たない。

別れ際、彼女は俺のフライヤーを一枚手に取った。

「ライブ、行ってもいい?」 「来るのか」 「ダメ?」 「……ダメじゃない」

彼女は少しだけ、昔の顔で笑った。

「じゃあ、気が向いたら行く」

けれど、その約束も結局、果たされなかった。



第十一章 病室の窓辺に置かれた歌、最後の連絡


紗季から最後に連絡が来たのは、去年の秋だった。

知らない番号からの着信。出ると、少し掠れた声がした。

『……湊?』 「紗季?」 『うん。急にごめん』

その声だけで、普通じゃないとわかった。

「どうした」 『ちょっと、入院してて』 「入院?」 『たいしたことないよ』

嘘だ、とすぐに思った。彼女は昔から、本当にたいしたことない時は、わざわざそんなふうに言わない。

「何の病気だ」 『ちょっとね』 「ちょっとじゃわからないだろ」 『ふふ、そうだね』

笑い方が弱かった。ひどく、弱かった。

『ねえ、湊』 「ん?」 『まだ歌ってるって聞いた』 「……ああ」 『よかった』

しばらく沈黙が続いた。病室だろうか。遠くで機械音のようなものが微かに聞こえた。

『一つだけ、言いたくて』 「何を」 『あなたのこと、嫌いになったこと、一回もなかったよ』

息が止まった。

「紗季……」 『でもね、それと一緒に生きられるかは、別だったの』 「わかってる」 『うん。湊は、昔よりちゃんとわかるようになったんだね』

その言い方が、ひどく優しかった。優しすぎて、泣きたくなった。

「会いに行っていいか」 電話越しに、彼女はしばらく黙った。

『……来ないで』 「なんでだよ」 『たぶん、会ったら、また好きになるから』 「今さらだろ」 『今さらだからだよ』

声が震えていた。俺もたぶん、同じ顔をしていた。

『私ね、湊の歌の中にいる自分は、ずっときれいなままでいたいの』 「そんなの勝手だ」 『うん、勝手』 「会わせろよ」 『だめ』 「紗季」 『最後に、お願いしていい?』 「……何」 『いつか、私のこと、歌にして』

涙で視界が滲んだ。部屋の天井がぼやけて見えなくなる。

「もう、書いてる」 『え?』 「何曲も、お前のこと書いてる」 『……そっか』

彼女は小さく笑った。あまりにも静かな笑いだった。

『じゃあ、一曲くらい、私にもちょうだい』 「本人に渡せるならな」 『ふふ』 「紗季」 『なに?』 「死ぬなよ」

言ってから、自分でも馬鹿みたいだと思った。そんな言葉で止まるものなら、誰も大切な人を失わない。

けれど彼女は怒らなかった。

『うん』 そう答えた声は、まるで遠い海の向こうから届いたみたいだった。

その電話が、最後だった。



第十二章 遺された音、葬式のあとで


通夜と告別式が終わり、会葬者が引き始めた頃、俺は斎場の裏手にある喫煙所の近くで、ひとり空を見上げていた。雨は上がり、雲の切れ間から、鈍い夕方の光が差していた。

そこへ、紗季の母親がやってきた。

「湊くん」 「……ご無沙汰しています」

何年ぶりだろう。少し小さくなった背中。けれど、目元には紗季によく似た面影があった。

「来てくれてありがとう」 「いえ……」 「紗季、きっと嬉しかったと思う」

俺はうつむいた。

「最後のほう、苦しかったみたいで……」 そう言うと、お母さんはハンカチを握りしめた。 「でも、ある日ね。急に『お母さん、あの人の曲、聴きたい』って言い出して」 「……え」 「湊くんのことよ」

胸が大きく脈打った。

「スマホで探して、配信されてた曲を病室で流したの」 「……」 「そしたら、目を閉じて、ずっと聴いてた」 「何て言ってましたか」 「“やっぱり、好きだなあ”って」

唇を噛んだ。泣くまいと思った。けれど無理だった。

「これ」 お母さんは、小さな封筒を差し出した。 「紗季の荷物を整理してたら出てきて。湊くん宛てって書いてあったから」

震える手で受け取る。そこには見慣れた字で、ただ一言、“湊へ”と書かれていた。

「ここで読んでもいいですか」 「ええ」

封を開けると、中には短い便箋が一枚入っていた。


湊へ

もしこれをあなたが読んでるなら、私はたぶん、もう会えない。

ごめんね、最後まで勝手で。

私、ずっと思ってた。あのとき東京で、あなたを選べなかったんじゃなくて、あなたと一緒に苦しむ勇気を持てなかったんだって。

でも、それでも、あなたを好きだったことを後悔した日は一日もありません。

高校の音楽室で聴いた歌も、駅で見送った背中も、雨の夜の顔も、全部ちゃんと愛していました。

もし、ほんの少しでも私があなたの歌の中に残れるなら、私はそれで十分です。

最後にひとつだけ。湊、幸せになって。私のいない未来でも、ちゃんと笑って。

紗季


文字が滲んで、最後のほうは読めなかった。便箋を持つ指先が、ひどく震えていた。

「湊くん」 お母さんが静かに言った。 「紗季ね、あなたのことを悪く言ったこと、一度もなかったの」 「……」 「苦しかったはずなのに、不思議なくらい」

俺は何か言おうとして、声にならなかった。こんなにも長いあいだ、愛されていたのに。こんなにも深く、想われていたのに。俺は結局、彼女を幸せにできなかった。

それが、喪失よりももっと鋭い形で、胸に刺さった。



最終章 終わらなかった歌


夜。東京に戻った俺は、狭い部屋の電気もつけず、ギターを抱えていた。

窓の外では、遠くの高架を走る電車の音がする。机の上には、紗季の手紙。その横に、書きかけの譜面。

長いあいだ空白のままだった一行に、今なら言葉を置ける気がした。

指が弦を押さえる。最初のコードが鳴った瞬間、部屋の暗闇が少しだけ震えた。

「……聞こえるか、紗季」

誰もいない部屋で、俺は笑った。涙でぐちゃぐちゃの、ひどい顔だったと思う。

歌い出す。

高校の旧校舎。夕焼けの教室。遠距離電話のぬくもり。新宿の雑踏。雨の別れ道。病室の窓。白い花の匂い。

全部が一つの旋律になって、喉の奥からあふれてくる。

サビの最後、ずっと書けなかった一行を、俺は歌った。

「君を失っても、君を愛した僕は消えない」

その瞬間、胸の奥で何かが静かに崩れ、そして、少しだけ救われた。

紗季はもういない。もう、二度と会えない。やり直すことも、抱きしめることも、約束を果たすこともできない。

それでも。

彼女がいたから、俺は歌っている。彼女を失ったから、ようやく歌える歌がある。

窓の外に、朝の気配がにじみ始める。黒かった空が、わずかに青へほどけていく。

俺は最後のコードを鳴らし終え、静かに目を閉じた。

「……ありがとう」

誰に向けた言葉だったのか、自分でもわからない。彼女か。過去の自分か。それとも、ようやく始まろうとしている、この痛みを抱えたままの未来か。

ただ一つだけ、はっきりしていた。

この歌は、終わらない。彼女が生きた時間ごと、俺の中でずっと鳴り続ける。

まるで、あの夏の放課後、古い音楽室で初めて彼女が言った言葉みたいに。

——歌ってる湊も好き。

その声を、俺は一生、忘れない。

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