第2話 契約
「に、んしん、って」
「焚尭様はお二人のペースで構わないと仰っておられますが、涼子様は三年以内にと」
「ま、待ってください!!」
勢いよく立ち上がると、頭がズキンと痛んで一瞬視界が暗くなる。けど、そんな事に構ってる場合じゃなかった。
「いきなり誘拐されて、この人が運命の番ですって言われて、子作りしてくださいなんて言われて! はいそうですかって、納得出来るわけないでしょう!」
「ご安心ください、勿論ただでとは申し上げません。宇多川家より報酬のご用意がございます。きちんと書面も」
「そういう問題じゃない!!」
力を入れすぎた手が震える。喉が灼けるように痛い。怒りを乗せた血液が全身を巡って、今にも沸騰してしまいそうだった。
「バカにするのもいい加減にしろ、俺は帰る! バッグ返してくれ!」
ずんずんと出口に向かって進み始めた俺の手が、また何かに引っかかった時のようにぐんと戻される。
ばくんと心臓が脈を打って、さっきまで熱かったはずの体から急速に熱が引いていく。
握り締めていたはずの手は、震えるばかりになっていた。
「瀧浪様、どこへ行かれるのですか?」
さっきの、圧倒的な力で無理矢理日常から引き剥がされた瞬間が再び襲い掛かってくる。
ここで反抗したら次はどんな目に遭わされるか分からないぞと、本能が警告する。
汗が一筋、背中を伝った。
「貴方の家は、もうここ以外にはございませんよ」
そんな俺の目を真正面から捉えて、砂田さんは大真面目な顔でそう言った。
「……は?」
か細くて、震えていて、頼りの無い、たった一音。絞り出したそれに、嘘であってほしいと、質の悪い冗談だろうと、ありったけの願望を込める。だけど。
「あの家は宇多川家が引き払わせていただきました」
砂田さんの声がゆっくりと空気に溶け、消えていく。
それでもなお、俺の頭は内容を理解できなかった。
「お荷物は既にベッドルームに運び込ませていただいております」
家を、引き払った?
じゃあ、もうあの家には帰れない?
なら、実家に……いや、ここがどこだか分からないし、金はクレカ等も含めて全部通勤鞄の財布の中だ。
いや、まだだ。それなら歩けばなんとかなる。絶対にこいつらの思い通りになんてなってたまるか。
そもそも、言っている事が本当かどうかなんて信じられない。自分の、この目で確かめるまでは!
腕を振り払って、エレベーターの前まで辿り着く。
早く、早く早く早く早く早く……!
早鐘を打つ心臓よりも早く、下りのボタンを連打する。早くしないと捕まる、そうしたら次の隙なんていつ生まれるか……! その頃には、もしかしたら既にお腹に……!
「ッ……!」
足もとから少しずつ、体中を這い回りながら登ってくる恐怖に駆られていた俺は。エレベーターが今何階まで来ているのかを確認するために階数表示を確認して、自分の目がおかしくなったのかと思った。
だって、エレベーターは。これだけボタンを押しているにも関わらず、まったく動いていなかったのだから。
「……は?」
「瀧浪様。この階にエレベーターを呼ぶにはパスコードが必要です」
状況が呑み込めない俺の後ろから声がして、びくりと肩が跳ねる。
どうしよう、早く、なんとかしないと……パスコード……?! パスコードってなんだよ……!!
「お分かりいただけましたか」
「っこ、こんな事が許されるとでも思ってるのかよ?! ……そうだ、ここから下りられなくても、俺と連絡付かなくなったって分かれば、家族や会社から警察に連絡が」
「会社ももちろん退職済みです」
「……嘘だ。だって、今日退勤するとき、みんな何も!!」
「そのように手配させていただきました。ご家族様にも、宇多川家よりご説明申し上げましたので、ご想像の事態は起きません」
「……そんな」
外部との連絡手段も断たれて、ここから逃げ出す事もできない。外が気付いてくれる事も望めない。そんなの、どうしたら。
「諦めろ」
ふいに、あの低くて落ち着いた声が空気を切り裂いた。
「あ……」
黒いスーツの向こう側から、あの赤い瞳が、気だるげに俺に注がれていた。
「じたばたしても無駄だ。あの男が、逃げ道を塞ぎ忘れるなんてへまをするはずがない。お前はもう、逃げられないんだ」
すました顔でそう吐き捨てたこの男に、俺は。衝動に駆られるまま距離を詰め、その胸倉を両手で掴んだ。
「熾仁様!」
「やめろ、手を出すな」
「ッアンタは嫌じゃないのか!! こんな、勝手に決められて!!」
「慣れてる」
「なっ……」
「とっとと諦めろ、宇多川焚尭はそういう男だ」
それだけ言うと、今度は熾仁が俺の手を払いのけた。瞼を閉ざして、俺の目も見ないで。
「契約書」
「……かしこまりました。 大地!」
砂田さんが俺たちの横を通り抜けて部屋に消えていく。
それをただ目で追うばかりだった俺は、ドアの閉まる音でようやくハッとして、自分より高い位置にある目を睨みつけた。
「待てよ、俺は契約するなんて」
「いい加減理解しろ、お前に拒否権はない。ここに来た時点で、お前はあの男の道具の一つになったんだ」
「お持ちしました」
砂田さんと入れ替わりでやってきた大地さんによって、恭しく差し出された紙一枚。
こんな紙切れ一枚で人の人生縛ろうとしやがって。ふざけんな、絶対読まねぇ!!
そう思ってただそれをじっと見つめていると、熾仁がそれを奪い取って俺の胸元に押し付けてきた。
反射的に受け取ってしまったそれに仕方なく視線を落とすと、堅苦しい文面が所狭しと並んでいて眩暈がして。だけど、内容を噛み砕いていくほどに、別の意味で眩暈がした。
・契約期間は男児を無事に出産するまで
・抑制剤を含め、宇多川家が指定した薬以外を飲まない事
・ヒート期間以外で熾仁を性行為に誘わない事
・ヒート期間外であっても熾仁から性行為に誘われたら応じる事
・熾仁のプライベートに口を出さない事
・熾仁の彼女面をしない事
・契約終了後、熾仁に付き纏わない事
大体そんな感じの内容が書かれていて、読み終わる頃には胃液がぐるぐると動き回り、今にも口から飛び出してきてしまいそうになって、俺は書類が落ちてしまうのも構わずに口元を抑えるしか出来なくなっていた。
「分かっただろ」
人形のような顔が、ガラス玉の瞳で俺を突き刺す。
「精々一日でも早く家を出る事だけを考えろ」
「熾仁様、どちらに」
「部屋に戻る。お前たちも今日は諦めろ。今のそいつにサインは出来ない」
「しかし」
「あの男には俺から適当に言っておく、そいつを部屋に入れたらとっとと帰れ」
亜麻色の頭が遠ざかり、ドアノブに手が翳される。
待って、と口から飛び出そうになって、咄嗟に言葉を飲み下す。呼び止めて何をするんだという疑問に、答えが出せなかったから。
そうこうしている内に熾仁は姿を消して。俺と大地さんが取り残されたエレベーターホールには、どろりとした沈黙が蔓延していく。身動きが取れないくらいに。
もっとも、取る気も無かったけど。
「……瀧浪様」
頭がぼんやりする。もやがかかったようとか良く言うけど、それよりはもっと遠く……例えば、そう。ブラウン管越しに見ているような。古いデジタルカメラで撮影された写真ばかりの、他人のアルバムでも眺めているような。そんな感覚だ。
「瀧浪様、動けますか」
なんとか首を左右に振る。
正確に言えば、動く事は出来るのだろう。だけど、その為に手足に力を入れるという事が、極めて不可能に近い事に感じられた。
心臓のじくじくとした痛みだけが、やたらと鮮明だった。
「失礼します」
大きくて硬い手のひらが、俺の脇の下と膝裏に差し込まれて、体がふわりと持ち上げられる。
放っておいて欲しいと、ただそれだけを伝えるために口を動かす事さえ出来なかった。
どうでも良かった。心底、全部。
「それでは瀧浪様、本日はこれで失礼いたします。また後日、サインを頂きにまいりますので、よろしくお願いいたします」
大地さんに抱えられて連れてこられたベッドルームは、そこだけで俺の住んでいるワンルームくらいの広さはありそうだった。
俺のこれまでの人生をすっぽり呑み込んだ部屋には、使い慣れたベッドが置かれていて。大地さんはそこに俺を置き去りにすると、一礼して立ち去ってしまった。
明かり一つも灯されていない部屋の中心で、俺は布団を手繰り寄せて丸くなる。
「……これから、どうなるんだろう」
本当に、子どもを産まなければならないのだろうか。まだ、誰も知らない体なのに。
「……怖い、なぁ……」
俺と現実を隔てていたガラスが、夜の闇に溶けていく。じわじわと心を侵すそれに少しでも抵抗したくて、目を閉じた。
どうして、こんな事に。
不安が水分を持って、瞼の隙間から流れ落ちていく。
こんな奴らに泣かされたくないと唇を噛みしめても、それはとめどなく枕を濡らしていく。
誰か助けて。
喉が詰まってしまいそうなくらいに脈を打つ心臓を握り締めて、せめて夢の中へ逃げようと一層強く瞼を閉じた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
・連載の先読み
・限定の書き下ろし
・連載の裏話
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