第1話 誘拐
平凡な人生がいい。
普通に働いて、普通に結婚して、普通に子どもが出来て、普通に死んでいく。そんなありふれた、βの人生がいい。
それがΩに生まれた俺の、ずっとの願いだった。
だけど、どうやらそれは叶わないらしい。
賑わう華金の街が、光の筋となって車窓を流れていく。
俺は今、誘拐されていた。
いつも通りの、なんてことはない日だった。帰宅途中、自宅アパートの目の前に黒塗りの高級車を見つけてしまう、その時までは。
「どこん家の客だよ……」
あまりの仰々しさに思わず言葉が零れ落ちる。と、同時に、好奇心がむくむくと頭をもたげなくはなかったが、今は野次馬根性よりも疲労が大きく勝っていた。
さっさと飯食って風呂入って寝よう。右手に下げたコンビニ袋を握りなおして横を素通りしようとした、その時だった。
ガチャリ。
「え」
高級車の中から、三人の男が下りてきた。
まるでタイミングを見計られていたようで、思わず身を固くしていると、彼らは俺に近付いてきた。
「えっ……えっ……?」
困惑していると、男の一人が口を開いた。
「失礼ですが、瀧浪蒼様でいらっしゃいますか」
どうして、俺の名前を。
飛び出しそうになった言葉をぐっと飲み込む。はいそうですと言っているのと同じだと思ったからだ。
「違います。失礼します」
声が上擦り、震える。
それでも、なんでもありませんという風を必死に装ってその場を後にしようとする俺の前に、先ほどから黙ったままだった男たちが立ちふさがった。
「なんですか、どいて下さい! 警察呼びますよ!」
「宇多川焚尭様より、貴方をお連れするよう仰せつかっております。ご同行願えますか」
「……はぁ?!」
宇多川焚尭って、あの宇多川焚尭?! 日本を代表するトップ企業である、あの宇多川コーポレーションの代表取締役社長の?!
……そんな訳あるか!!
「あの、急いでいるので! 失礼します!」
絶対ヤバい人たちだ、早く警察呼ばないと……!
その場から走り去ろうと足を一歩踏み出したその時、服が何かに引っかかった時のような感覚の後、体がぐっと元の位置に引き戻された。
「えっ」
「手荒な真似はしたくありません。ご同行願えませんか」
男のうちの一人が、俺の腕を、掴んでいた。 引っ張られたとか、そんな感じは全然しなかったのに、だ。
「――ッ離して! 離せ、っ離せったら! 助けて! 誰か、っ」
怖い、怖い怖い怖い怖い怖い! 絶対ヤバい、逃げないと!
なのに、腕が全然振りほどけない! いや、それ以前に腕を振る事さえ出来ない!
なんて馬鹿力だよ、ふざけやがって! クソクソクソ! 俺が何したって言うんだ!
「仕方ない、お連れしろ!」
「はい」
「やっ、ん、むぐ、! ん、ん゛ーっ、ん゛ーっ!!」
あっという間に口に何かを詰め込まれて、車に向かって引きずられる。
嫌だ。
俺、どうなっちゃうんだろう。
もしかして、殺されたりする、のかな。
嫌だ。まだ死にたくない。
痛いのも嫌だ。怖いのも嫌だ。
こんな事なら、貯金なんかしないでもっとやりたい事やっておけばよかった。
もっと家族と連絡とっておけばよかった。
ありがとうも言えないまま、永遠にお別れなのか……?
「ん゛むぐっ……!」
そんなの嫌だ。必死に伸ばした腕はあっけなく押し込められて、ドアは無情にも閉じられた。
そうして話は冒頭に戻る。
口に詰められていた布はすぐに取り出されたが、発車した車の中、両サイドを屈強な男に固められている状況では、声を出したところでどうしようもない。
この男たちは、一体俺をどうするつもりなんだろう。
良くて性奴隷、最悪の場合は移植のための臓器を抜かれて殺される、だろうか。
どちらにせよ、明るい未来は望むべくもない。
ああ神様、せめて苦しくありませんように。
どれくらい必死で祈っていただろうか。車は、とんでもない高層マンションが立ち並ぶ街で駐車した。
「瀧浪様、ご降車願います」
ドアを開けてもらって、手を引かれて。まるでお姫様にでもするようなエスコートを受けて整備された道路を踏みしめると、競い合うように輝くビル群が俺を見下ろしていた。
ああ、なんか高そうな町だな。じゃあ性奴隷コースか。
金持ちの中には、Ωを複数“飼育”して、気が向いたときに弄ぶ悪趣味な奴がいるらしいから。
結局俺は、Ωという性別から逃れられないらしい。
「熾仁様、砂田です」
『何だ』
「焚尭様より仰せつかっていた件で参りました」
『……面倒な』
「熾仁様」
『わかった。さっさと来い』
「……瀧浪様、お待たせいたしました。こちらです」
エントランスでインターホン越しに誰かと会話していた男が戻ってきて、ぴったりと囲まれながらエレベーターに乗せられる。
十階、二十階……ぐんぐん上がっていく数字に頭がくらくらして、それ以上は確認するのをやめた。
どれくらい乗っただろう。軽快な音と共に到着を知らされた俺は、さながらギロチンに向かって歩く罪人だった。
ドアの前で、男がインターホンを押す。
ややあって中から顔を覗かせたのは、やわらかな亜麻色の髪に似つかわしくない、鋭い赤い眼光が印象的な……。
「ッ……?!」
「な、っ……」
ぱちり。視線が触れ合った瞬間、世界から彼と俺だけが切り取られた。
自分の呼吸の音さえ煩わしい。心臓の鼓動すら止めてしまいたい。
彼の発するいかなる音も、聞き逃したくない。
瞬きしたくない。
彼の一挙手一投足を見逃したくない。
乾ききっていた心の奥底に、あたたかなものがじわりと染み渡って、満たされていく。
見つけた。見つけた、見つけた! この人が、俺の……!
「っ砂田、こいつを連れて帰れ!!」
大きな声に意識を引きずり戻される。
今、俺は、何を考えていた? 俺は最後、何と思っていた?
指先ががたがたと震えだす。
おれ、俺は、今。
「熾仁様、お客様に対して」
「黙れ!」
酷く取り乱した様子の、このオキヒト様とやらを抱きしめたい。大丈夫だと、怖がらなくていいと言ってあげたい。
甘やかしてあげたいという気持ちが止まらない。
――俺の意志に反して!
気持ちのコントロールが全く利かない! 理性で必死に縛り付けようにも、本能が暴れて止まらない!
なんだこれ、なんなんだよこれ……!
「っひゅ、ぅっ、ひゅうっ、」
やばい、頭ふわふわしてきた。
息、息吸わないと。もっと、たくさん。
「……瀧浪様?」
空気が擦れて喉が痛い、胸の辺りが疲れてきた。
やばい、立ってられない。
そう思った時には、さっきまで顔を見ていたはずなのに、視界一杯に人の足が映っていた。
「瀧浪様!!」
「そいつに触るな!!」
「熾仁様?!」
まだ酸素足りないのかよ、もっと、もっと吸わないと……もっと……!
「馬鹿、息を吐け! 吸いすぎだ!」
「っかひゅ」
「そうだ、ゆっくり吐け。……良い子だ」
「ひゅっ、っ、ひゅーっ、ひゅーっ……」
あ……すごい、おちつくこえだ……。低くて、ちょっとハスキーな感じで……あんしん、する……。
背中、手で……撫でて、くれてる……?
「熾仁様、一度お部屋へ」
「分かってる……! 立てるか」
「はい……」
オキヒト様に支えられながら入った家は、思ったよりも普通、だと思ったのは最初だけだった。
一軒家かと思うような廊下、一人で住むには明らかに広すぎるリビングダイニング。そこには、必要最低限の物しかなくて。なんというか……がらんとしていた。
「座れ。砂田、水」
「はい」
オキヒト様とやらの隣に座らされて、ぽんと渡されたのはミネラルウォーターだった。
見たことのないパッケージのそれは、口当たりが柔らかくて美味しい。常温なのも体に染み渡って嬉しいポイントだった。
「落ち着かれましたか」
「あ、はい……」
「では、そろそろ本題を」
「あの男の命だ、どうせろくでもない」
「熾仁様」
たしなめられたオキヒト様がぷい、とそっぽを向く。もしかして、宇多川焚尭とあんまり仲が良くないんだろうか。
「瀧浪様、まずは数々の非礼をお詫び申し上げます。わたくしは砂田と申します。既に申し上げました通り、熾仁様のお父上であらせられる宇多川焚尭様の使いのものです。我々が貴方をここにお連れした理由は、既にお分かりですね」
「……それは」
「ええ。貴方様が熾仁様の運命の番だからです」
「……!」
「チッ……」
運命の番。世のαやΩが、喉から手が出るほど求めてやまない相手。一生で会えない事も決して少なくないという。
その相手が、この男。
ふわふわとピンク色にきらめく胸の奥に、ズンと重く、黒い塊が落ちて、居座る。
正反対の二つの感情に、塊からどろりとした液体が溢れ出したその時。
「これからお二人には、男児を妊娠するまで生活を共にしていただきます」
「――は?」
「えっ……?」
それは、思考を停止させるには十分な質量を持って襲いかかってきた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
・連載の先読み
・限定の書き下ろし
・連載の裏話
はFantia / ci-enでご覧いただけます。
2026年2月中はお得にご覧頂けますので、気になった方はぜひこの機会にどうぞ。
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