【肆】マハルという男
――そう、あれは初夏の日差しが厳しい日だった。
そこは風の大陸。その大陸にある大きな城で、一人の少年が幼馴染みと共にかくれんぼをして遊んでいた。
いつも父が座る玉座の背から、壁に貼り付いた大きな楕円の鏡へ真っ直ぐ五歩進んだ時――王家の者にしか分からない鏡の変化に気づいた。
それは、深い藍の水面がひとしずく落ちたように、ゆらゆらと揺れた気がしたのだ。
殆どの者が気のせいだと思うだろう。だが、好奇心旺盛な年頃の少年はその鏡に手を伸ばし、吸い込まれるように消えていった――。
「ここはどこだ?」
気付けば少年は森の中にいた。
見覚えのない木々が空高く聳え立ち、見覚えのない野花が咲き、少し遠くから見知らぬ小動物がこちらを窺っている。
風の大陸では、常に爽やかな風が吹く。木々が少ないうえに、水源が多く岩肌の地形が風を通しやすいからだ。
こんなにも緑豊かで風がないのはここが知らぬ土地という証。
少年は再度「どこ?」と呟き立ち上がる。
「父上、母上?」
そして幼馴染みの名を呼んで歩き出す。
日差しの強い日だった。暫く歩くと喉が渇き、まずは水を探そうと風に意識を集中する。
「あっちかな」
少し遠いが行かざるを得ない。少年はまた歩き出した。
――ようやく辿り着いた川に目を輝かせて駆け寄った。川の流れが比較的穏やかな場所を選び、ちょうど少年と同じくらいの背丈の岩を支えに片手で水を掬って飲む。
川の水が手のひらを冷やすたび、じくじくと広がっていた不安と寂しさが清んだ水と一緒に流されていく。
川の底まで透けて見えるほどの、澄んだ真水。小魚も泳いでいる。
夢中で飲む少年の横で、支えにされた岩が密かに動き出す。それはどんどん大きくなり、あっという間に少年より数十倍もの大きさになった。
影がかかった事に気付き、顔を上げる。すると目の前の大岩がぱかりと大きな口をあけ――
「……っ!」
悲鳴も出せず、恐怖から目を瞑った。
「おやおや、こんな所に人がいるとは珍しい」
ばしゃんと波立つ音。
日差しに照らされて、その人はまるで光そのもののように見えた――いや、自分だけを照らす灯りみたいに。
髪も肌も服までもが眩しいほどに白く、そっと自分を抱き上げ、大岩にしゃがんでいる――まるで女神のように。
「フフフ、迷子ですか」
右耳にだけつけた金のイヤーカフと、その耳飾りが陽を受けて一瞬きらりと光る。
瞳を閉じ、不敵に笑うその姿。だが穏やかな物腰は、決して悪い者のようには思えない。
「誰?」
「私は、シュケルといいます。貴方は?」
「え?」
「貴方の名ですよ」
「ワタシは……マハル」
彼は言う「泣かずともきちんと帰して差し上げますよ」と、そして――少年の目元を拭った。
◇◇◇
そのあと彼はマハルを連れて近くの村へ行き、親を探した。
けれど、そこはマハルの知らない土地だった。
風の匂いも、村の匂いも、どこか違う。
途中で足を止めたマハルに、シュケルが茶屋で団子を買ってくれる。
食べたことがないと笑うと、シュケルは「それは良かった」と微笑んだ。
「どこから来ました?」
「……風の大陸」
「そうですか。ここはアケドラルという世界にある北の国です。覚えはありますか?」
マハルは首を横に振った。
「なるほど……もしや、気付いた時には森にいましたか?」
「うん」
シュケルは何か思い当たったらしく、フフフと笑って立ち上がる。
「戻りましょう、森へ」
代金を長椅子に置くと、シュケルはマハルをそっと抱き上げた。
その腕はひんやりしているのに、不思議とあたたかい。
胸のあたりで聞こえる鼓動がやけに近く、雪解けの朝のような匂いが鼻をくすぐって――マハルはほっとする。
この腕の中にいれば、どこへでも行けるような気がして。
マハルはそっと瞳を閉じた。
次に瞳を開いた時には、緑豊かな森の中へと景色が変わっていた。
ほんの一瞬、瞬きの間にぱっと――まるで手品のように。
「では、ここからは少し歩きますよ」
その一言で、地面に降ろされるのだと悟る。
シュケルがゆっくりとかがみ、離れていくぬくもりに寂しさを覚え、その白い衣服をぎゅっと握った。
それに気付いてか、シュケルが軽く小首を傾げ、問うようにマハルを見つめる。
穏やかに瞑った瞳は、こちらが見えていない筈なのに、どこかあたたかく見守るようで――。
薄い唇がわずかに弧を描き、上品に微笑む。
胸の内で何かが、ふわりと爆ぜた。
急に気恥ずかしくなり、ぷいと視線をそらす。
そして、逃げるように自ら地面へ降り立った。
そんなマハルを特に気にすることもなく、シュケルは前を歩き出す。
その後ろ姿に、マハルは小走りで付いていった。
時おり落ちた木々の枝をミシミシと踏み、ぬかるんだ土を踏みしめながら。
途中でマハルがつまずき転ぶと、シュケルは服についた汚れを払い、そっと手を取って歩き出す。
まったく知らない土地で、まったく知らない相手。
だが彼が現れてから、マハルは不思議と怖くない。
本当はもっとこの人物を警戒した方がいいのだろうが、どうしてもそうは思えない。
やがて、シュケルは木陰で足を止めた。
切り株に腰を下ろし、その切り株をぽんぽんと軽く叩いて、マハルにも座るよう促す。
「休憩しましょう」
隣に座ったマハルはシュケルを見上げた。
木漏れ日がシュケルの頬を照らし、流れていた一筋の汗が光る。
雪のように白いその顔は、どこか儚く、体調が優れないように見えた。
「大丈夫か?」とマハルは尋ねた。
するとシュケルはフフっと笑って、マハルの頭をぽんぽん撫でる。
マハルはそっと、彼の顔を盗み見た。
光の粒が髪に溶け、白く長い睫毛に心臓が変に跳ねる。
どうしてか分からない。けれど、彼の隣にいると胸が落ち着かなくなる。会ったばかりの相手なのに、その理由を考える前に、また「フフフ」と笑う声がして、思考が霧に溶けた。
「思ったより日差しが強いですね」
「うん、ここは暑い。ワタシの故郷は風が吹いてもっと涼しいよ」
「フフフ、いいですね。とても過ごしやすそうです」
マハルは瞳をキラキラさせて「うん!」と大きく頷く。
そして両手を広げ身振り手振りで風の大陸についてシュケルに一生懸命語った。
風の大陸では自然を大切にしており、皆が自然と仲が良いこと。
大きな川があってそこで魚が獲れること。
〝紅い実〟が生る樹があって、それを皆で大切に扱っていることなどいっぱい。
シュケルはその話に耳を傾けながら、やはり穏やかに瞳を閉じ、掴みどころのない微笑を浮かべていた。だが不思議と、その笑みが嫌ではないのだ。
「そうですか。それはとても素敵な所でしょうね。私も行ってみたいものです」
「だったら来ればいい!」
「ええ、いつか」
「そしたらワタシが嫁に貰ってやる! シュケルはワタシの恩人だから絶対感謝されるぞ! 誰も文句も言うまい、ワタシが言わせない」
シュケルが男と知ってか知らずか、マハルは自信満々に胸を張ってそう言った。
「それはそれは、有り難い申し出ですが遠慮しておきます」
「む、思慮深いんだな」
「フフフ、どうでしょうね」
「でも遠慮はいらない。むしろ気に入った!」
シュケルは礼を言うと「そろそろ行きましょう。おそらくもう直ぐです」と立ち上がり、手を差し出した。
マハルは元気に頷いて、二人は更に森の奥へと入っていく。
やがて開けた場所へ出た。
木々も草もなく砂のような土だけが広がる痩せた土地、上空から見ればおそらく、森の中に突然ぽっかり穴が空いたように見えるだろう。
その森との境目に大きな砦があった。遠目でも分かる岩を切り抜いたような砦。
「やはりまた――」
「また?」
「貴方はあそこから来たのでしょう」
シュケルはそれには応えず、砦の中に壁掛けの大きな鏡があること、そこがおそらく風の大陸へ繋がっていることを話し始めた。
「何かをきっかけに異界の門が開いたのでしょう」
つまり、その鏡こそが異界――マハルの世界へと繋がる門なのだ。
「わかった。行ってみよう」
当然シュケルも付いて来るものだと思い、マハルは繋いだその手を引っ張ったが、シュケルはそこから動こうとしない。
「シュケル?」
「私はここまでです。貴方が鏡の中へと消えると同時にあの砦も消えるはずですので」
「シュケルも一緒に来ればいい、シュケルはワタシの嫁になるんだ」
するとシュケルはやはり不敵に笑って言った。
「――――たら、」
風が二人の間をすり抜けた。
それを聞いてマハルは大きく頷くと、一人、砦へ向かって駆け出した。
◇◇◇
「――そうだ、あの時ソナタは確かに言った」
岩で出来た強固な砦。そのバルコニーに、二人の姿があった。
カボチャ達からシュケルを連れ去ったマハルは、真っ先に城へと向かった。
長く急な岩造りの階段の上空を飛行し、無骨な謁見の間へと入っていく。
果たして玉座の後ろの壁に、それはあった。
岩で出来たこの砦には似つかわしくないほど、煌やかで大きな――鏡。
その鏡がゆらりと夜空の色に染まった時、両腕に抱えていたシュケルの重みが消えた。
気配のある方へ振り返ると、数歩離れた場所で穏やかに微笑むシュケルが佇んでいた。
鏡の奥がゆらゆらと夜空のように揺らめき、黒い波紋が静かに広がっていく。
「フフフ、私はそちらへは行けませんよ」
「またそれか、遠慮はいらぬぞ」
マハルが片手を伸ばし歩み寄ると、シュケルはその分後ろへと下がっていく。
普通なら嫌がっていると分かるはずだ。
だがマハルは、シュケルのことを「奥ゆかしくて恥ずかしがり屋」だと信じて疑わない。――とんだ勘違いである。
「マハル、貴方のお気持ちは嬉しいのですが、私には魔王様のもとでの暮らしがあります」
「その魔王とやらが邪魔をしているのか。先程の輩といい、ワタシとシュケルの仲を引き裂こうとするとは許せん!」
「私が望んでのことですよ。……困りましたね。やはり貴方に言葉で伝えるのは難しいようです」
油断ならぬ相手と距離をとるように、シュケルは徐々に後退していく。
気付けば二人はバルコニーまで出ていた。
吹き荒ぶ風が砂を巻き上げ、二人の間をすり抜けていく。
シュケルの後ろには岩で出来た腰壁があった。
この壁を越えた先には、遥か遠く――砂の海のように霞んだ地面が静かに広がっている。
まるで〝死〟が静かに待ち受けているかのように。
「シュケル、それ以上下がるのは危険だ」
「フフフ、そうでしょうか」
「……いったい何がしたいんだ? まさかあの〝約束〟を忘れてしまったのか?」
「約束ですか……」
「――そうだ。あの時ソナタは確かに言った。ワタシはそれを今日まで胸に――」
「はて、どんな約束でしょう?」
マハルの水浅葱色の瞳が、かすかに揺れる。
「ワタシが大人になってもソナタを覚えていれば、迎えに来て良いと言ったじゃないか」
少し悲しげな声でマハルは言う。だが、すぐにハッと思い直す。
「そうか、怒っているんだな。迎えに来るのに十三年もかけてしまった。いや、もしやこちらではもっと時が経っているのか? ソナタがあの頃と全く変わらぬ美しさで気付けなかった。すまないシュケル!」
――もしこの場にカボチャがいたら、背筋が凍り、顔面蒼白になっていただろう。
「シュケルが美しい!?」とマハルの視力を疑い、いっそ心配したに違いない。
そしてカインなら「シュケルは綺麗だよ。優しいし」と平然と言ってのけるので、カボチャはこの世の地獄を見たような反応をするのだ。
だがこの場にカボチャはいない。ツッコミ役が不在。なんならカインもいない。
「私も、貴方があの幼子だったのかと思うと感慨深いです」
魔王がいたら「十は数えた子を魔族基準で幼子と言うのはどうなのか」とぼやいたかもしれない。もちろん魔王もこの場にはいないが……。
一瞬、風が止まった。
ほんの刹那、世界が息を潜める。
シュケルがマハルへ身体を向けたまま、背後の腰壁にそっと飛び乗り、マハルは息を呑む。
「ですが――そろそろ、この追いかけっこも終わりにしましょう」
再び風が吹いた瞬間、その姿は――後ろへと倒れていった。




