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府中に初めて行ってから、はや1年。読みも書きも、もう完璧だ。好きなものを読むために字を覚える。その父の策略は、大いにハマった。同時に俺も意識を変えた。
俺が読み書きに苦労してた理由は、単純に「知ってる」からだ。昭和、平成、令和の日本語が染み付いていて、それが邪魔をしていた。「新たな言語を身に付ける」。その意識に変えた瞬間、抵抗なくスポンジの様に、知識の吸収が始まった。子供の脳の吸収力えげつない。吸ったまま保持して、全然出て行かない。「あのー、なんだっけ、アレ」を実体験として身に染みてるだけに、感動しかない。書きもそうだ。中学の頃必死こいて練習した英語の筆記体。令和では習わないらしいが、昭和生まれはやらされた。筆記体=くずし字だと気付いた瞬間、読める様になった。
新たな文法と新たな字、発音は出来る。ヒアリングも問題ない。するとどうだ。あんなに苦労してた読み書きの習得が一瞬だった。英語を一から学ぶよりもずっとラクだ。おかげで寺子屋の師匠には、違った意味で疑われ始めたが、今度は父が「家でも教えてますゆえ」で押し切れたそうだ。そのせいでやいちが、いらん苦労をしてる感じは否めない。その鬱憤を剣の練習でぶつけられてる気がしないでもない。この年代の年の差はデカいこと、分からんかな。
ここまで来ると、人に聞くことを躊躇しなくなってきた。知らないことは、単に知識不足。背伸びして知らない言葉の意味を聞く、ただそれだけだ。
その一方で、全く慣れる気配すらしないものがある。漢数字だ。算数、数学を全て漢数字で表すなんて正気の沙汰とは思えない。一向に慣れない。慣れないどころか拒否反応出るんじゃないかってくらい、違和感ばかりが大きくなる。言葉を選ばずに言えばイカれてる。数字が恋しい。そして筆と数字の相性も悪すぎる。漢数字の書かれた問題→アラビア数字に変換→そのまま計算→漢数字に変換。単に問題を解くことの3倍から5倍くらい時間が掛かってる気がする。単位も理解して使えるが、まだ違和感が拭いきれない。果たして慣れるのだろうか。
あと変わったことと言えば、みねだ。少しずつ動ける様になって、可愛らしさが増している。日に日に可愛くなっている。今更ながら、前世で娘を持った友人たちの言っていたことが理解できる。妹だけどな。そしてこんな可愛いみねに表情を変えない父を、朴念仁だと思ってる。
母はようやく、前世の新入社員の子くらいになったのか、急に気恥ずかしさが出てき始めた。前世の記憶がここでも邪魔をする。考えてもみろ。前世で管理職として怖さを感じさせない程度の威厳を出しながら、さしすせそ対応されてたことを思い出すと、そりゃ、無邪気に甘えられんよ。「最近は甘えなくなったのね。ちょっと寂しいわ」なんて言われても、不必要なプライドが邪魔をする。
祖母も前世の嫁さんくらいになった印象だ。実際の年齢は知らんけど。でもこちらにたいしては「婆様」呼びすることに躊躇はない。気恥ずかしさが皆無だと、こうも衒いがないものかと我ながらびっくりだ。
そして塵劫記。正直舐めてた。塵劫記を、というよりはこの世界の数学のレベルを、と言った方が正しいかもしれない。普通に解いてっても結構高度。算数から昔のセンターレベルまで網羅されてる印象。ハマりすぎて、夜の塵劫記の禁止令が出されてしまった。日の出てる間だけ。それが俺に許された時間だ。
解けた問題も解答例を見てみると、全く解き方が理解できないものが結構ある。円周率も3.16だし。外接円とか内接円とか懐かしすぎるし。知らん公式もいっぱい出てくる。面白い。実に面白い。
気に入らないのは、解答例が美しくない。数学の問題集っていうのは、答えではなく解答例にこそ価値があるのに。なんていうか、合理性を感じない。解が導けている以上、不合理ではないが、非合理だ。論理的でない。機能性を感じない。秩序も必然性も感じられない。だが、見知らぬ公式を当たり前のように使ってみると、そちらの方が手数が少なく終わることもある。三平方の定理も三次関数もある。頭がギュンギュン回る感じが楽しすぎる。高校受験の頃、田舎には無関係なのに、都会の有名高校の数学の入試問題にチャレンジしてた頃を思い出す。
もう一つ変わったことと言えば、日野の寺にも算額絵馬が奉納される様になってきたことだ。気付いた時にはテンション上がってお師匠さんに「解いていいか」と尋ねたものだ。「何じゃあれは?好きにせよ」と、つれない返事だったが。この近所にも算法好きがいる、何よりの証拠なのに。
それでも儀礼的なことも分からんし、答えて何かメリットがあるのかどうかも分からん。とりあえずは問題だけ書き写しておいた。書き写しながら頭が周り始め、解法が見えてきて、思わず「これこれー」とテンション上がりかけたところで、「おーい、とうじー、帰るぞ」とやいちの声。慌てて追いかける。
「そういえば今度、また府中に行くって婆様が言ってたぞ。すももを買うんだと。楽しみだな」。じゃあまたあの神社に行くのか。ついでに絵馬を確認しよう。作法を知ろう。
どうもやいちは年の近いいとこと遊ぶのが、一番の楽しみのようだ。分かるぞ。上からすると、下と遊ぶのに加減が分からないんだろ?持て余してる感があるんだろ?たまには自分が下になって、全力で相手してもらいたいんだろ?
俺もそうだ。塵劫記を語る相手がいない。同年代は当然だが、寺子屋の師匠たちにも塵劫記を楽しんでる人はいなかった。知ってはいる、でも触ってない。ま、小学生に教えることを前提にするなら、最低限の四則演算と生活に役立つ算数だけで十分だもんな。でも寂しい。語れる相手が欲しい。




