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side 杉亨二
酒に逃げたこともあった。それでも先生からの叱責と、何のために江戸に来たかだけは見失わずに、何とか耐え切った。踏ん張った。でも、もう藤二と会いたくない。次は自分がどうなってしまうか分からない。
あの後も、何度も先生から打診はあった。その度に固辞した。気がついたら依頼内容が変化していた。内田様の手伝いだと。相手が藤二ではなく、内田様ならまだ可能だ。何度も声を掛けていただき、固辞し続けるのも悪いし。
内田様の手伝いなら、ということで先生に引き受ける旨を伝えた翌日、先生に急に呼び出された。何事かと先生の元へ向かうと、そこには先生の他に内田様がいらした。
挨拶をする間もなく、先生からの追及。酒に溺れてた頃、誰かに馳走になったか、と。正直あまり覚えていない。では、二日酔いになる程飲まされたことは?と聞かれ、思い出した。妙に目の鋭い男に奢ってもらったことを。それを話したら、二人で目を合わせ、ため息をつかれた。
どうもその男は、かの佐久間象山殿だったらしい。そこからの話が眉唾ものだったが、一方であり得るかも、と思わせる内容だった。藤二を怪しんでいた佐久間殿が、俺から情報を聞き出し確信を持つ。その藤二に佐久間殿が狙いを付け、今度開かれる佐久間殿の塾に誘われている。
2人合わせての佐久間殿に対する見解が、それはまあ酷いものだった。賢人2人による、思いつく限りの罵詈雑言とでもいうのか。しかも、最後には「だが、天才だ」なんて言ったら、逆に興味を持ってしまう。
内田様は、藤二を行かせたくないが、ああなると佐久間殿はしつこい。行かせない限り付き纏う。だが、一人で行かせるわけにはいかない。何をしてくるか分からない。と続け、先生は先生で、お前の失態が一因だ。内田様の手伝いではなく、急遽そちらにお守りとして参加しろ、と来た。
藤二のお守りなど、と言いたくはあった。だがそれ以上に、佐久間殿の塾に興味があった。藤二の送り迎えするだけ、あとはそこであったことを、どんな話をしていたかも含めてきちんと報告しろと厳命された。
久しぶりに見た藤二は、変わらなかった。背格好は多少変わっていたように感じたが、相手は子供。何の不思議もない。
塾の中は、始まって早々に熱気が凄かった。凄まじかった。かくも崇高な思想の御仁が、これほどの数いるとは、はるばる江戸まで来た甲斐があった。そう思えた。知った顔もちらほらあった。惜しむべきは、自分の役割はお守り。それさえなければ、自分も混ざりたかった。佐久間殿はこちらを、正確に言えば藤二を観察、そんな目をしていた。
その張本人は、まるで熱が届かないのか、それともまだ子供だから話を理解できないのか、興味なさげな目をしていた。こちらに向かう道中の方が、むしろ目を輝かせていた気もする。何度目かのため息のあと「帰りましょう、時間の無駄です」。そう言われた。
耳を疑った。この様な貴重な場を自ら離れる?来たくて堪らぬ論客もいるだろう。信じがたい暴挙。しかし、俺はお守り。藤二のおかげでここに居られる。俺に選択権はない。全員の目がこちらを向く。人によっては俺を睨んでる。言ったのは俺じゃない。
佐久間殿の睨みつける目と共に発せられた言葉に、藤二は真っ直ぐに答えた。「願望と何の制約もない『べき論』からは何も生まれません。また、対案なき批判は非難。非難からも何も生まれません。よって、ここにいる価値を見出せません」。そう言って去って行った。慌てて後を追った。後ろから怒号が飛んで来たが、俺は知らない、何も聞こえない。
これで帰れれば良いのだが、送り届けるまでが俺の役目。その道すがら、聞かずにはいられなかった。その問いに対する藤二の答えが、また俺を惑わせる。
「熱に浮かされるのは、決して悪いことではありません。ただ、熱しやすいものほど冷めやすい。また、あれは議論としての体を成していません。議論をするのであれば、まずは目標設定、次にその目標に到達し得るためのあらゆる可能性を排除せず、壁が生じる可能性も楽観せず、その上でどうしたら達成できるか、ということを冷静な判断を下すべきです」。
藤二の中には「議論とはかくあるべし」が存在している。そこから外れたものは議論ではない、と断罪できるほどの。そして、藤二の言う「議論とは」という意見。理解しきれずとも、理解できる。
とりあえず藤二を無事送り届けた。まだ俺の役目は終わらない。先生に、今日あったことを伝えねばならない。
数日後、佐久間殿のところへ行かないとは聞いていた。だが、藤二を訪ねずにはいられなかった。藤二の思考を知りたかった。
藤二だけの場合、自分が塾を開いた場合、分析という考え方がある程度見えてきた。確かに藤二の言うことは、熱く意見をぶつけ合うよりも、よほど筋が通ってる。では、村として、藩として、国としてと考える場合、どうすればより良い分析となるのであろう。間違いなく言えるのは、そこに熱や思いなどと言う抽象的なものが介在する余地はない。
より深く考える必要がありそうだ。




